獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

対話ブログ・ステージⅡ:その後(6)

2022-03-28 01:24:05 | 対話ブログ

■の文章は、シニフィエさんの対話ブログからの引用です。
(私はシニフィエさんの主張に必ずしも賛同するものではありません)


■『11月18日は創価をやめる日』        投稿日: 2015年10月28日

前スレでモニカさんが言われていた
>マニュアルじゃなくて自分で思うことを言わないから、つきつめると答えられなくなるんですよ。 
ほんとそうですよね。学会員は自分で考えることをしなくなっていることに自分で気づけなくなっている…というか、自分で考えなくていいことに喜びを感じている。もうこれだけでもまともじゃないです。「創価学会のいうことを信じて生きていけば自分の人生は絶対に間違いない」という思考に陥ってしまうと、もはや自分で考えないことに疑問を持てなくなるんだと思います。私も昔はよく創価の現実的な矛盾が気になりはしても「そこは考えないようにしよう」と自分で自分を思考停止させていました。疑問を持つ自分が悪いんだと罪悪感さえありました。たしかにそうでもしないと創価学会はおかしなことだらけでしたからね。
創価の幹部の指導とは「何があっても疑わないのがこの信心だ」ということを繰り返し言うだけです。疑わなければ幸せになれる。それも絶対的幸福というわけのわからない言葉に納得していました。そしてちょっとでも疑えば途端に地獄に堕ちるという、これもまたわけのわからない言葉で脅され続けていたんです。幹部の指導もまた自分で考えた指導ではなく、上から言われたことを自分で考えることなく伝えているだけです。だから自分で考えて出てきた素朴な疑問にも何一つ答えられない。
たとえば去年の11月18日にご本尊の解釈が180度変わったことに、何の疑問も持たず、人から訊かれても何一つ答えられない自分に対して「なぜ答えられないのか」という思考ではなく「そんな疑問が出る人間の思考がおかしい」としか思えないんですよね。考える人間の思考が間違っていて、考えない自分達の思考停止状態こそが正しいとしか思えないんです。学会員とはそんな人間の集団です。だから「まあユル活だったらいいか」というのは、すでに思考停止状態だということであり、じつはそこですら大きな間違いです。
自分で納得できなくても組織に身も心も捧げてしまうことに人生最大の喜びを感じる人間の集団。これが創価学会というものですし、創価学会に限らず、カルトといわれるものの実態です。いわゆる新興宗教のほぼすべてが人間の恐怖心と依存心と物欲を巧みに利用して信者のお金を巻き上げる詐欺団体だということが見えてきます。それはほんの少しでも自分で自分のことを考えればわかることなんですが、たからこそ創価は会員に徹底した思考停止を施します。会合も新聞も選挙もみんな思考停止のためにやっていることだし、同時に会員からお金を巻き上げるための一石何鳥もの方法論です。バリ活はもちろん、ユル活であっても、そして非活であったとしても、それは創価学会を存続させていることに貢献していることと同じだと言えます。
ユル活や非活のみなさん、万難を排して創価を静かに去りましょう。それが創価学会が消滅するための一番の方法だと私は思います。バリ活さんはユル活さんや非活さんがいるからいつまでもバリ活の地獄から抜けだせずに人生を棒に振っています。どなたかもおっしゃるように、ユル活さんや非活さんの存在はバリ活さんの行動原理になっています。たくさんの非活さんが脱会しても創価は変わらないと思われがちですが、変な言い方ですがユル活さんも非活さんもバリ活さんの肥やしになっています。創価はおかしいと気づいているのに脱会しないでいるということだけでも、創価学会の存続に貢献しているということです。かといって個人が創価学会と闘っても、よほどのことがないかぎりは勝ち目ないと思います。創価学会は敵だと看做せば会員から巻き上げたお金を使って暴力団でも国家権力でも使って潰しにかかります。まともに闘える相手ではありません。しかし創価の最大の弱みは会員が減ることです。ユル活や非活のみなさん一人ひとりが静かに創価を去ること。これが創価学会の存続を揺るがす最大の攻撃です。
『11月18日は創価をやめる日』これにはそんな思いが込められています。
活動するモチベーションが持てないユル活さんや、盲信活動家と関わりたくない非活のみなさんが、自ら脱会の意思表示をするだけで、多くの人が創価学会の被害から逃がれる道が開けるんです。所属の地区部長さんに「今日で創価学会員をやめます」と伝えるだけでいいんです。他の誰にも止める権利はないんです。「辞めたいんですけどいいでしょうか?」なんて誰にお伺いをたてることはありません。オレオレ詐欺の電話の相手に「やっぱり振り込むのはやめようと思うんですがいいでしょうか?」って訊いてるようなものです。一刻も早く詐欺団体に貢献するのはやめましょうよ。本来なら「今日創価やめます」この一言で脱会成立です。実際に私はそうしました。聖教新聞社の都合で新聞代だけは月末まで払いましたが、その日以来、学会員は一切何も言ってきません。通りすがりに選挙のお願いをされたくらいです。
脱会届けを内容証明で本部に送りつけるのは本人の気持ちの問題であって、必ずそうしなければならないものではありません。
たいして害はないからそのままでいいやと思ってほったかしにしているユル活さんや非活さんの存在は、それだけでも盲信者を励まし、創価学会の詐欺行為を助長していることになっているということです。
もちろん11月18日でなくていいですから、あなたの地区の地区部長に一言「創価学会員をやめます」と伝えてください。
ということで、今回のテーマは『11月18日は創価をやめる日』です。
この創価学会創立記念日にまずはユル活さんや非活さんの創価学会員の数がごっそり減るのは、創価学会にとってはかなりのダメージになると思います。もちろん来年の11月18日めがけても訴え続けます。11月18日が創立記念日よりも創価をやめる日が有名になるくらいになればいいですね(笑)


