獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

自民党と創価学会・禁断の関係 その2

2023-11-10 01:56:32 | 創価学会・公明党

d-マガジンで興味深い記事を読みました。

かいつまんで、引用します。


週刊ポスト 2023年11月10日号

[ニッポンの最大タブー 徹底検証]
政権の行方を左右する「最強集票組織」の正体――
自民党と創価学会・禁断の関係
10・22補選から見えた“崩壊前夜”の自公連立
総理大臣と池田大作氏の接点、
旧婦人部・芸術部の得票パワーまで――

(つづき)

野中広務が明かしたこと

メディアは自公関係を「連立」と称する。しかし、これでは野党時代を説明できない。本質は選挙協力にある。09年に下野した直後、公明党は関係見直しを模索したが、10年の参院選でも地域ごとの協力は維持され、非改選も含めて民主党を参院過半数割れに追い込んだ。12年、衆院選では選挙協力をほぼ復活させ圧勝、政権に復帰した。
本来、野党が連立政権の樹立、あるいは連立与党がその維持を前提に国会対策や選挙で協力することは「政党連合」と定義される。野党時代を含めると自公は政党連合なのだ。だが、メディアが閣僚人事など与党時の派手なニュースに目を奪われているせいか、政党連合には目が向けられない。
選挙協力が重要であることを見抜いていたのが、自公連立を推し進めた小渕恵三内閣の野中広務・官房長官だ。
野中氏の政務秘書官だった加藤芳輝氏は生前、私に「野中氏は98年に官房長官に就任する前から旧知の創価学会関係者に連絡して感触を探り、連立も可能と踏んでいた」と語っている。
野中氏も自身の回顧録で〈いきなり自民と手を組んだのでは、支持者にとても説明できない。ワンクッションおいてもらわなければ〉(『野中広務 全回顧録 老兵は死なず』文藝春秋)と新進党分裂を経て再結党した公明党から要求があったことを明かしている。その意向を踏まえ、まず、小沢一郎党首率いる自由党を引き込み、公明党の求める政策を実現するなど環境整備に努めた。そして、翌99年10月、公明党は自自連立内閣に参加した。
野中氏が感触を探った創価学会関係者とは、創価学会本部青年部副男子部長などを務めた竹岡誠治氏だろう。竹岡氏の著書『サンロータスの旅人』(蜜書房)の発刊への寄稿文で野中氏はこう振り返っている。
〈初めてお会いしたのは、山梨だった。私が自由民主党の総務局長在任中であった。仲介者は佐々木ベジ氏。(中略)そのころ山梨では、金丸信氏のスキャンダルで、知事選で金丸系が落選し、次いで(92年の)参議院の選挙区も厳しい状況であった〉
会った席で野中氏は竹岡氏に公明党の支援を要請、〈おかげで選挙は、勝利することができた〉という。その後紆余曲折を経て、急速に両氏は親しくなり、野中氏は次のように呼びかけられる。
〈今、公明党は新進党として、自民党と対立していますが、私は公明党は自民党と組むべきだと思っているのです。戦後五十数年、外国からも侵略されず、国内の内戦がなかった日本は稀有の国です。それは保守たる自由民主党のおかげです。でも現在、自民党は制度疲労をおこしています。公明党というより、支援母体の創価学会には、池田先生が手塩にかけて育てた青年部がおります。また、何よりも平和を願う健全な婦人部がおります。この創価学会の青年部・婦人部と手を組んで、政局を安定させ、難局を乗り越えようではありませんか〉(前掲の寄稿文より)
自公連携というよりも「自創連携」だ。一連の経緯は野中氏の回想録などではあいまいにされており、関係者の間でも知る人はほとんどいない秘話である。


