2006-2015 ひねくれた日常

資本主義の欲望にまみれた日常生活はとても楽しい。いつまで楽しく暮らせるのだろう?いつまでも楽しく暮らすために考えよう。

ゆとりも詰め込みもいけないなら

2007年01月25日 | Weblog
ちょうど良い教育ってあるのでしょうか?

いったい誰にちょうどよいのでしょう?

優秀な国民になって欲しいから、たくさん教える教育をしたら、難しくてわかりません、と、言われた。

なら、ゆとりを持たせようと思って、勉強を減らした。

そうしたら、学力が落ちるからダメと言われた。

誰を教育しようとしているのか?

そもそも、ランダムに集めた地区の子どもに教育するんだと言うことを想定しているんだろうか?

いろんな子どもがいるのに、教育はひとつ。

いろんな子どもに、いろんな教育のほうがしっくりくる。

「みんなちがってみんないい。」が、学校の合言葉みたいになっているのに。

やっていることは、「みんな同じで、同じがいい。」


誰が、みんな同じ教育を望んでいるんでしょうか?

私は、そんなこと聞かれたことなんか無いし、考えたことすらなかった。

そういうものだと思っていたから従っていただけ。

同じ教育というのは、130cmから160cmの子どもが100人いるのに、

145cmの子供用の服を100着作って支給するようなものではないですか?

それで、小さいからもう少し大きいのにしよう、とか、大きいからもう少しちいさくしようとか。

そんなことを言っているみたいに見える。

誰が、同じ教育を望んでいるのか、良く考えてみたい。

平等じゃないのはよくないと思うかもしれない。

平等じゃないといけない、って、いつの間にか思い込んでいた。

平等ってなに?

子どもにお菓子をあげるんだったら、平等にしなくちゃ。と、思う。

子どもに教育をするのだから平等でなくてはいけない。

教育は、平等に受けなくてはと思う。

でも、教育の中身は、それぞれに合わせたほうがいいと思う。

例えば、得意なことを見つけて、個別に伸ばしてあげたい。

そんな時間があると、子どもが生き生きするのかも。と思う。

そんな不平等なこと、とんでもないですか?

そんなこと、家でやることかもしれません。

すると、塾や、スポーツ教室が儲かっちゃいます。

学校が平等にこだわって、何もかも半端だから、塾や、スポーツ教室が営業できるんです。

学校って、どこもプールが完備しているけど、ろくに使ってないと思う。

学校のプールだけでは子どもは泳げるようにならない。

だけど、みんなすごく泳げるのはなぜ?

どうして、ピアノの上手な子とかいるんですか?

学校では、リコーダーがちょっと吹けるようになるだけ。

習字くらい、もっとちゃんと教えて欲しい。

何か、ひとつでもいいから、ものになるまで教えて欲しい。

みんな一緒がだいじで、まとめて面倒見られるのと、一人ひとりに合った丁寧な教育をしてもらうのとどっちがいいでしょうか?

私達は、まとめて面倒を見られることを、平等だから素晴らしいのですよと、教え込まれているのかもしれない。


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