獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

対話ブログ・ステージⅡ:にゃんこ丸さん登場(9)

2022-03-13 01:52:35 | 対話ブログ

■の文章は、シニフィエさんの対話ブログからの引用です。

●の文章は、それについたコメントの引用です。


■まずは勤行唱題をやめてみる  (ナンミョーズハイのときの快感と恐怖)      投稿日: 2015年6月24日

学会員ならもれなく知っている超有名な御書。キングオブゴショ!と言えば開目抄(笑)。座談会でも、4者別の御書学習会でも、男子部の絶叫体験発表でも、何かにつけてこの開目抄のそれもとくにこの一文が出てきます。
「我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし、天の加護なき事を疑はざれ現世の安穏ならざる事をなげかざれ、我が弟子に朝夕教えしかども・疑いを・をこして皆すてけんつたなき者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし」(開目抄)
創価で会員に教える御書なんていくつかのパターンの繰り返しです。とくにこの開目抄の部分は会員を洗脳するにはうってつけの呪文のようなものですよね。
覚醒した目で読んでみると「とにかくどんなに辛く苦しくても疑わなかったら幸せになれるのだよ。決して疑ってはいけない。疑ったら最後地獄行きだ。私はそんな人間をたくさん見てきた」
創価はこれを繰り返し教え込むんです。そしてお題目を一心不乱にあげさせてドーパミンとかアドレナリンとか脳内にいろいろ分泌させて「疑わないこと→快楽」「疑うこと→地獄行き」を結びつけます。いわゆるナンミューズハイです。これべつにお題目でなくてもいいんです「修行するぞ修行するぞ修行するぞ」でも同じです。学会歌でも同じです。とにかく徹底的に脳内に叩き込むんですね。「創価だけが真実だ」「創価だけが幸せになれる」「疑ってはいけない」「疑ったらすべてが水の泡」「疑ったら地獄行き」「何も考えない」「すべて言われたとおりにすれば幸せになれる」「これで何もかもうまくいく」「仏法は道理だ」これを毎日毎日唱題しながら自分の脳に徹底的に刷り込んでいくんです。創価の勤行・唱題というのはそのためにあるのですから、新聞やめて活動しなくなっても勤行・唱題をしている限り覚醒はできません。すぐに従来の思考停止状態に逆戻りです。
だから私が思うのは、新聞をやめるとか会合に行かないということも大切ですが、それよりも何よりも「まず勤行・唱題をしない」ということが先決だと思います。思考停止状態というのは、自分が思考停止状態に陥っていることに気がつかないということです。だから思考停止状態から少しでも抜け出せば、新聞をやめることも会合に行かないことにも自分で納得できるはずです。活動をやめることに罪悪感を感じたり、悪いことが起るんじゃないかなどと思うのは、自分が思考停止に陥っているから冷静な判断力をもてないんですよね。だからまずは勤行・唱題をスッパリとやめて、3日、一週間、ひと月と経ったところで「さて、自分はどうして聖教新聞を何部もとっているんだろう?」「どうしてあんな気持ちの悪い会合に参加しないといけないんだろう?」といった、いわゆる普通の感覚でものごとを考えられるようになるはずです。そして「他人を思いやれない学会員」を客観的な目で見れるようになります。そうすれば「聖教新聞をいやいやとっている場合ではない」「会合なんか出ている場合ではない」ということに自然と気がつくはずです。気づかないのは勤行・唱題によって自分を思考停止させているからです。
それでも脳はナンミョーズハイのときの快感と恐怖を憶えていますから、何かにつけてコンフォートゾーンであった位置に戻ろうとします。麻薬と同じですね。長いこと思考停止状態の快楽に依存していたので、ちょっと油断すると「やっぱり会合に行こうかな。みんないい人たちだもんな。仲間はずれはいやだな」などと都合のいい理由をつけて思考停止状態に戻ってしまいます。とくに創価にどっぷりとつかって生きてきて、創価以外の親しい友人がいない人にとっては、創価から離れることは真っ暗な空間にひとり立たされることと同じです。そこが恐ろしいところですね。覚醒してもなお、信心から離れることの恐怖感に悩んだり、いままでの自分の人生を否定することに絶えられなくなって精神のバランスを崩してしまうのはこのためだと思います。
だからまずは勤行・唱題をやめてひと月様子を見る。その間、会合に出なければいけないのであれば出てもいいです。新聞をすぐに断れないのであれば無理することもないでしょう。勤行唱題をひと月やめれば、きっと今までの自分がやってきたことの異様さに気がつくはずです。今までの自分自身に違和感を感じるはずです。もちろん洗脳の度合いによって一週間で気づく人もいれば、3ヶ月かかる人もいるでしょう。でもまずは思考停止状態から抜け出すことが大切なのではないでしょうか。少しでも自分で考えることができるようになれば、新聞をとるべきなのか、会合に出るべきなのか、何をやってるのか知りもしない公明党の票とりに駆け回るべきなのか、有り金はたいて財務に貢ぐべきなのかという判断ができるようになると思います。無理することはありません。いや、無理するべきではありません。とにかくなにはともあれ、勤行・唱題をやめてみる。たとえ会合に行っても勤行唱題はしない。しないわけにはいかない場合は口パクでもしておく(笑)。
思考停止状態に陥っていると「いいことはすべて信心の功徳。悪いことは自分の信心が足りないから」という思考回路だけでしかものごとを判断できなくなります。どんなに真面目に活動して、ありったけのお金を貢いだ上に、いいことなんかひとつもなくても「これには何か深い意味がある」と勝手に解釈するようになります。ただ騙されているだけの自分に気がつくことなく、目の前の現実がまったく見えなくなってしまうんですね。