■都合と信仰                  投稿日: 2015年11月5日

前回のスレッドでは、いろいろと考えさせることがありました。いい機会になったと思います。また、非活や脱会者の意味について意見の分かれるところもあったようですが、それぞれに皆さんが真剣にお話をされていて、私としてはそれほど困った事態とは思っていません。賛同するしないは別にして、他人の意見を聞き、自分がどう感じ、どう考えているのかを検証していくことは、とても大切なことであると思いますし、そこには「正しい答え」などありはしないだろうし「正しい答え」を求めることそのものがおかしいのだとも思います。
ときどき勘違いされることがあるのですが、このブログで私が何かしら正しい考えを述べているかのように感じていらっしゃる方がおられますが、それこそほんとの勘違いだと思います。私は何が正しくて何が間違いかを人に押し付けるつもりは毛頭ありませんし、そんなものがあるなら私のほうが訊きたいくらいです(笑)。ただし私が体験的にはっきり言えることは「創価学会は宗教ではなく詐欺団体だ」ということです。何が正しいのかは私にはわかりませんが、創価学会が宗教ではなく詐欺団体だということは、この4年間のみなさんとの対話を通じて、完璧に揺るがないものとなりました。これは気づいてしまえばそんなにわかりづらいことではありません。むしろわからないことのほうが不思議なんですよね。そう、創価に関わることのなかった方が、客観的に創価の姿を見れば、これはもうどっからどう見てもただの詐欺団体にしか見えないはずです。だから何らかのかたちで創価と関わりのある人も、できるだけ創価とは関わらないようにしているし、もともと関わりのない方にとっては「ただの非常識でおかしな人たち」として、まったく関心をもつこともありません。
何度も言いますが、私は創価が詐欺団体であると言うこと以外に、何も断言できることはありません。むしろはっきりとした答えは出なくても、少なくとも今の自分はこう思う。あるいは今までこう思っていたんだけど、こうした考えもあるんだということに気がついた。といった常に現在進行形の自分であり続けたいと思っています。答えは見つからない。それでけっこう。そう思います。
西洋の近代哲学では、あるとき神の力がなくとも人間は真実に向かって進むことができるという確信を「弁証法」という当時としては画期的な考え方によってつかみ、新しい時代を迎えることができました。それまでは人間は神の力なくしては何もなしえない弱い存在だということが前提の世界でした。真実とはなにか、それがたとえ今は見つけることができなくても、人間の信念と努力によって、真実への階段を上ることができるのだという世界観ができました。そして西洋哲学の世界においてはニーチェの「神は死んだ」との言葉に象徴されるように、近代と言う時代の幕開けとなりました。現代に生きる私たちにとっては、さらに非西洋社会に生きる私たちにとっては西洋の神の概念を否定することは、それほど難しいことではありませんが、当時の西洋人にとっては、それはもうとんでもないことでした。ちょうどいままで創価を信じて活動してきた人が、創価の真実に気がついて、今までの自分は創価にいいように騙されお金も時間も搾取されてきたんだと言うことを認めざるをえなくなるようなものです。それはそれは戸惑いもするでしょう。いままでの価値観が180度ひっくりかえってしまうのですから。精神を病んでもしかたのないことなのかもしれません。
でも今でも西洋の一般社会における「神」つまりキリスト教の存在は大きな影響力を持っています。それは「神」が存在したほうが都合のいい社会だからだと思います。哲学者はとうの昔に神の概念を否定したにもかかわらず、一般社会を維持していくには「神」の存在なくしては道徳心すら保てないような社会なのです。私はこのごろ特に思うことなんですが、ことの正邪にかかわりなく、人はそのときその場所の「都合」によってものごとを判断し行動する。あたかもその「都合」が「正しいこと」であるかのようにです。そのときの自分の都合を「正しいこと」に仕立て上げて生きていく。