選挙区は自民、比例は公明

官房長官から自民党幹事長代理(のち幹事長)に転じた野中氏は党内外の反発を抑えながら選挙協力体制の構築を推し進めた。当時、公明党との選挙協力を強引に進める意味を尋ねた記者時代の私に、野中氏は「公明党は独自政策を実現できればいい。いずれ衆院から撤退するだろう」と答えている。本当にそうなると思っていたのか分からないが、09年に下野した直後、公明党の「小選挙区撤退論」が浮上した時は、野中氏の言葉がよみがえった。
政党連合では内閣を共にすることがもっとも接着力を持つと説明されるが、当落を重視する国会議員の心理を熟知する野中氏にしてみれば選挙協力が影響力を持つと考えたのだろう。
さらに自公の選挙協力は極めて特殊だ。衆院選では自民党の小選挙区候補者を公明党が支援し、見返りに自民党候補が支持者に比例代表は公明党と書くよう求めるバーターが行なわれている。野中氏は、自著『聞き書 野中広務回顧録』(岩波書店)の中では〈そうでないと、一回きりの選挙で、長続きしないから〉と語り、自身がやり始めたことを明らかにしている。
自民党の小選挙区候補者から見れば公明票が、公明党から見れば比例代表票に自民票がそれぞれ組み込まれている。いびつではあるが、小選挙区を握りたい自民党と比例代表に活路を見出したい公明党が現行の選挙制度に最適化しているともいえる。所属議員単位でみれば一種の融合状態にある。
00年当時、「本来投票すべき政党以外に投票するのは制度が形骸化するのではないか」と尋ねた私に野中氏は、創価学会の拡大期である60年代に入会した一世の会員を念頭に、「もともとは田舎から出てきた人たちで、生まれは自民党支持者と違わない」と説明した。答えにはなっていないのだが、個々の人間、一人一人の国会議員、という政党の下部構造から上部構造を捉えなおす野中氏の視点がうかがえる。
また、野中氏はやはりこの回顧録の中で、公明党との選挙協力体制を構築するに当たって、創価学会本部の幹部と協議を進めていたことを明らかにしている。
竹岡氏のエピソードとも合わせ、自公関係が創価学会を軸としていることを認識させるエピソードだ。

(つづく)


(参考)
私の手元にたまたま竹岡誠治『サンロータスの旅人』(天櫻社)という本があります。
この中の、野中広務氏の寄稿文を引用したいと思います。

発刊に寄せて
        元内閣官房長官 野中広務
竹岡誠治氏に初めてお会いしたのは、山梨だった。私が自由民主党の総務局長在任中であった。
仲介者は佐々木ベジ氏。当時、若手の新進気鋭の経営者で、東京都青ヶ島出身。財団法人日本人形美術協会の会長も兼務しておられた。
総務局というのは、党本部で選挙を仕切る部門で、ちょうどそのころ山梨では、金丸信氏のスキャンダルで、知事選で金丸系が落選し、次いで参議院の選挙区も厳しい状況であった。
そのころ佐々木ベジ氏と竹岡氏は大変懇意で、竹岡氏の要請でいつも佐々木氏は日本人形美術協会の組織を公明党の支援に振り向けているころだったと記憶している。
山梨の現状を佐々木氏に伝えたところ、「山梨は公明党は立候補しておらないから、竹岡氏に聞いてみましょう」との返事であった。それで、山梨でお会いすることになったのである。
「私の政治の師匠は金丸信です。その金丸が苦境に立っています。知事選と今回の参院選と、続けて負ける訳にはまいりません。どうか、みなさんの力を貸していただけませんか」
と、私は有り体に現状をお話しし、頭を下げた。
竹岡氏は、すでに現地と話し合いをされていた様で、現地の県会議員の方も同席されていた。また、東京の豊島区で建設業を営む和栗弘直氏も同席されていた。
「わかりました。私の人生の師匠は池田大作先生です。できる限りの応援をさせていただきますので、どうか野中先生、生涯、創価学会と池田先生をお守りください」
テンポのいい、率直な、何のてらいもない返答であった。おかげで選挙は、勝利することができた。

