獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

アクティビスト・友岡雅弥の見た福島 その4

2024-03-27 01:05:46 | 友岡雅弥

友岡雅弥さんは「すたぽ」という有料サイトに原稿を投稿していました。
その中に、大震災後の福島に通い続けたレポートがあります。

貴重な記録ですので、かいつまんで紹介したいと思います。


カテゴリー: FUKUSHIMA FACT 

FF4-「故郷」をつくること「故郷」を失うこと
  ――飯舘村・浪江町の、もう一つの歴史(その4)
アクティビスト、 ソーシャル・ライター
友岡雅弥
2018年3月14日 投稿

【二人の開拓者】

浪江町の“開拓者群像”のなかには、おそらく、多くの皆さんがご存知のお二人がいらっしゃいます。

一人は、三瓶明雄さん。もう一人は吉沢正巳さんです。

三瓶明雄さんは、テレビ番組「ザ!鉄腕!DASH!!」(以下、「DASH!!」)で、農業知識だけではなく、炭焼きや、石垣、保存食など、いろいろな知識を教える「スーパー農家さん」として登場します。
明雄さんは、前に『沢先開拓誌』で挙げた浪江町津島の開拓農民だったのです。最初、そのことを知らず、たまたま津島の資料の一つを見ていて、二ヶ所に「三瓶明雄」の名を見つけたときには、「やはり、そうか!」と、明雄さんの知識の豊富さに納得が行きました。

明雄さんの、汲めどもつきぬ生きるための知識――作物の生産から、炭焼き、食べ物の保存法、病害虫から作物を守るときの「自然農薬」の使い方、稲藁(いなわら)で、縄を綯(な)い、草鞋などの生活用具を作るなどなど、それは、開拓農民の生きるか死ぬかの日々によって、自然に身に付いたものだったのです。

「DASH!!」で、井戸を掘ることになり、水脈があるかどうかを調べたとき、明雄さんは、土に鳥の羽根を刺し、それを風呂桶で蓋をしていったのです。そうすると、土地に水分が多い(地下に水脈がある)ならば、鳥の羽根に水分が凝結し、それが風呂桶で蓋をされているので、蒸発せず地面に落ちて行く。どんどん地面が湿っていくのです。
まさに、これは、自ら自分たちで手に入れてきた開拓民の知恵の一端でした。

その明雄さんは、開拓初期の状態について、番組スタッフに「犬に投げる土もなかった」と表現していたそうです。
開拓地には、土地はあるけど土はない。矛盾したことばのようですが、固くて、一握りも手にとることの出来ない地面があるだけなのです。農家にとっては、耕して、空気を入れ、肥やして、初めて「地面」が「土」になる。土を育てて、育てた土が作物や牛を育てるのです。


福島第一原発から14キロのところで、牛を育て続ける吉沢牧場(希望の牧場)の吉沢正巳さん。正巳さんのお父さん、正三さんも、満蒙開拓団でした。3年間のシベリアから帰国後、国内開拓へ。さまざまな苦労の末、今の吉沢牧場のあるところに着いたのです。

正三さんは、旧満州から引揚げるとき、動けなくなった母親と二人の娘(正巳さんの祖母と姉にあたる)を手にかけている。満蒙開拓団の証言集や資料集にしばしば言及されている「集団自決」の悲劇です。

まだ浪江町に「立ち入り制限」(昨年、3月31日まで)があったころから、吉沢牧場には、時々立ち寄っていました。なぜならば、南相馬市の原町に、有名な「相馬野馬追い」の馬主さんをしている知り合いがいて、そこから吉沢牧場が比較的近かったからです。
そして、吉沢牧場は、入り口だけがたまたま、当時、立ち入り制限があった浪江町ではなく、立ち入り制限のない南相馬市の小高にあって、立ち入りができたのです。入り口を入って、すぐに浪江町になるのですが、そこは、「吉沢牧場」の私有地なので、入れます。

吉沢正巳さんところには、見学者のかたがたが全国からよく来られます。吉沢さんは、その方々に現状について語られるとき、しばしば「棄民」ということばを使われていました。そのことばを口にされるとき、吉沢さんは、少し下を向き、吐き捨てるように、そして、自分に言い聞かせるように、強く声にされていまいた。