それは創価に騙されることも「自分の都合」だと言ってもいいかもしれません。「自分の都合」はどうやったら「正しいこと」だと思えるのか。それは「信じること」意外にないと思います。言ってみれば信じるということは思考を停止して「そうだ」と決めつけることに他なりません。理屈を飛び越えて、どんな不条理なことであってもそうだと信じてしまう力のあるもの。それが宗教であり、そうした宗教の「思考停止力」を悪用して詐欺を思いついたのが創価学会だと思います。信じることとは考えないこと。疑うこととは考えること。近代西洋の哲学者は考えることによって神を疑い、新しい世界観を切り拓いたと言えます。牧口常三郎がどうだったのかは知りませんが、戸田、池田、そして現在の創価学会中枢部は、完全にこうした宗教の思考停止力を利用して、多くの人々を騙し続けて私腹を肥やしてきたのだと言えます。宗教の思考停止力を利用して、人の悪を悪と見抜く力を削ぎ落して騙してきたのが創価学会です。
(もちろん西洋近代という時代が良いものだったのかどうかは別の話です。もっといえば、それはどこかでボタンのかけ違いをしてしまい、神の代わりとなる絶対的な支配者、つまり経済によって世界は支配者と被支配者になってしまいました。そしてそれは今でも続いています。)
今の自分の考えは、単に自分の都合のいいような考えを自分に押し付けているだけなのではないか?この検証は大切だと思います。それはついつ出しゃばったことをしてしまったり、言ってしまったりする人にとってはもちろんですが、常に自分に自信をもてずに付和雷同してしまう自分に嫌気がさすという人も、よくよく考えてみると、それは自分が傷つきたくないから、言い換えれば自分可愛さのひとつの側面であるのかもしれないなと、自分のことを振り返ってみて思います。どこかで自分のことを自分以外の人のせいにしてしまっている。自分は被害者なのだと思いたがる。これこそ「自分だけの都合」なんじゃないかと思ったりします。たとえそれが自分の都合による考えからくる発言であったとしても、それと同時に、他人の意見も頭から否定せずに理解した上で、あるいは理解しようと努力した上での対話であれば、それはどのような意見の違いがあったとしても、対話が成立するのではないかと思います。みんな基本的に自分のテリトリーの範疇で、自分の都合でしか話ができないものです。
「何が正しいのか」ではなく「そういう考えもある」ということを受け入れることのできる自分になる。対話とはそこから始まるんだろうなと、ちかごろぼんやり考えています。
何となく話が長くなってしまいましたが、今回のテーマは「都合と信仰」とさせていただきます。ちょっと難しい言い回しかもしれませんが、決して難しいことではありません。要は「創価は宗教に見せかけて人を「自分の都合」という思考停止状態にさせてお金を騙しとってきた史上最悪の宗教詐欺団体だ」ということです。
皆さんが活動家時代に自分の信仰の原動力となっていた「都合」について考えてみてください。「いったい自分はどんな都合によって活動していたのか」という視点で振り返ってみると、創価がいかに詐欺団体だったのかということが浮き彫りになるのではないでしょうか。
いよいよ「11月18日創価をやめる日」が迫ってきました。決して全ての人に「なんとかしてこの日に脱会しなさい」なんて言ってるわけではありません。そんなふうにとらないでくださいね。なんとなく「脱会したいんだけど、背中をもう一押ししてほしいな」と思っている人のためのひとつの提案なので、「シニフィエがとんでもないことをぶちまけてるぞ。辞めたくても辞められなくて苦しんでる人間の気持ちも知らずになんて傲慢なやつだ」なんて勝手に思わないでくださいね(笑)彼氏に告りたい内気な女の子がバレンタインデーを口実に片思いの彼氏にチョコレートをあげるようなものです。ひとつのきっかけというだけの話ですから、バレンタインデーにチョコレートをあげられないからといって落ち込む必要はありません。べつに誕生日でもいいし、何でもない日でもいいんです。
そこで一句
  「創価は詐欺だ」と君が言ったから11月18日は脱会記念日
すみません パクリです(笑)