ちょっとでも創価に疑問を感じてこのブログにたどり着いた学会員さん。あなたのそのちょっとした疑問が何なのかを知るには、まずなにはともあれ勤行・唱題をスッパリとやめてみることをお勧めします。とにかく1ヶ月間、いっさい仏壇の前に座らない。そしたら自分が感じたちょっとした疑問について自分で考えることができるようになるはずです。逆にまた勤行・唱題をすれば、考えることができなくなりますから元の木阿弥です。
覚醒のきっかけになることは人それぞれですが、それ以前に思考停止から抜け出すことが大切です。自分で考えることができるようになってはじめて創価の現実が少しずつ見えてきて、そこから一気に覚醒へと突入します。
「とりあえず新聞やめてみようかなあ」とか「あしたの会合をさぼっちゃおうかなあ」と思いはしても、どうしてもそこには罪悪感や恐怖心が現われて、心に過剰な負担をかけることになります。それよりもまずは自分で考えることのできる自分になることが先でしょう。自分で考えることができれば「こんな新聞をひとりで何部もとるなんてわけがわからない」「あんなとりつかれたような人たちが集まって『センセイ、センセイ』って涙を流しているような会合に、なんで自分がいなきゃいけないんだ」と、普通にものごとを判断できるようになりますから、新聞をとらなかったり会合に出なかったりすることに罪悪感や恐怖心を抱かずにすみます。むしろ新聞とったり会合に出ることに嫌悪感さえ感じるようになるでしょう。それができれば覚醒への道は近いです。
ということで、今回のテーマは「まずは勤行唱題をやめてみる」とします。
みなさんの「勤行唱題をやめてみて気がついたこと」をお話ししてください。
「勤行唱題をやめても功徳も罰もありませんでした」これは皆さん口をそろえて仰ることです。たまに「たしかに功徳のようなものをいただきました」という方がいらっしゃいますが、それが勤行唱題によるものなのかなんて誰にも証明できません。本人がそう思っているというでけの話です。罰についても同じです。そんなもの心理学でみんな説明できます。御本尊や題目に本当に人を幸せにする力があるのであれば、日蓮がそれを言い出してから750年もの間に、幸せな世の中になっているんじゃないでしょうか?750年以上もかかって何の現証もない教えを、なんで自分が信じて有り金はたいているのかを冷静になって考えて欲しいものです。そこに「ちょっとしたいいことがあった」と言ったレベルのことで「この御本尊とお題目には人類を幸せにできる力がある」とドヤ顔で自慢するにはあまりにも無理がありますよね(笑)。
毎日のように新しくコメントしてくださる方が増えています。また、このブログの皆さんのコメントによっていっきに覚醒できたとの報告もあいついでいます。しかし覚醒できても、すぐに脱会できる状態ではないと言う方も多くいらっしゃいます。本当なら、一日もはやく、一時間でもはやく創価とはスッパリと縁を切るべきなんです。でも現実にはそれがなかなかできないというのもわかります。自分が創価に入ったきっかけもあるでしょうし、まわりの人間関係を気にしたり、家族との立ち位置に悩んでいたりする場合もあるでしょう。子どもの脱会を知った親がショックでどうなるかわからないといった心配をされる方もいらっしゃいます。それもよくわかります。私も同じようなことで悩んだりしました。でも覚醒してからこの3年半で思ったのは「それはそのあと考えればいい」ということです。今の状態で「すぐに脱会」ということを考えると、いろんな「できない理由」が山のように出てくると思います。それは「できない自分」に執着があるからだと思います。創価は宗教ではなく詐欺団体だった。それがはっきりわかったとしても、なおかつそこに留まろうとしていろんな理由を探している自分がいる。あるいは「創価はほんとは正しい宗教団体なんだけども、いろんな理由で正しくなくなっているだけなんだ」と自分を誤摩化し続けている人もいます。こころの底ではもうとっくに気がついているのに、どうしてもそこから抜け出せない自分がいる。これも人間の弱いところですよね。
生まれた時から創価の家庭で育って53年。そして覚醒して3年半。そんな今の私が覚醒しかかっている学会員さんに言いたいのは「まずは勤行唱題をやめてみる」これができなければ、ほかにどんなに無理してやめようと苦しんでも、何かのきっかけで元に戻ってしまいます。まずはまともな思考回路を取り戻すために勤行唱題をやめるということが先決だと、今さらながら感じています。
私の場合は、男子部時代の終わり頃に創価のおかしなところに気づいて活動をしなくなりましたが、それでも「この信心に間違いはない」と信じ続けて、むしろ活動家時代よりも勤行唱題に真剣に取り組みました。今思えばこれがいけなかったんです。これで覚醒が10年も遅れたんです。まず何をしなければならなかたっか。いまはっきりと言えます。「勤行唱題をやめる」これです。これさえできれば、しだいにまともな人間になります(笑)。逆に言えば勤行唱題をしているかぎりはまともな人間にはなれません(キッパリ)。だって簡単な理屈です。勤行唱題とは思考停止のためにさせられてきたんです。けっして「宇宙のリズムに自分の生命を合わせる」なんていうヨタ話ではありません。最初に言ったように「疑わないこと→快楽」「疑うこと→地獄行き」を繰り返し脳に叩き込んでいるんです。ほんとに怖いですよね。毎日毎日自分に麻薬を打ってるようなものです。その麻薬のせいで、そしてその麻薬欲しさに常軌を逸した活動が平気でできる人間になっているんです。ですからまずはその麻薬を断ち切ること。そうすれば、そのあと自分は何をすべきかを考えることができるし、その確たる根拠のもとに脱会への手順を考えることができるんだと思います。「勤行唱題、ダメ。ゼッタイ。」です。