「浪江は、原発を作らせなかった。交付金いらないって。農業と漁業でやるってがんばってきた。でも、それが原発事故で、完全にやられた。大熊・双葉は、事故直後に情報が出て、すぐに避難できたんだ。道路が混んでて、実際は渋滞だったけど。でも、浪江も飯舘は、放っとかれたんだ。それで、あとから突然『出て行け』って、牛も殺処分だって。人を見捨てたんだ。棄民だよな。牛も見捨てろって。でも、俺はベコ農家だから、ベコを見捨てることはできない。それだけだ」

満蒙開拓、戦後開拓、そして原発事故――それは、吉沢さんが語る「棄民」の歴史そのものだったのではないでしょうか?

(写真:吉沢牧場の真ん中には、福島幹線と呼ばれる原発と東京を結ぶ高圧線が)

(写真:見学者に思いを語る吉沢正巳さん)


【冷害と飢饉の山中郷】

浪江町の山間部と、飯舘村、葛尾村は、江戸時代に相馬藩の「山中郷三十村」と言われた地域にほぼ相当します。(そして、それは今の「帰還困難区域」がすっぽりその中にはいります!)。そのうち18村が、今の飯舘村の20行政区にほぼ重なっています。
「山中郷」は、「さんちゅうごう」と読みます。比較的豊かな太平洋沿岸地域から比べると、過酷な自然のため、戦後開拓以前に、開拓可能だったところですら、生活は厳しく、「さんちゅう」のことばには、若干差別的ニュアンスが含まれていると聞きました。

山中郷は、阿武隈山系の高原地帯で、だいたい年平均気温が10度。初霜が10月、晩霜は5月、夏は涼しいけれど、冬は厳しく、長い。
しばしば、冷害・飢饉に見舞われ、宝暦(1754年)・天明(1783~1887年)・天保(1833~1838年) 飢饉で、多くの被害をだしました。例えば、天明飢饉では、人口約5000人のうち、6人に1人が餓死、逃散が千人を越えています。

まったくの偶然なのですが、仙台から大阪に帰るとき、飛行機の機内オーディオ・サービスを聴いていました。仙台空港から東へ太平洋にでて、そしてゆるいUターンで西に戻る。
新地町の相馬共同火力発電と南相馬の原町火力発電所の大煙突を2つ見ながら、相馬市から飯舘村上空にさしかかりました(福島県は、原発の外、火力発電所でも、水力発電所でも、日本一、二を争う発電所を複数有しています。もちろん、発電された電力は主に首都圏に送られます)。
飯舘村の「はやま湖」が見えてきたとき、民謡歌手、原田直之さんの歌声がイヤホンから流れてきたのです。

原田直之さんは、浪江町出身で、双葉町にある福島県立双葉高校卒業です。単なる偶然ですが、あまりのタイミングの良さに、ぞくっとしました。

しかも、歌った民謡は「相馬二遍返し」

天明の飢饉で大きな被害を受けた相馬藩が、越後、越中、越前に、移民を募ったときの、宣伝歌といわれています。
「民謡」は、概して歌が伝承された地域によって歌詞が違い、どれが「原典」とか「正統」とかいうのは難しく、地域の違いを鑑賞することも鑑賞の醍醐味だと言えますが、代表的な歌詞を紹介します。


相馬相馬と 木萱もなびく
なびく木萱に 花が咲く 花が咲く

相馬恋しや お妙見様よ
離れまいとの つなぎ駒 つなぎ駒

駒に跨り 両手に手綱
野馬追い帰りの 程のよさ 程のよさ

二遍返しですまないならば
お国自慢の流山 流山


この他――

「二遍返しは ままにもなるが
三度返しは ままならぬ ままならぬ」
と歌われるヴァージョン。

「鮎は瀬にすむ 鳥は木にとまる
人は情けの下による 下による」
の詞が入るバージョンがあります。

ちなみに、この「鮎は瀬にすむ 鳥は木にとまる人は情けの下による」は、青森県津軽あいや節、岩手県久慈盆踊歌、同南部杜氏酒屋歌、富山県越中五箇山麦や節、福岡県宗像郡田草取り歌など、日本各地に広く分布しています。
労働、子守りなど、人々の日常的な心情によほど寄り添ったものだったのでしょう。