■恐怖心で縛られた学会員の心           投稿日: 2015年11月12日

前のスレッドも、はやくもみなさんからのコメントが100を超えてしまいました。ひとつのスレッドのコメントが100を超えると、画面をスライドするのもつらくなるので、コメントが100になるのを目処に更新するようにしてきたのですが、近頃はひとつひとつのコメントの内容がとても充実していて、管理人の私でさえすべてをじっくりと読むことができないくらいです。
ただこの形式は変えないほうがいいかなと思っています。いちおうスレッドごとにテーマがあって、テーマに沿った話や、もちろんそうでない話も大いに結構です。多少は脱線したほうが、次のテーマが飛び出したりするので助かっています。
それにしても皆さんのコメント、ほんとに素晴らしいです。「このブログをやっててよかった」とつくづく思います。みなさんのコメントによって多くの方が創価の悪に気がつき、「おかしいと思っていた自分が間違っていなかった」と心が救われています。創価の詐欺のもっとも汚いところは、宗教的な「人間が抗えない不思議な力のようなもの」を持ち出して脅して、覚醒させないようにしているところです。少なくとも本来の仏教は、そのような摩訶不思議な力を否定しています。創価も「仏法は道理だ」などと言いながら、「ご本尊様に本気で祈れば敵わないことはない」などと、一神教と変らないことを平気で言います。これに限らず創価の言う教義なんて、ほんとに出任せのインチキでしかありません。会員が喜んでお金を出すための何とでも言いますし、教義などどのようにでも変えていきます。言ってみれば「宗教を騙った詐欺、恐喝、かつあげ」です。それも一度騙したら最後、死ぬまで徹底的に搾り取ります。盗れるものがなくなったら簡単に捨てます。都合が悪いことはすべて知らんぷりです。どうにもならないことは政治と暴力団の力を使って闇に葬ります。そんな血も涙もない世にも恐ろしい恐喝集団にいることに気づいたら、一日もはやく縁を切りたいと思うのが当然だと思います。こう言うと「そうは言ってもなかなか人間関係が難しくて、簡単にはいかない」と言う方もたくさんいらっしゃいます。それもよくわかります。私も年老いた母には「創価は詐欺だったんだよ」とは言えませんでした。そのうち母は認知症が進み、今では私が誰かもわからないようになってしまいました。一生を創価に捧げ、何も知らないまま死ぬのを待っているような状態です。兄夫婦は60代後半ですが、あいかわらず支部の中心者として活動をしています。おそらく社会的に創価が詐欺だったということが明らかになるまでは信じ続けるでしょうし、私が何を言おうが聞く耳をもつような人ではありません。そういう意味では私は母も、兄も見捨てているということになります。創価が詐欺だとわかっていながら、そこから親兄弟を救ってあげることができないということの苦悩といいますか、後ろめたさといいますか、何ともやりきれない気持ちです。
これが単なるおかしな新興宗教であればまだいいです。人は何を信じて生きても、他人からとやかく言われる筋合いはありません。憲法で保障されていますからね。でも創価はそれとは違うんです。オレオレ詐欺に引っかかっている親兄弟を見て見ぬフリをしているようなものです。それは相手がパートナーの場合も同じでしょう。妻がバリ活で、何を言っても聞き入れてくれない。夫に創価を批判すると離婚の話までいきそうだ。離れた場所に住んでいる親兄弟よりも、問題はもっと深刻なのだと思います。さらに子どもの教育についても大変な軋轢を生むことにもなります。
創価学会が会員に及ぼしている害悪は計り知れません。このブログだけでも、どれだけの人が創価の被害に会ってきたかがわかりますよね。これだけの人が不幸になっている創価学会を、「世界で唯一の正しい宗教」と信じている学会員さん。創価のおかしなところを具体的にどれだけあげても絶対に認めない学会員さん。来る日も来る日も活動に明け暮れて、組織にお金を貢ぐことをひたすらやり続けながら、それで自分は幸せだと思っている。では今の生活が創価の信心をしていない人と比べて、そんなに幸せなのか?ということは考えないんですよね。「創価は正しい」と信じていることと同じように「自分は幸せだ」と信じている。では、いったいどこが幸せなの?いつ幸せがやってくるの?と訊いても答えられません。決まって「今は人間革命の途中だから」とか「この信心をしているから未来永劫の幸せを掴んでいるのよ」などと、日蓮仏法の基本である現世利益の思想などどこかへ吹っ飛んでいます(笑)