●にゃんこ丸 (2015年6月24日 16:45 )
こちらのサイトで覚醒してから勤行唱題をやめて、そろそろ3週間経つかな~というところです。仏壇いっさい開けてません。そろそろ御本尊を巻いちゃおうかなと思っています。
活動しなくなってからも勤行+唱題一時間を毎日続けていたのですが、それがなくなっただけで、ものすごく時間が出来ました。
私は自宅でフリーランスで仕事をしているので、こなせる仕事の量が増えていることが明らかに分かります。
こなせる仕事の量が増えただけでなく、入ってくる仕事の量も増えてます。罰なんてまったくありませんよ(笑)。
今日も年内いっぱいまでの仕事がほぼ埋まり、さらに来年初めの打診を頂き、来月始めから半ばまで二週間ほど休暇予定だったのがそこにも仕事が入り、忙しいけれども充実した日々を送っています。
これって勤行とかやめた功徳なの(笑)と思ってしまうほどで、自分でもびっくりしています。
ただ、どうしても神頼みしたくなるような時っていうのがあって、たとえば提出した仕事のチェック待ちをしている時なんかそうなんですが、手持ち無沙汰だし、何も出来ないし、不安だし、気持ちも落ち着かないし、今までだったら確実にお題目をあげていました。
でも、今はお題目をあげないので、「やれることはやった。大丈夫!」と自分に言い聞かせてますし、そう言い切れる仕事を提出できるよう常に心がけるようにしています。
でもこれって、お題目とかしてない人にとっては当たり前で、私はお題目をあげることによって、自分のした仕事+アルファの何かがご本尊様によって付加してもらえるものと頭のどこかで思い込んでいたんだと思います。
でも、そんな付加はもうない、自分のやったことがすべてと決めることによって、仕事に対する姿勢も大きく変わったように感じます。
勤行唱題をやめた代わりに、今はラジオ体操と5分程度のヨガのようなことをしています。勤行とかよりもよっぽど体にいいし、気持ちも集中して仕事に挑めるようになりました。
勤行唱題断ちは本当におすすめです。その浮いた時間で何をするのかを考えるだけでも楽しいと思いますよ。

