■正義は勝たない その2 投稿日: 2011年12月24日
今日、組織の壮年部の方が私のところに新年勤行会の入場券を持ってきました。「財務はおつかれさまでした」と言ったので、どうやら私が財務をしていないことを知らないようです。さて新年勤行会はどうしたものか考え中です(笑)。
太平洋戦争中、日本は「鬼畜米英」という言葉で日本国民を煽り、アメリカ軍のB-29爆撃機に対して、女性や子供にまで竹槍を持たせて応戦させようとしました。国民は日本軍から「神国日本を信じて祖国の勝利のために命を惜しむな」と刷り込まれていきました。当時の日本の多くの母親は、我が子を戦場に送る悲しみを決して周りに感づかれないように押し殺し、どんなに戦況が不利になろうと「カミカゼ」を信じ、祖国の勝利を信じていたのです。
鬼畜米英という言葉によって、外部に憎き敵を想定し、いわゆる全体主義思想を一般国民の隅々まで行き渡らせる手法は、まさに創価学会そのもの。戦後、創価学会は日蓮仏法の好戦的な排斥思想を利用して、物質的な豊かさを信じた高度経済成長時の都会に集まる人々の阻害された心をつかみ、急激に組織を拡大して行きました。「濁悪のこの世行く学会の行く手を阻むは何やつなるぞ」威風堂々の唄…日本軍歌の代表格「同期の桜」によく似た曲です。私が学生部だったころは、別名「濁悪の唄」と言ったものでした(笑)。こうした軍歌とひとつも変わらない煽動的な旋律と歌詞を来る日も来る日も繰り返すことによって、自分たちの信じる正義を阻むすべての宗教に牙を剥かせていきました。富士大石寺への登山に向かう貸し切りの列車やバスの中では、入れ替わり繰り返される青年部の指揮のもと、声がかれるまで学会唄を合唱したものです。それは内部組織の団結をはかると同時に、外部からよけいな情報を入り込ませないようにするための巧妙なアジテーションでもあったわけです。
太平洋戦争中の鬼畜米英という言葉に象徴されるように、敗戦によって決定的な価値観の転換を迫られた日本人に対して、「広宣流布」という言葉のもと、ふたたび敵を憎む心を増長させながら思考停止へと人々を導き、金と権力を我がものにしていく。結局それが創価学会のやってきたことでした。戦時中、家庭の鍋や包丁までも「お国のために」という言葉で有無を言わさず徹底的に巻き上げていく供出制度は、どんなに貧しい家庭でも「広宣流布と人間革命のために」の言葉で有り金を出させる学会の財務と驚くほどよく似ています。
私はそのことにやっと気づきました。ほんとうに遅すぎました。53年の自分の人生の中で、どれだけの時間を無駄にしたことか。無駄ばかりではなく、まわりの人々にどれだけ迷惑をかけてしまったかを考えると、どうしても泣き寝入りはしたくないと思っています。多くの国民が終戦を迎えてはじめて自分たちのしてきたことが分かったように、創価学会が崩壊したときに、おそらく多くの人が精神的空洞状態に陥るのだと思います。今でも創価学会員は爆撃機に竹槍を突いてでも敵を倒そうと思っている人が少なくはありません。
私が自分のMCに気づいてすぐに書き込んだ学会員のブログなどはその典型的な例でしょう。幸か不幸か、たまたま特別に洗脳のひどいところへ行ったものですから、あのときの経験で私は創価学会のおかしさを確信したのです。心ある人があのブログを訪れれば、多かれ少なかれ創価学会が異常な集団であることに気がつくでしょう。そうした意味では、あのブログ「創価の森の小さな家」は一人でも多く脱会者を増やすための強力な武器となると思います。そんなことにも気づかないほどブログの主は洗脳されきっています。私の「53歳学会員」というHNでの書き込みなども一部ではありますが「ナリスマシのサンプル」として残っています(笑)。ここですhttp://sokanomori.exblog.jp/17098281/
その後彼は学会の正当性を議論するための別ブログを立ち上げたようですが、その中身は最初から荒れ果てていて、見るも無惨な醜態を晒しています。ブログの管理人は私を学会員に成りすましたアンチと決めつけアクセス禁止にしました。学会を批判する学会員がいるはずはないというわけです。というか、彼にとっては実際に内部に批判者がいては困るので、すべてナリスマシということで口封じをします。私は言いたいことが途中で拒絶されたので、その子分のような立場でいつもくっついている「巌窟王」という名のブログに学会の矛盾をかなり事細かに書いたのですが、先日なぜかサイトごと消えてしまいました。自分としてもかなりの大作だったので(笑)残念ですが仕方ありません。もちろん今となってはもうどうでもいいことです。私が学会の現状を知るきっかけとなったことに関しては感謝していますけどね。彼らにはこれからも学会の典型的な醜態を世界に晒すブログとして続けていってほしいと思います(笑)。