しばらくして、自民党は野党に落ちた。私は衆議院予算委員会の理事として、当時の連立与党を激しく攻撃した。
一連の攻防の中で、予算委員会で、反創価学会の質問を行なうことになり、越智通雄氏が質問に立つことになった。
質問主意書を見て、「これは困った。こんなに露骨に創価学会を攻撃しては、私が質問しないまでも、予算委員会の理事をしている以上、責任を取らざるを得ない」と思った。
そして悩んだ末に、「俺がやる」と、越智氏から一任を取り付け、代わって私が質問に立ったのである。
すると、予算委員会が終わるやいなや、竹岡氏が飛び込んできた。
「野中先生、あなたは何という人ですか。自分の師匠である金丸先生が窮地に立っておるから助けてほしいと応援を頼んでおきながら、『宗教団体が、そもそも政治に関与するとはけしからん』とは、どの面下げて発言されたのですか」
私は、一言も反論しなかった。
彼は、「こんな三流の政治家に会ったのは、人生の恥辱だ。二度と顔も見たくない」と、机をひっくり返して帰っていった。
しばらくして、再度、竹岡氏は現れた。
「いや、野中先生、申し訳ないことをいたしました。帰って予算委員会の与党の理事・草川昭三氏に、かくかくしかじかと、話をしたところ、『いやいや竹岡さん、それでわかった。予算委員会の質問主意書を見て、私は肝がつぶれた。こんな質問をテレビの映る時間帯に一時間もやられたら、私ら辞表を書こうと思っていたところですよ。それを、野中先生が横からひっさらって、換骨奪胎して、テレビの映らない時間に変更して15分で終わらせてくれたんですよ。今、やれやれと胸をなで下ろしているところなんですよ。竹岡さん、もう一度、野中先生のところに引き返して、御礼を言ってきてくれませんか』と。
こういうことで、再び参りました。先程は、誠に申し訳ない暴言をいたしました。お許し下さい」
いや、怒る時も一直線だが、謝る時もすっきり、あっけらかんとしていて、好青年だなと思った。
私は、「今も京都の知事や市長から、『野中さん、何をやってはるんですか。ご承知のように、京都は公明党さんの応援なしでは共産党に選挙で勝てしまへんで。何をとち狂っておられるんですか』と、お叱りを受けたところです。
男が一たん口から出したら、それは取り消しがきかんのです。だから、竹岡さん、あなたの言うことが正しいのですよ。でも、三流の政治家と言われたのは、この野中広務、初めてですよ」と、答えた。
以来、親子程の年の違いはあるが、急速に友誼を深めていった。
ある時、竹岡氏が、
「野中先生、今、公明党は新進党として、自民党と対立していますが、私は公明党は自民党と組むべきだと思っているのです。戦後五十数年、外国からも侵略されず、国内の内戦がなかった日本は、希有の国です。それは、保守たる自由民主党のおかげです。
でも現在、自民党は制度疲労をおこしています。
公明党というより、支援母体の創価学会には、池田先生が手塩にかけて育てた青年部がおります。また、何よりも平和を願う健全な婦人部がおります。この創価学会の青年部・婦人部と手を組んで、政局を安定させ、難局を乗り越えようではありませんか」と、やって来た。
自公連携を、私に呼びかけたのであった。
当時、竹岡氏は創価学会内では役職もなく、聞くところによると、まったくの手弁当で私とも付合い、行動をしているとのことであった。もちろん、創価学会上層部の指示ではなかった。
竹岡氏は、まず手始めに、先の草川昭三氏との面談をセットした。草川氏は、もともと石川島播磨重工の労組の支部委員長であったが、さる縁で、公明党・国民会議に所属していた。
歴戦の闘士である草川氏は、さすがに分析力にすぐれ、先を見る目もしっかりしていた。この会談が一つのきっかけとなって、潮目が変わっていったように思う。
その後、多くの方々にお引き合わせいただいた。実に勘どころのいい人選であった。
以来、紆余曲折はあったものの、自自連立を経て、自自公連立へ、そして近年までの自公連立へと進んで行ったことは、公知の事実である。
自公連立を見届けるかのように竹岡氏は、具体的な交渉の場から引いていったが、ことあるごとに持論を述べに私のところにやって来た。
今、私も政治の現職を離れ、自由な立場でものを言っているが、保守中道の自公連立の果たした功績は、日本の将来にとって大なるものがあったと確信している。
この度、『サンロータスの旅人』との本を上梓されるにあたって一文を寄せたが、旅人とは、言い得て妙であり、竹岡氏はいったいいつ自分の席におられるのかと不思議に思っていた。
ある時はカンボジア、ある時はエジプト、ある時はネパールと、とどまるところを知らない挑戦に、敬意を表するものであります。
これからも、お互いいかなる立場にあれ、大所高所の意見が忌憚なく言い合える忘年の友でありたいと念じております。
        2010年10月21日


解説
野中氏が感触を探った創価学会関係者とは、創価学会本部青年部副男子部長などを務めた竹岡誠治氏だろう。

竹岡誠治氏といえば、あの山崎正友氏の部下で、1970年に発覚した、日本共産党の宮本顕治委員長(当時)宅盗聴事件で実行グループの主犯格だった人物です。
79年に創価学会本部青年部副男子部長に抜てきされました。
99年11月25日付で聖教新聞社を退職、同じ盗聴グループの北林芳典氏が社長をする北斗の取締役事業本部長などをへて2000年2月に循環社会研究所、2002年にエスエスティーを設立、代表取締役についています。
その後、「ヤフーBBデータ流出事件」でも名前が取りざたされました。

