■これからのこと 投稿日: 2011年12月15日
やっとパソコンの前に座る余裕ができました。更新できなかったこの数日間も、たくさんの方においでいただいて感謝してます。育子さん、ラピスラズリさん、SJさん、 yokoさん、ペガサスさん、サラマンダラさん、もも(ら)さん、匿名さん…もう今さらおひとりづつお返事が書けそうもないくらいです。またこれから少しずつお返事をさせていただくつもりですが、とりあえず以下の文章にまとめてしまって申し訳ないのですが、今回はこのような形にさせていただきます。すみません。また、yokoさんとSJさんのように、この場で対話していただけるととてもありがたいです。みなさんほんとに貴重なお話をありがとうございます。よろしくお願いします。
私はこれまでにも書きましたように、ほんのひと月前までは、まだ創価学会というものをそこまで批判的には見ていませんでした。疑問に思うことはたくさんありましたが、それでもまだ会員が組織に対するきちんとした認識をもつことができれば変わることが可能なのではないか…つまり社会的に害のないまでの宗教団体として生まれ変わることができるのではないか…ぐらいのレベルで思っていたように思います。しかしそれはまったく甘い考えだということ、完全な認識不足であることに気がつく毎日です。つまり創価学会はまじめな宗教団体だったのが、どこかで間違ってしまったから、今からでも修正できればたちなおることができるのではないかといった認識自体が間違っていたことに気がついたのです。少なくとも池田大作という人物が指揮をとるようになってから、創価学会は宗教団体ではなく宗教を利用した営利団体、マインドコントロールによって信者からお金をむしり取る巨大なシステムになったのだということがはっきりとわかりました。これは大変なことです。日本に数ある怪しげな新興宗教の害悪どころではないと思います。
ひと月前、まだ私が半信半疑のころ、ネットで創価学会の末端会員のところへランダムに書き込みをしました。このブログのスタート時にも紹介しましたが「あなたがたの対話をしようともしない独善的・排他的な言動が、創価学会の社会的信用を貶めているのではないか」というふうにです。それに対する反応は「あほらしい」「最低最悪のナリスマシ」といったものでした。なるほど、創価学会というのはこうした思考停止の人間を多く作り出すことで莫大なお金を集めてきたということがわかりました。思考停止の人間は、自分自身がそうであることに気づかない。そしてそうした実情を指摘するものに対して異常なほどの攻撃姿勢を見せる。そこには世間の理屈などまったく通用しません。
もともと日蓮宗の特色である排他思想は、仏教であるにもかかわらずキリスト教的な一神教といいますか、もしくは選民思想に近いもので、これを思考停止のための道具に利用しようと思い立ったことは、ある意味見事だといえます。ただ初代会長や二代会長がはじめからそうした目的であったのかはわかりません。はっきりいえるのは池田名誉会長が創価学会をそのようにつくりあげたということです。
新興宗教の教祖によくあることですが、幼少の頃から自らの出生や学歴や身体能力にたいへんなコンプレックスをもち、逆にそのことを原動力として、やがて非合法なやりかたを持ってしてでも金と権力を得ようとする。閉じた世界ではあるけれども誰にも有無を言わせないカリスマ性のある立場に自分を仕立てることでまわりの人間を支配していく。社会的モラルなどお構いなしに実行していく。そして信者共々数々の犯罪に手を染めていくというのが、すべてとは言いませんが多くの新興宗教と偽る団体の実情です。
知らなかったとはいえ、今思えばあのような完全に洗脳された末端会員のブログに書き込んだことは軽率だったと思います。今となっては恥ずかしいかぎりですが、この恥ずかしい経験を機に私はこのブログを立ち上げる決心がつきました。そしてここに来られるみなさんとの人間らしい対話にほっとしているところです。MCが解け始めてまず感じたことは、ソクラテスではありませんが、自分の無知を思い知ることでした(笑)。
功徳と地獄による洗脳。つまるところ「夢のような功徳」を語ることで心を引き寄せ「地獄に堕ちる」という恐怖を植え付け組織に縛り付ける。このふたつのアメとムチを信じさせることによって、末端会員を集金マシンに仕立て上げる。日蓮の排他的な教義はそのためにぴったりの道具だった。創価学会はこれだけのために様々な戦略を実行してきた。座談会、聖教新聞、出版事業、創価学園、文化祭、民音、公明党、芸能界、法曹界…その他いろいろなことをしてきたけれども結局ここに行き着きます。金と権力です。実際の平和や文化などいっさい関係ない。だから日蓮正宗から破門されようが、チベットで仏教者が虐殺されようが、ヨーロッパでカルト認定されようが、会員がお金を貢いでいるあいだはたいした問題ではないわけです。学会の組織にとって一番怖いことは、会員が財務をしぶりだすことでしょう。それを防ぐために新たに数多くの会館を建設し、幹部を増やし、聖教新聞で露骨に洗脳し、対外的な名声を今まで以上に会員に対して誇示していく。このひと月でいろんなことが「なるほど」と思えてきました。
私が大学を卒業してから地元に帰ってきて男子部に入ったとき、はじめての財務をしました。もう30年前ですが(笑)。そのとき同じ地区に新入信の男子部がいて、その人は高校卒業してすぐに就職して2・3年といったところでした。かれはまじめを絵にしたような男で、その年わずかな給料からコツコツためた貯金の100万円をまわりがよってたかって財務にさせました。当時の地区部長は「新しい友が発心して3桁の財務を達成することができました?!」と発表し、まわりは拍手喝采。当時私はこれはありえないだろとは思いましたが、本人の意思だから何も言えないなとも思いました。今考えれば、あれは本人の意思などと言えるようなものではなかったし、30年前に二十歳かそこらの青年にとっての100万円がどれだけ貴重か(年とっても大変な金額なのですが)、それを盲目的に貢がせる団体の異常さをどうして見抜けなかったのかと思います。今考えればそんなことばかりです。おそらくこの年末の時期に、今もそのようなことが全国で展開されているのでしょう。