まあ、創価のおかしなところをあげればきりがないし、それをいくらこと細かに説明しても、当の学会員さんはまったく聞く耳を持たない。そう、この「まったく聞く耳を持たないようにさせられている」というところが創価のいちばんやっかいなところです。創価の組織運営は、このことを徹底してやっています。「とにかく疑うな」「疑ったら最後だ」「ちょっとでも疑うとすべては水の泡どころか、恐ろしいことになる」といつもいつも脅されています。だからちょっとやそっとでは人の意見を聞くようなことはありません。それがたとえ愛する妻や夫であったとしても。いつも引き合いに出して申し訳ないですが、あれだけ創価のおかしさに気がついて、冷静な判断ができそうだった白いブランコさんが、最後まで他人の言うことをまともに聞くことができなかったのは、こうした徹底した日々の洗脳の結果だと思います。(今ごろどうされているんでしょうね)
ということで、今回のテーマは「恐怖心で縛られた学会員の心」ということにします。
みなさんが活動家だった時のことを思い出して、その信仰心の底に「恐怖心」がなかったかどうかのお話をしていただけたらと思います。私はありました。ちょっと悪いことがあると「今朝寝坊して勤行をサボっちゃったからだ」と普通に考えてします。何かいいことがあると信心のおかげだ。ピンチな場面で思わぬラッキーがまいこんできたときに「やっぱりこの信心のおかげだ」と思い込んでしまっていました。活動家の心の動きは、いつもこの信心によるラッキーとアンラッキーのせめぎ合いではなかったかと思うのです。考えてみたらこんなの信仰じゃないです。そして「自分はこの信心をしているのだから、普通の人とは違って特別に守られている」と完全に勘違いの人生を歩んでいきます。そしていつのまにか創価でない人を見下すようになります。凄いですよね。人を見下すような人間になる宗教なんですから。自分がそうなっていることに何の疑問も持たない、持てない。「創価以外はカスだ」「キリスト教は二重人格だ」「念仏は地獄行き」などと平気で口にします。「ろくな死に方はしない」「この信心を知らないなんてかわいそうに」そんな思考しかできない人間に、まともな子育てができるわけがないんです。学会員をこのような人を見下す思考停止人間にさせたのも、池田大作が金と権力を我がものにするためだけにしたことです。そしてそのおこぼれをもらって、創価の悪を知っておきながら見て見ぬしてきた最高幹部たち。人の心を恐怖で縛って金を巻き上げてきたのが創価学会です。しかしどんなに会員にあくどいことをしても、当の会員はそのことに気づくことはない。自分で考えない限りは気づかない。恋人が、妻が、夫が、親が、子どもがどんなに創価のおかしさについて、具体的に説明し、どうか気がついてほしいと懇願しても、本人が自分で考えることをしないかぎりは無駄です。たとえ多少気がついて考えるようになったとしても、その現実に耐えられなくて、また居心地のいい思考停止状態に引きこもってしまう人もいます。まったく一筋縄ではいきません。心の問題はほんとうにやっかいです。
「恋人や配偶者が創価の悪に気がついてくれない」というのは、一般的なコミュニケーションの問題などとはレベルが違います。そしてこれはとても恐ろしい犯罪でもあることを当事者は自覚すべきだと思います。創価のこのような洗脳は「詐欺」などと言った言葉で済まされるような生易しいものではありません。多くの人間の一生をダメにしてきたんです。イケダダイサクというひとりの愚かな人間がとんでもないことをしでかしてしまった。おそらくそう遠くない時期に日本の凶悪犯罪の歴史に名を残すことになるでしょう。