日本の「児童福祉の父」石井十次。岡山に千人規模の孤児院を作り、また彼の時代(一世紀前)には東京を超えて、日本最大の都市であった大阪の巨大スラム・長町(名護町とも言われた)で、子どもから高齢者までの施設をつくった石井十次が、いつも口ずさんだ一節でもあります。今、釜ヶ崎にある石井十次にルーツを持つ施設で、お手伝いをしているので、この一節にはとても親しみがあります。

曲名の「二遍返し」の由来は、歌詞の第四句の五文字を反復するところからついたとする説が有力ですが、飢饉の荒廃から復興したいとの気概との解釈もあります。

実際のところ、江戸時代には、寺請制度で、人々は職業、住所、身分の変更は固く禁じられていました。他地域にいくのは「御禁制」の「逃散」「欠け落ち」とみなされる可能性が大きいので、移住はなかなかむずかしかったのです。が、文化10年(1813年)から30年間で、8943人が移住してきたと言われています。

移住してきた人たちは、荒れ果てた田畑を耕し、相馬中村藩の石高6万石の半分に当たる三万石以上の土地を生みだしたとされています(千秋謙治「砺波農民の相馬中村藩への移民」『砺波散村地域研究所紀要第26号』)。

しかし、冷害は、以後、何度も襲いかかりました。

「二遍返しは ままにもなるが
三度返しは ままならぬ ままならぬ」
――しかし、三度も、四度も、何度でも、人々は土を耕し返したのです。


解説
三瓶明雄さんは、テレビ番組「ザ!鉄腕!DASH!!」(以下、「DASH!!」)で、農業知識だけではなく、炭焼きや、石垣、保存食など、いろいろな知識を教える「スーパー農家さん」として登場します。
明雄さんは、前に『沢先開拓誌』で挙げた浪江町津島の開拓農民だったのです。(中略)明雄さんの、汲めどもつきぬ生きるための知識――作物の生産から、炭焼き、食べ物の保存法、病害虫から作物を守るときの「自然農薬」の使い方、稲藁(いなわら)で、縄を綯(な)い、草鞋などの生活用具を作るなどなど、それは、開拓農民の生きるか死ぬかの日々によって、自然に身に付いたものだったのです。

三瓶明雄さん、懐かしいです。
「ザ!鉄腕!DASH!!」観てました。

調べてみました。

三瓶明雄
三瓶明雄は、日本の農業従事者。日本テレビ系のテレビ番組『ザ!鉄腕!DASH!!』においてTOKIOのメンバーに農業指導を行った。
2011年、「DASH村」のロケ中に東日本大震災が発生、それにより引き起こされた福島第一原子力発電所事故によりDASH村の村域が計画的避難区域(のちに帰還困難区域)に指定され、「DASH村」の企画が中断。自身も浪江町を離れざるをえなくなり、福島市内の借り上げ住宅に避難しつつ、不定期企画「出張DASH村」にてTOKIOとともに日本各地の農家を訪問し、様々な作物の農業技術や調理法の紹介を行っていたが、2014年1月19日の放送を最後に出演がなくなっていた。 三瓶はこのころから入院しており、入院期間中にTOKIOの城島茂と山口達也(当時)が慰問に訪れたことが2014年8月31日の「24時間テレビ37」で判明した。
2014年6月6日、福島県伊達市の病院で急性骨髄性白血病により死去。84歳没。死因については、福島民報では「急性骨髄性白血病」と報じられたが在京各紙では死因は不明と報じられている。TOKIOを始め、関係者はその訃報に大変なショックを受けたという。
「まだまだ」が口癖で、これは「物事は常に新しくなっていくので、現状に満足して停滞してはいけない。」という自身への戒めを込めたものであったとのこと。
(Wikipediaより)

三瓶明雄さんは、急性骨髄性白血病で亡くなられたのですね。
原発事故の影響がどの程度あったのか不明ですが、ご冥福をお祈りいたします。

私も、三瓶明雄さんの言葉を胸に、現状に満足せず、停滞せず、一歩一歩進んでいきたい。

まだまだ!
まだまだ!

獅子風蓮



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