先日、88歳になる私の母親の米寿のお祝いに家族が集まりました。母は去年から少しずつ痴呆が進行してきて、ときどき会話もかみ合わない状況です。今さら母へ創価学会の真実を訴えたところで通じることはないでしょう。それ以前に母の人生を今さら否定して何になるのかと思います。また母は60年近く創価学会へどれだけのお金と時間を貢いだのだろうと思いました。すべては人のためによかれと信じてのことでした。母の人生のほとんどが創価学会のために生きてきた人生でした。そしておそらくこのまま創価学会員として人生を終えていくのかと思うとやりきれない気持ちになりました。圏幹部の兄夫婦はあいかわらず毎年それぞれ3桁の財務をするというありさまで、たぶん財務がなければ、この夫婦は豪邸に住んでいるだろうと思います。彼らの姿を見るにつけ、まだ私が脱会をきりだすタイミングではないと判断しました。
このブログを立ち上げて10日。今の私の立場では、学会を無視すれば実害は避けられるのでしょうが、私はまだまだ創価学会の真実を知る必要があると実感しました。逆にこの程度であればこそ、何かしらできることがあるかもしれないとも思います。ここではとにかく現役学会員さんや元学会員さんたちの真実の声を一人でも数多くご紹介できればと思いますし、さらに多くの人たちにこうした声を聞いていただければと思います。
学会員は加害者なのか、被害者なのか。単に被害者として救済されていいものかどうかという心情的な問題もあると思います。人生を棒に振らされたことに対する怒りをどうやったらいいのかという問題もあるでしょう。学会周辺には実際に不可解な自殺や、不可解な事故で亡くなった事件もあります。現実との葛藤に鬱や精神障害に追い込まれた人も知っています。でも私の力では如何ともしがたい根深い大きな問題です。私には守るべき家族がいるし、やはりそのことを優先します。ですからまず、せめて多くの方の真実の声を積み重ねることによって、次のステップが見えてくるかもしれないと思っています。単に学会を感情的に罵倒するような自己満足のためのブログではなく、学会の真実を客観的に伝えるブログが何百何千も立ち上がれば、事態は必ず変化するでしょう。私のような何の力も名もない一人の人間でも、何かしらできることがあると思っています。
今、創価学会は姿を見せられなくなってしまった池田名誉会長のカリスマ性をどうやって維持していくかで懸命です。聖教新聞の紙面にはその苦しみがつとに鮮明ですが、その努力が無に帰するのももはや時間の問題でしょう。しかしだからといって今創価学会によって苦しんでいる人の問題が解決するわけではありません。すでに脱会して何年も経つというのに、いまだに精神的な呪縛や絶望感から脱しきれないでいる方も多くいらっしゃいますし、学会のせいで一家離散したり経済破綻した多くの方の問題が解決するわけではありません。また命を落としてしまった方はもはやどうすることもできないのです。ですから、せめて創価学会という組織が崩壊するだけではなく、実際に創価学会とは何だったのかということが社会的に白日の下に晒され糾弾され、このような社会悪が今後出現できないような社会作りをしていかなければならないと思います。そのためには、これまで表に出ることのなかった名もないお一人お一人の真実の声を社会に示していくことが大切なのではないだろうかと考えています。
まずはこのブログに一人でもコメントいただきたい。こんなブログがあることを多くの方に伝えていただきたい。そしてできる方はご自分でブログを立ち上げて、さらに多くの声なき声を形にしていただければと思います。
このひと月で、私の考え方はこんなふうに変わってきました。自分としてもこの歳でこれほどまでの精神的な変動があるとは思ってもみませんでした。人生とはわからないものです。こうして文字にすることで自分の考えの変化を確認することも大切だなと思います。そしてこれから自分は何をすべきかを落ち着いて考え行動していき、その一部始終を可能なかぎりこのブログに記録していきたいと思います。
なお、このブログは何の説明もなく閉鎖したりはしません。もし突然アクセスできなくなることがあったとしたら、私以外の何らかの意図だと考えてください。
また、みなさんからのコメントを無断で削除するようなこともしません。削除が必要だと判断したときには、ここでお知らせした上で削除します。コメントしたけどアップされていない場合は、アップされなかったことだけでもコメントいただければと思います。
また私は今後の不測の事態も考えてメールアドレスは公開しませんし、嘘は書かない代わりに、私自身がどこの誰かを特定できるような表現は避けています。またコメントされる方もメールアドレス等の公開はしないでください。ちょっと考えれば無責任な発言を許してしまうことにつながりそうですが、それは逆に、より真実を伝えるために仕方のないことだと思っています。ここではあくまでみなさんの真実の声をお聞きするための場所として、みなさんとともに作り上げていければと思っています。今後ともよろしくお願いいたします。
いっきに書いたので日本語になっていないところはお許しください(笑)。
【解説】
このブログは何の説明もなく閉鎖したりはしません。もし突然アクセスできなくなることがあったとしたら、私以外の何らかの意図だと考えてください。
また、みなさんからのコメントを無断で削除するようなこともしません。削除が必要だと判断したときには、ここでお知らせした上で削除します。
当初のシニフィエさんのこの方針は、最後まで貫かれたのでしょうか。
今後を見てみたいと思います。
獅子風蓮