■11月18日は創価をやめる日です。         投稿日: 2015年11月17日

創価学会は11月18日の今日で85周年だそうです。昭和5年11月18日を創価学会の創立日としたのは、初代会長の牧口常三郎が発行した「創価教育学体系』第1巻」の奥付に戦前の会名「創価教育学会」の名称が初めて現れたのをもって創立記念日としたのだそうです。つまりあと付けなんですね(笑)。その日に「ここに創価教育学会という会を発足する」という宣言をしたわけではなかったのです。結局、第二次大戦が始まり、軍による思想統制によって空中分解した創価教育学会は、昭和20年に出獄した戸田城聖がひとりで「創価学会」として立ち上げたわけです。ちなみに戸田が創価教育学会を創価学会と解消したのが何月何日かもはっきりしていません。そこで戸田が起したのはエロ本出版と高利貸しを生業とした怪しい新興宗教でした。それでも創価学会は昭和27年に宗教法人格を取得し、現在まで課税を免れています。昼間から酒を浴びるように飲み、女性関係もデタラメだった戸田は、エロ本出版や高利貸しよりもインチキ宗教のほうが儲かると踏んだのです。彼は生前の牧口から教わった日蓮正宗の排他的独善的な教義を利用して、会員に他宗の仏壇や神棚を破壊・焼却させてまわらせ、その数は75万世帯にふくれあがりました。この時点ですでに狂気の沙汰です。しかし創価学会が戸田の狂乱宗教で終わっていれば、他にもよくあるインチキ宗教と同じように、戸田がいなくなれば消えてなくなったでしょう。しかし残念ながらそこに現われたのが池田大作でした。池田は戸田の元で高利貸しの取り立て屋として能力を発揮していましたが、池田は戸田をも上回る悪知恵のはたらく人物で、他人を踏み台にしてのし上がるためには、どんな悪事をも寸分のためらいもなくできる冷血漢でありました。つまり池田は自分がのし上がるために戸田を利用したに過ぎません。池田は戦前からいた戸田のとりまきを陥れ蹴落とし、戸田が耄碌したのを見計らって、昭和35年5月3日、計画通りに三代会長の座を無理やり奪い取りました。その弁舌の演出はヒトラーを彷彿とさせます。そしてこうした極悪非道の事実を隠すためにも、反池田派の口封じに奔走するとともに、自らが絶対権力をもつヒーローであることを会員にプロパガンダするために小説「人間革命」をゴーストライターに書かせ、創価学会の歴史を自分の都合のいいように捏造していきます。そういう意味では、巨大宗教詐欺としての創価学会は池田大作が3代会長になったときから始まったと言えるでしょう。それまでは怪しいアル中のエロオッサンがやってる単なるインチキ新興宗教の一つに過ぎなかったわけです。池田大作会長就任から、創価学会は日本の癌として、見る見るうちに全国に転移していくようになります。池田にとっては日蓮も戸田も、多くの人を騙して莫大な金と権力を手に入れるための道具に過ぎなかったのです。
ですから創価学会にとっての11月18日という日は、とくに意味があるわけではありません。便宜上、創立記念日がなければカッコがつかないからこの日を創立記念日ということにしているだけの話です。このように創価学会の何もかもが池田大作のインチキです。つまり創価学会は希代の極悪人・池田大作にカモられた人間の集団ということです。
たとえば公明党がどうしたこうしたという学会員もいますが、公明党は一貫して池田の権力を守るためにつくられたものですから、政党として正しいとか正しくないなど関係ないわけです。安保法制も秘密保護法も公明党にとってはどうだっていいわけで、創価学会の権力維持のための判断が自民党と連立を組むという結果であるに過ぎません。
すべては池田大作の野望のために作られたのが創価学会なのです。
もう5年近く人前に出ることすらできないほどになった池田大作ですが、彼の存在なしでは、創価学会は何一つできないのです。ですから最高幹部は今でも池田大作が元気でいるかのように振る舞っていますが、池田大作が元気であるその姿を会員の前に見せることは一度もありません。聖教新聞にはほとんど毎日のように池田大作の写真は掲載されています。長いメッセージもしょっちゅう載っています。しかし絶対に姿を現しません。学会精神の根本は師弟不二にある。「池田先生は永遠の師匠だ」と常に会員に言聞かせながらも、その師匠の姿を、その声を絶対に聞かせないのが今の創価学会です。そしてそのことに絶対に不満や疑問を口にしないのが創価学会員です。ここまで欺瞞に満ちた組織の、どこが「世界で唯一正しい宗教」だと言うのでしょう。
昨年の11月18日は、創価学会の教義がガラリと変りました。宗教団体の根本である御本尊の解釈が完全にひっくり返ったのです。三大秘法のひとつ、本門の本尊の解釈がオセロのように白から黒に変わったのです。しかしそんな根本的な教義の変更も、聖教新聞の3面に載っただけで、それ以降、このことにはほとんど触れられないし、会員もこのことについて口にしません。異様な宗教団体です。教義の根本が変っても誰もなんにも言わない宗教団体。今年の11月18日は、勤行のやりかたや祈念文が変るのだそうです。勤行要典を創価学会員全員に買い替えさせるということです。いったいこれでどれだけのお金を会員から吸い取るのでしょう。
ということで、以前からお知らせしていましたように、11月18日は「創価をやめる日」です。インチキ小説「人間革命」によって闇に葬られてきた創価学会の歴史は、ここに来て完全に暴かれました。学会員さん、これでもまだ創価学会員であり続けますか?これまで創価学会員として活動してきて何かいいことがありましたか?教義すらそのときの都合で変ってしまうインチキ宗教に何の未練があるのでしょう。創価はもとからインチキなのですから、功徳はもちろん罰などあるわけがありません。インチキ宗教に何かの力があるわけがないですよね。インチキなんですから。これまで騙されてきたことは、もうどうしようもありません。だからさっさと抜け出しましょう。はやいとこ縁を切りましょう。それしかないんです。いろいろ問題もあるでしょうが、創価学会員でいる限り、騙され、搾取され続けるしかないんです。
創価学会のどこがいけないんだ?創価学会のどこがおかしいんだ?と思う学会員さんは、このブログをどこからでもいいですから読んでみてください。ここには実際に創価学会員として、何十年も活動してきた方の真実の声が詰まっています。私が書いたスレッドだけでも290、コメントの数だけですでに13570もあります。全て読むのに何日もかかります。しかし、よく考えてみてください。たったひとつのブログに、これだけの「創価学会は宗教ではない」という声が集まっているという事実を、このコメントのすべてが「ただの勘違い」だと言い切れますか?そして毎日このブログに4000以上のアクセスがあります。全部で260万以上のアクセスです。1日に4000のアクセスがあるということがどういうことなのかを考えてみてください。ただの勘違いや妄言に、これだけのアクセスが続くでしょうか?それともこれも「正法流布を阻もうとする魔の仕業」なのでしょうか?(笑)
 