話がつまらないところへそれました。話を戻しましょう。私が言いたかったのは、人は少しの甘いエサと言葉ひとつでどうにでも誘導できるということです。戦時中の日本の大政翼賛会しかり、ナチスドイツ政権下のヒトラーの演説しかり、今も存在している独裁政権国家にしても、すべて言葉巧みに国民を誘導するカリスマによって人々は利用されるだけ利用されて不幸になりました。戦争に限らず、日本の原発政策もよく似た構造によって政治家と企業が結託して国民をだまし続け、さらに金と権力を我がものにしてきました。あの311がきっかけで、私たちはそうしたことをはじめて自分の問題として考えさせられました。日本の原発政策がアメリカ政府を通して行っていたユダヤ資本家によるマネーゲームだったということを誰もが(誰もではないかもしれませんが)知ることとなった今でも、日本の政府はなにひとつ解決することもできずに、この期に及んでさらに原発を輸出できる国にしようとしています。日本はなぜそんな国にならなければならないのか。それは日本の意思ではなく、アメリカ政府の都合であり、もともとはアメリカ政府をあやつる資本家の利害が出発点だからです。こうした昔から世界を操ってきた巨大権力の構造を前にして、日本政府の意向など赤子の手をひねるようなものです。こうしたことはたとえ万民が知ることとなっても、おいそれと変わるものではありません。もう数百年もこうした構造のもとで歴史は動いています。私たちは何も知らされないうちに、とんでもない搾取の世界に生きています。そんな世界の構造の中で、創価学会に何ができるというのでしょう。人間革命によって世界は変わりません。創価学会が体質改善をして組織の何かが変わったところで、世界に平和が訪れることはありません。それ以前に多くの人が不幸になっているのです。このことを現役学会員はもう一度よく考える必要があると思います。信仰による功徳という甘いエサに誘われて、組織の言いなりになって集金マシンとして動き回る人生。組織に対する矛盾を見ていながらも、見なかったことにする体質。それはあたかも利己的な利害を優先させて戦争へと邁進して行った大政翼賛会と同じ構造を創価学会がもっているという証拠であると考えます。
マハートマ・ガンディ、ルーサー・キング牧師、ケネディ大統領…彼らはひとつの国という制約の中ではあったけれども純粋に国民の幸福を考えて行動しました。その行動は世界に知られることとなり、今でも偉大な人物として語り継がれています。ご存知のように、こうした人々の幸福を考え行動してきた人物はいずれも暗殺されました。人々がみな幸福になっては困る世界の支配者が、何をもってしても阻止する。世界の実態はこうしたものです。残念ながら正義は負けるのです。だから創価学会がどんなに心を入れ替えたとしても、人々を不幸にこそすれ幸福にすることはありません。間に合うとか間に合わないとか言う問題ではなく、もともとそうした組織ではないと思います。少なくとも池田名誉会長が指揮を執り始めてからの創価学会は、宗教を悪用して善良な人々からお金と労働力を搾取する権力組織であることは明らかです。ただ現役の創価学会員にだけはそれが見えないような仕組みをつくりあげているものだからたちが悪いのです。
あ~、仕事がめちゃめちゃ忙しいというのに、ついつい書いてしまいました(笑)。一気に書いたので、日本語がおかしいところがあるかもしれません。かんべんしてください(笑)。
●Anonymous(2011年12月27日 02:34)
シニフィエさん。記事を読みました。創価の問題点を追及するのは良いんですが、一部に「ユダヤ陰謀論紛い」の発言が見られますね。原発政策の部分です。この手の原発関連のユダヤ陰謀論与太話に嵌ると、創価の洗脳と大差無い事になります。「ホルミシス効果」の様な反論を認めなくなるんですよ。自分の知った「真相」なるものに凝り固まって、"低線量放射線死ぬ死ぬ詐欺工作員"として、東電叩きばかり繰り返すアホに成り下がります。反論されると逆ギレしてきて、罵倒を始めます。また、創価の洗脳から抜けているのは良いんですが、自虐史観の洗脳からは抜けていないようですね ?竹槍云々の部分は、当時、敗色が濃くなっていた日本国内で、軍部が国民の敵愾心を維持する為にやっていたものですよ。誰一人として、"竹槍でB29を落せる"とは考えてなかったのでは無いでしょうか ?戦後民主主義言語空間でしか通用しない自虐史観。そんなものに拠って記事を書くなら、それは創価学会の池田大作を始めとする創価学会の幹部連中の与太話を受け入れるのと同じですよ。ああ、そうだ。此処で私を右翼だとか、ネトウヨって言ったら、それは狂った創価学会員の振る舞いと同じだと言っておきます。
●シニフィエ(2011年12月28日 10:24)