●にゃんこ丸 (2015年6月26日 07:21 )
活動家だった頃に「お題目をあげてるとどうしても意識が散漫になってしまうので、短くても集中してあげるようにしたほうが良いのか」ということを婦人部の圏幹部に相談したことがありました。
私にとってはものすごく重要な悩みだったんですが「ぷっ」と笑われてしまいました。「そんなに真面目に考えてるの?」と言われ、みんな真面目に考えてないのか~!と驚愕してしまいました。
でも「集中するために時間を減らした」というと「最低一時間はあげたほうがいい。できれば一時間半。集中も大事だけど数も大事だから」と怒られました。
「やっぱり最低一時間はあげないと、守ってもらえない」とも言われました。
どこかで「三唱でもいい」とか「数をあげれば良いものではない」という話も聞いていたので、う~んという感じだったのですが、MCって怖いですね。それもそうなのかと思ってしまい、それから一日一時間は欠かさずにあげるようになってしまいました。
でも、一時間とか一時間半集中できるかというと出来ずにかえって自己嫌悪に陥るとか、だから自分って駄目なんだとか反省したりしていました。
お題目にかかわることで、子供の頃のことをまた思い出しました。雨の日に弱った子猫を拾ってきたのですが、すごく弱っていて、病院に連れて行きたいと言ったのですが、母は「題目をあげれば必ず助かる」と言われ、弟や妹たちと一緒に必死にお題目をあげ続けました。全員小学生とか幼稚園とかぐらいのことだったと思います。
でも、だんだん呼吸が小さくなっていき、動かなくなりました。
この時ばかりは弟や妹たちと「お題目あげたら死なないって言ったのに!」と母に詰め寄りました。母もさすがにちょっと返答に困っていたようでした。「でもお題目に送られて死んだんだから、すぐにまた生まれ変わってくる」と言われましたが、納得は出来ませんでした。
今思えば、絶対に病院に連れて行くべきでした。弱っていたので助かったかどうか分かりませんが、病院に行って駄目だったと思えば諦めもつくと思いますが、病院に連れて行かずに題目をあげ続けたことで、猫を死なせてしまった、殺してしまったという気持ちが大人になった今も拭えません。

●にゃんこ丸 (2015年6月27日 13:53 )
テーマと違って申し訳ないんですが、昨日の朝まで生テレビ、私は見てなかったんですが、若手議員を集めた討論会に自民党と公明党の議員が一人も出なかったそうです。
おそらく安保法制のことを突っ込まれると困るからという理由のようですが、下記のニュースサイトの記事に詳しく載っていました。
あれだけ平和、平和と言っておきながら逃げるなよ!!!
と、ものすごく腹立たしく、これまで騙されて応援してきてしまった自分にも改めて腹が立ちます。
田原さんのことも会合ではボロクソでしたよね。
http://www.excite.co.jp/News/society_g/20150627/Litera_1224.html

 

 


解説
シニフィエさんによりナンミョーズハイの定義がされています。
これがナンミョーズハイの初出でしょうか。

獅子風蓮



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