創価学会の公式HPには
「1930(昭和5)年の創立以来、日本では827万世帯、海外にも192カ国・地域の会員が日蓮大聖人の仏法を実践し、各国の繁栄と平和を願い、活動しています。」
とあります。確かに数はウソでもないのでしょう。しかし読む人が勘違いをするような書き方をしています。これは今現在の日本に827万世帯の創価学会が存在するということではなく、創立以来85年で、創価学会員に827万のご本尊を下付したという意味です。もちろんその大半が日蓮正宗のご本尊の数です。破門後にある程度交換はさせられましたけどね。その時もお金を出させられましたよね。今現在、創価学会は日蓮正宗とは何の関係もないと宣言していますから、本来なら827万のうちの日蓮正宗が下付したご本尊の数は差し引いてカウントすべきでしょうが、そうなると世帯数としてはわずかな数になってしまいます。この期に及んでも創価は実際の会員数を公表することすら絶対にしません。実際の数を公表するといろいろと都合が悪いからでしょう。今現在、世界には196の国があります。192カ国に創価学会員がいる(創価学会員がいない国は世界で4つしかない)というのも、どう考えてもおかしな話ですが、客観的にそれを検証する術はありませんし、誰もそんなことに興味もありません(笑)。
また話がそれましたが、今日11月18日は「創価やめる日」です。今日のこの日を目標に脱会をめざして頑張ってきた方もたくさんいらっしゃるようです。見事脱会できた方はもちろん、脱会への決心がついた方、脱会しなきゃいけないんだと気づいた方、この日を待ちきれずにすでに脱会しちゃった方(笑)、そのほか、とにかく「創価から去りました」「創価から去ります」「創価から去らせます」「創価を去ってよかったです」ということを言いたい方、このスレッドにひとことコメントください!いつもの自己紹介はいりません。HNと一言だけでいいです。「こんなにも創価から去る人や去りたい人がいるんだということを、みんなで確認しようではありませんか。現実の創価学会に何が起きているのか、ともに確認しあおうではありませんか。いつもは見てるだけの方、せめてこのスレッドに一度でいいですから、一言だけでもコメントください。その一言がたくさんの創価被害者の背中を押すことになるんです。一人でも多く!一刻もはやく!創価から去りましょう!創価地獄から抜け出して、本来の人間の生活を取り戻しましょう!
創価に疑問を感じている学会員さん。辞めたいけどなあ~と悩んでいる学会員さん。悪いことは言いません。まずは辞めることです。それによって問題が出てきたら、そのときに考えればいいことです。いつ辞めるのがいいかは人によって違うかとは思います。しかし辞めなければ何も変わりません。つまり悪くなるだけです。どっちがいいですか?やめたらどうなるかわからない。悪いことが起きるかもしれない。辞めなければよかったと後悔するかもしれない……だったら、ほんとうに後悔したなら戻ればいいじゃないですか。ただ、このブログに寄せられた数えきれないほどの「辞めてよかった!」というほとんどのみなさんからの声をどう受け取りますか?これからも創価学会の組織運営のために自分の人生を捧げますか?創価学会の組織のために、いままでどれだけの時間とお金を貢いできましたか?それで創価の言う「人間革命」や「宿命転換」や「一家和楽」が訪れましたか?まだですか?まだ人間革命の途中ですか?だれか人間革命できた人があなたの地区や支部にいますか?いったいどうなったら人間革命できたことになるんでしょう。宿命転換できたことになるんでしょう。そもそもあなたの宿命とは何ですか?自分の宿命が何なのかもわからずに転換しようとしていることに疑問を感じませんか?冷静に考えましょう。あなたにとっての「人間革命」ってどういう状態なのでしょう?「宿命転換」をした自分のビジョンが見えていますか?それは創価の信仰を全く知らない人と比べたときに何がどう違うのでしょう?「一家和楽」の家庭が創価以外の人に訪れないのだとしたら、人類の歴史に一家和楽はいまだかつてなかったということですよね。人類に幸せは訪れていないということですよね。創価学会員以外は誰も幸せになれないのだとしたら、これまでの何万年も生き続けてきた人類はいったい何のために生きてきたのでしょう?誰も幸せになったことがないのであれば、人類が幸せと言う言葉をつくるでしょうか?誰もなったことのない「幸せ」に恋いこがれ、求めることができたでしょうか?
創価学会が日蓮正宗から破門されたあと、創価学会員は確実に減っています。残っている学会員も確実に高齢化しています。今の学会員はかつての「残り」でしかありません。学会員さん、あなたはすでに「残りの人」なんです。それはあなたのいる地区や支部の様子を見ればあきらかです。日本全国の創価学会の組織がこのような状態です。もし本当にこの「残りの人」しか幸せになれないのだとすれば、もはや人類が幸せになれる希望などありませんね。どうしますか?(笑)
世界平和を実現できる唯一の団体だと豪語する創価学会がISISをどうにかできるのですか?ニューヨークやパリの同時多発テロは末法の御本仏である日蓮大聖人も止めることができなかったんですね。ましてや会員にすら姿を見せない池田大作がいったいどうやって世界を平和にするのですか?老人ばっかりになった「残りの人たち」である創価学会員が、どうやって世界を平和にできるというのですか?秘密保護法や安保法制を通すような創価学会が日本を平和にできるのですか?自衛隊員を世界中の戦地に送り込む法律を通すことのどこが世界平和の行動なのでしょうか?
学会員さん。自分で考えてください。自分でものごとを考えることは決して悪いことではありません。しかし創価では自分で考えることは福運を消す、功徳を消す、とずっと言ってきました。学会員に自分でものごとを考えられたら都合が悪いからです。手を替え品を替え、御書やらインチキ小説を使って会員にものごとを考えさせないようにしてきたんです。だから池田大作が5年近くも姿を現さなくても何にも疑問に思わないんですよね。教義の根本が突然変っても知りもしないんですよね。それは自分でものごとを考えないようにさせられているからです。普段の生活については普通に考えられても、創価に関しては完璧に思考を停止させられている。思考停止させられているから、自分が考えていないことにすら気づかないんです。だから私は「自分で気づかない限りは何を言っても無駄」と言ってきました。それは逆に、ちょっとでも自分で考えるきっかけさえつかめば、創価学会がもともとからとんでもないインチキ宗教であり、超悪質な金銭詐欺であることが簡単にわかるんです。わからないほうがおかしいんです。それでもわからないのは、わかることが恐ろしいから。わかってしまうと自分の人生が何だったのかわからなくなるから。自分のアイデンティティを失いそうだから。それもよくわかります。それはほんとうに怖いです。でもそれが現実なんです。勇気を出して現実を直視して、本当の自分の人生をこれから歩んでいくのか、それともこのまま、つまり騙されたままでいいから「人間革命」「宿命転換」「一家和楽」を目指して創価学会にお金と時間を捧げ続けたまま一生を終えるのか。どちらかしかありません。それを決めるのはもちろん、あなた自身です。
 