匿名さん、コメントありがとうございます。そうですね、ユダヤ陰謀論などは世間ではトンデモ話として面白おかしく語られるレベルですから、創価問題と並べてしまうと、このブログの信頼性にも関わってくるというご意見、ごもっともだと思います。ありがとうございます。そもそも「陰謀論」というくくり方がすでに胡散臭さありきなので、私の発言に胡散臭さを感じられるのも無理ないかもしれません。私は「陰謀論」なるものを相手にしてはいませんが、特に近代以降の西欧諸国による世界各地での植民地政策は今も露骨に続いていると思いますし、今の世界的な経済危機も自分の手の汚れないところからの操作であると思っています。かれらにとっては戦争でも災害でも金儲けの手段でしかないのですから、陰謀だなんだと騒がれたところで痛くもかゆくもないでしょう。ここでのこうした見解もあくまで私のような何の力も名もない一市民の憶測に過ぎないわけですが、私は私が生きているこの世界は何者なんだという疑問から自然と出てきた思いを書いているのであって、なにもユダヤ陰謀論の正当性を主張したり、ひけらかすつもりもありません。私は植民地政策や明治維新を強要してきた欧米の動きを、「真相」とか「陰謀」とかではなく史実としてとらえています。長崎に来た若きトーマス・グラバーはエージェントであり坂本龍馬は彼の単なる使いっ走りだったと個人的には思っています。そして今でも石油、タバコ、ウラン、肥料、ワクチン、原発、核ミサイル、戦闘機をはじめ、政治家や企業や金融市場を有利に操り、相手の弱みに付け込んで独占的に売りまくって法外に儲ける彼らの手法は確実に存在すると思っています。それは陰謀でも何でもなく誰もが知りうる史実です。それを陰謀論などと茶化して自虐史観と決めつけるのはどうかなとも思います。今のこの世界の有り様を「壁と卵」に例えた村上春樹氏のエルサレムでのスピーチは、彼だからこそできるとてつもないアウェーでの全世界に向かってのすばらしい発言でした。世界を動かしている巨悪に対して私たちは壁にぶちあたる卵でしかないが、それでも氏の言うように私も卵の側に立って生きていきたいと思っています。「正義は勝たない」というのはそういう意味のつもりでつけたタイトルです。またB29と竹槍の話ですが、徹底した上意下達の思想統制下において、戦闘機に向かって竹槍を突き出す女性や子供は、今考えれば「本気でそんなことを信じてやったわけがないじゃないか」と思うのが自然ですが、たとえば創価学会だけが世界平和を実現できる宗教だと本気で信じている末端会員は、終戦後29年間、祖国の勝利を信じてルバング島のジャングルに潜んでいた小野田寛郎氏のようなもので、間借りなりにも民主主義と言われる今の社会に住んでいる私たちからすれば信じがたいことです。でもそんな考えられないようなことを私も信じていたんですから不思議です。かといって今の日本が民主主義国家とは思いませんし、多数決に至っては正しさをねつ造するシステムだと思っています。原発は未来のクリーンなエネルギー。あの事故が起きるまで、なんとなく多くの日本人がそう思わされていました。東海村やもんじゅの事故があっても目に見える直接被害のない自分たちにとっては対岸の火事であったのだと思います。八ッ場ダムも諫早湾干拓もちょっと離れた人にとっては他人事なのです。自分の身に降りかかってこなければ、身を挺して阻止するなどできないのが人間です。昨日、私が繁華街に行ったとき、金正日死去のこのタイミングでこその横田めぐみさんの帰国を要求する街頭署名に出くわしました。若い青年たちが大きな声を枯らして、必死に拉致被害者の救済を訴えていました。私は妻とともに署名用紙にサインをしながらも、この青年たちのようにみんなが一生懸命になったらもう少しは進展するかもしれないのになあと、複雑な気持ちになりました。私の父は学会草創期の幹部だったことは以前書きましたが、父の弟は長い間とある都府県の労働組合の委員長でした。いってみれば左翼幹部です。私はそのことを20年前に父が亡くなってから知りました。父としては実の弟が左翼幹部であることを恥じたのかもしれません。私は昔から左が嫌いです(笑)。左に傾くくらいなら右の方がマシだと今でも思っています。でもそういう右か左かの枠自体に興味がありません。私が大学に入学した70年代後半、学内にはまだ妙な略字を書いたヘルメットやプラカードを携えてハンドマイクでがなりたてる学生がいました。「○○は自己批判せよ!」とか「成田闘争へ集結せよ!」とか「アメリカの原潜入港を阻止せよ!」などと力なく形ばかりのアジテーションを繰り返す姿はなんとも哀れでした。そのような中、政府や企業はマスコミを金でねじ伏せながら「原発反対=左翼」というイメージを日本中にアピールし、原発反対という世論を後ろめたいイメージに変えながら、私たちは原発を対岸のことのように感じながら、知らないうちに「原発は未来のクリーンなエネルギー」となんとなく思わされてきたようです。こうしたことまで「陰謀」とか「戦後民主主義言語空間でしか通用しない自虐史観」などと捉えることにどういった意味があるのか理解できないです。この世に民主主義は存在しない。正義は勝たない。歴史は勝者によって都合よく変えられる。右も左もどうでもいい。そして創価学会は間違っている。そして抗いきれない巨悪に戦いを挑むよりも、時空を超える芸術を介した深い精神性をほんの一部の人たちとでも共有することができる人生が、どれだけ価値のあるものかということをあらためて思う今日この頃です。他人の自己表現につきあっているほど人生は長くない。そう思います。
【解説】
Anonymous(匿名)さんとシニフィエさんの間で、「ユダヤ陰謀論」についての興味深い議論が交わされています。
ここでのシニフィエさんの議論は冷静で、理論的だったと思います。