石橋湛山の政治思想に、私は賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。
湛山の人物に迫ってみたいと思います。
そこで、湛山の心の内面にまでつっこんだと思われるこの本を。
江宮隆之『政治的良心に従います__石橋湛山の生涯』(河出書房新社、1999.07)
□序 章
□第1章 オションボリ
□第2章 「ビー・ジェントルマン」
■第3章 プラグマティズム
□第4章 東洋経済新報
□第5章 小日本主義
□第6章 父と子
□第7章 政界
□第8章 悲劇の宰相
□終 章
□あとがき
第3章 プラグマティズム
(つづきです)
湛山は7月に早速、早稲田大学高等予科の二学期編入試験を受けて難なく合格した。9月になると、その二学期に通うようになった。
早稲田大学は湛山が予科に入学する2年前の明治34年に、東京専門学校を改めて早稲田大学とした。この際に、予科を毎年4月に開始し、翌年7月の大学入学時までの一年半とし、中学校卒業生が間断なく入学できる制度にしたのだった。
湛山の早稲田入りを、日謙も喜んでくれた。
「それが一番いい方法だ。おまえが山梨普通学校で教えながら正規の中等教員免状を取ろうというなら別だが。もっとも、おまえがその程度で納得するような男ではないことも分かっている。ともかく、早稲田で学んで、それから先はそれからの話だ。おまえは学ぶほど物事を吸収して大きく膨らんでいく男だから」
湛山は、小石川・茗荷谷にあった日蓮宗の寄宿舎である茗荷学園から早稲田まで歩いて通った。当時の早稲田周辺は、鶴巻町を中心にして古書店や流行り始めたばかりのミルクホール、生活に必要な品物を並べた商店街などがあって、大学街の観を示していた。
だが、ちょっと裏に入ると目白台の方まで田圃ばかりが続いていた。その中に茗荷畑もあって、湛山はこうしたのんびりした風景を見ると、幼・少年時代を思い出しては懐かしくなった。
時折り、人力車が通学する湛山を追い越して行き、その頃はまだ珍しい自転車が「ちりん、ちりん」とベルを鳴らして湛山の脇を擦り抜けていった。
「先日、飯田橋から八王子まで甲武鉄道に乗ってみたが、これが速い速い」
「ほう、まだ俺は乗ったことがないが、八王子まで汽車で行ったら、甲州までは随分近くなるなあ」
「そりゃあそうだ。江戸の昔は、八王子までは一泊二日の距離だからな」
同級生が昼飯どきにそんな会話をしていると、ふっと「甲州」という言葉が懐かしく胸に沁み込んでくる。湛山は、八王子経由で甲府に行ったことはない。当時は、甲府から南に馬車で向かい、幼時に住んだ増穂の隣にある鰍沢から富士川舟運を利用した。清水の岩淵まで出て、それから東海道線を利用すれば、その日のうちに東京に到着するという訳である。だから、宿泊が必要になる八王子経由の甲州街道を湛山は使ったことがなかった。
湛山は、翌年7月に予科を終了、9月から正式に早稲田大学大学部文学科哲学科1年に入学した。専攻は哲学であった。
(つづく)
【解説】
こうして、湛山の早稲田大学での生活がはじまりました。
獅子風蓮