さあ、みなさん。常連のみなさん。いつも見てるだけのみなさん。たまたまここにたどり着いたみなさん。いわゆるバリ活のみなさん。このスレッドは、いつものような自己紹介は不要です。今現在の創価学会に対する自分の考えを一言でいいですから聞かせてください。そしてもし「創価やめたい!」という方はとくに宣言してください。そう思っている方はあなた一人ではありません。そのことをここで確認しましょう。いわゆる何であれ宗教に依存していなければ生きていけないと思っているような盲信者でなければ、創価学会は辞めたいと思っている人ばっかりです。ただ「辞めたら悪いことがおきる」「辞めたら家族が悲しむ」「辞めたら家族が半狂乱になる」「辞めたら自分が入れた友人に申し訳ない」いろんな辞められない理由をつけては行動できないでいる人も多いのではないでしょうか。創価が宗教であるならばここまでは言いません。日本は信教の自由が保障されているのですから、誰からも何も言われる筋合いはないのです。しかし、創価学会は宗教ではありません。インチキ詐欺です。学会員はインチキ野郎にお金を騙しとられているだけなんですよ。まずは「それがホントかウソかを自分で考えてみてください」と繰り返し言っているのです。そして「やっぱり創価学会はインチキだった」という方の声がこうやって1万件以上ものコメントとなって集まっているのです。これはまぎれもない事実です。ほんとの話です。否定のしようがありません。この事実を踏まえた上で、ぜひ自分で「創価が宗教なのか詐欺なのか」を考えてみてください。
今日11月18日の聖教新聞の1面です。
イケダ氏夫妻の写真と、イケダ氏が贈ったとされる和歌が大きく載っています。和歌で「勝ちまくれ」って何でしょうね?(笑)イケダ氏の顔は、おそらく老人医療・介護関係の仕事をされている方や、身内に認知症のある方をお世話している方ならすぐにイケダ氏が和歌などをつくれる状態ではないことがわかると思います。まず一人で歩くことさえできないのではないでしょうか。また隣に座っているカネコ夫人も、イケダ氏と同じくこの5年間は言葉を発していません。会員と話をすることもないようです。会員と話などしてボロが出ては困るんでしょうね。
歩くことができなければ車椅子ででも会員の前に姿を出せるでしょうし、和歌や長大な文章が書けるようであれば、話すことぐらいできるはずです。しかしこの5年間に会員が見ることのできるイケダ氏は聖教新聞上のこうした表情の固まった写真のみがときどき載るだけです。それでも盲信者は「先生はお元気なんだ」と思い込んでしまうんですね。

 


解説
対話ブログが非公開になったため、コメントを参照することはできません。
詳細を書けず、残念です。
是非、シニフィエさんには、対話ブログを再開していただけることを望みます。

獅子風蓮



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