Yahoo! BB顧客情報漏洩事件

2004年2月27日、約450万人分ものYahoo! BB登録者の個人情報が漏洩している事が発覚し、この情報に対してYahoo! BBに現金を要求していたソフトバンク関連元社員らが逮捕された。
2004年1月23日、ソフトバンクはYahoo! BB登録者の個人情報が外部に漏れていた事を発表した。この時点での発表では242人分、その後の2月27日には約470万人分の情報が漏れていた可能性を示唆し、最終的な漏洩数は約450万人であるとした。日弁連のコンピューター委員会が発表したところでは漏洩数は660万人であるとしている。なお、2月24日には警視庁は主犯格である右翼団体「新生日本協議会」元会長で出版社経営の人物と東京都内のヤフーBB代理店の役員2名をソフトバンク本社に対し個人情報と引き換えに30億円を脅し取ろうとした恐喝未遂容疑で逮捕した。
(中略)
『日刊ゲンダイ』が一面で創価学会幹部が流出事件に関与していたことを報道。またその2名が過去に創価学会が起こした言論出版妨害事件や宮本顕治宅盗聴事件にも関わっていたことから創価学会全体に盗聴を是とする体質があるのではと批判した。ジャーナリストの段勲はフォーラム21の中で逮捕された4名のうち2名が創価学会員でヤフーBB代理店の役員を務めていたことから、2002年に創価学会員が起こした「携帯電話通話記録窃盗事件」を引き合いに出し、「携帯電話・通信記録の盗み出し、そして今回の事件。同事件はまだすべて解明されたわけでないが、流出した450万人に及ぶ個人データの行方が気になる」と締めくくっている。
(Wikipediaより)

不思議なことに、Wikipediaでは、竹岡氏の名前が出てきません。

2004年2月26日(木)「しんぶん赤旗」には、実名で出ています。

「ヤフーBB」のデータ流出事件
容疑者は宮本宅盗聴犯の創価学会元幹部

インターネット接続サービス「ヤフーBB」の顧客データを入手して親会社の「ソフトバンク」(東京都中央区)に数十億円を要求した恐喝未遂容疑で警視庁に逮捕された竹岡誠治容疑者(55)は、創価学会が宮本顕治日本共産党委員長(当時)宅の電話を盗聴した事件の実行犯だったことが分かりました。
宮本宅盗聴事件は1970年に、東京都杉並区の宮本氏自宅電話の電話線にしかけられた盗聴器が発見されたもの。池田大作名誉会長が重用してきた山崎正友創価学会元顧問弁護士が80年になって盗聴を告白し、創価学会の組織的関与が明白になりました。
宮本氏は創価学会の北条浩会長(当時)や、山崎元顧問弁護士とその配下の竹岡誠治、広野輝夫らのグループを被告として損害賠償請求訴訟を起こし、東京地裁(85年4月)、東京高裁(88年4月)で、いずれも創価学会の組織的関与を認める判決が出ました。創価学会側は、最高裁に上告したもののこっそり取り下げて損害賠償金を支払いましたが、謝罪はいっさいしないままです。
判決では、竹岡容疑者について、深夜電柱に登って電話線端子に盗聴器をとりつけるなど実行部隊の中心だったと指摘していました。盗聴後、竹岡容疑者は78年には創価班全国委員長、翌年に青年部副男子部長に抜てきされました。

 

竹岡誠治氏には、『サンロータスの旅人』という著書があるのにも関わらず、Wikipediaの記述がありません。
竹岡誠治氏には、自民党の実力者との人脈があるので、不都合な記事をもみ消す力があったということでしょうか。

竹岡誠治という人物は、宮本宅盗聴事件の実行犯でありながら、創価学会の幹部となり、その後は、社会でいろいろな仕事をてがけた方のようです。
Yahoo! BB顧客情報漏洩事件では、竹岡氏は逮捕されたものの、従属的な立場だったとして処分保留となったそうです。

なんだか胡散臭い人物ですね。

あるいは無邪気なトリックスターと呼ぶべきか。

 

獅子風蓮