獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

『居場所を探して』を読む その26

2024-10-09 01:49:53 | 犯罪、社会、その他のできごと

友岡さんが次の本を紹介していました。

『居場所を探して-累犯障害者たち』(長崎新聞社、2012.11)

出所しても居場所がなく犯罪を繰り返す累犯障害者たち。彼らを福祉の手で更生させようと活動する社会福祉事業施設の協力で、現状と解決の道筋を探った。日本新聞協会賞を受賞した長崎新聞の長期連載をまとめた一冊。

さっそく図書館で借りて読んでみました。

一部、引用します。

□第1章 居場所を探して―累犯障害者たち
■第2章 変わる
 ■変わる刑事司法と福祉~南高愛隣会の挑戦をめぐって
 □山本譲司さんインタビュー
□おわりに 


第2章 変わる

変わる刑事司法と福祉~南高愛隣会の挑戦をめぐって

(つづきです)

発表の翌日。田島の元に、当事者の家族会などから抗議が寄せられた。
「障害者福祉に携わる者でありながら、あなたは障害者を冒涜するのか」
「障害者は危険な存在だと思われたらどうする!」
抗議に訪れた人たちは怒りに身を震わせていた。田島は一人一人と会って、丁寧に調査の意図や内容を説明した。そして、自戒を込めてこんな話をした。
「私たち障害者福祉に関わる人間は、これまで障害者がすべて善人であるかのようなイメージを振りまいてきたし、それに異を唱えるような言説とは断固戦ってきた。それが障害者を守ることであるし、彼らの幸せにつながることだと信じていた。でも、考えてみてください。そうした私たちの勝手な思い込みが、刑務所の中にいる障害者の存在を覆い隠し、悲惨な状態に長く置いてきたことの原因にもなっていたのではないでしょうか。取り繕いながらやる福祉は、もうやめにしませんか」
納得してくれた人も、そうでない人もいた。
しかし、真っ向から反論する者は1人もいなかった。
05年に宮城県福祉事業団の理事長を退任した田島は、古里の雲仙市に戻り、累犯障害者対策に動き始めた。
「いま一度初心に帰って、ライフワークとしてこの問題に取り組む」。 
そんな決意を胸に宿していた。
厚生労働省のモデル事業(06~08年度)として、障害のある元受刑者を愛隣会の施設で受け入れ、就労・生活支援をした上で社会に復帰してもらう取り組みを始めた。累犯障害者たちは帰る家も、仕事も、温かく受け入れてくれる人たちもないまま、放り出されるように刑務所を出所し、生活に行き詰まり、再び罪を繰り返している。07年に公表した研究班の調査結果からそんな実態が浮かび上がったからだった。
自立して生きていくために、職業的なスキルを身に付けてもらう。刑務所を出た後、路頭に迷わないために居住地を確保する態勢をつくる。
「そうすれば、お金がなくてやむにやまれず食料品を盗んだり、無銭飲食をしたりしなくても済むのではないか」と田島は考えた。

(つづく)


解説

05年に宮城県福祉事業団の理事長を退任した田島は、古里の雲仙市に戻り、累犯障害者対策に動き始めた。
「いま一度初心に帰って、ライフワークとしてこの問題に取り組む」。 
そんな決意を胸に宿していた。

ひとりの人間が決意し行動することで、歴史は作られていくのですね。

 


獅子風蓮


性的ディープフェイク画像はアウト

2024-10-08 03:01:28 | 犯罪、社会、その他のできごと

9月27日の朝日新聞にこんな記事がありました。

引用します。

 


朝日新聞 2024年9月27日

性的ディープフェイク画像 所持も処罰
__韓国 改正法案可決

韓国で生成AI(人工知能)を活用して合成されたディープフェイクとよばれる性的な偽画像を所持したり見たりした場合に処罰される改正法案が25日、国会で可決された。これまでも処罰対象だった作製した罪も最大5年以下の懲役から7年以下に引き上げられる。
韓国では知人女性や少女らの顔写真を使った性的なディープフェイク画像が、通信アプリ「テレグラム」で拡散される被害が広がり、処罰対象の拡大や厳罰化を求める声が上がっていた。改正法案は、ディープフェイクと知りながら性的な偽画像を所持や購入、保存したり、見たりした場合、3年以下の懲役か3千万ウォン(約327万円)以下の罰金が科せられる。作製する罪は「流布する目的」が立証されなければいけなかったが、この要件も削除された。
(ソウル=太田成美)


解説

日本では、XなどSNSで、ディープフェイク・エロコンテンツがあふれています。
一部は、有料のアダルトサイトに誘導するための、詐欺的行為です。
韓国では、知人女性や少女らの顔写真を使った犯罪的行為にディープフェイク偽画像を使うようで、目的は少々違うようですが取り締まりが厳しくなるようです。

日本でも、一定の法的な規制が必要かと思われます。

獅子風蓮


【みんなの声】友岡雅弥さんに関する情報を募集しています。

2024-10-08 01:34:24 | 【みんなの声】

友岡さんのことを知れば知るほど、いろんな方面の知識が豊富で、宗教の本質をついた素晴らしい文章を残された、すごい方だと分かりました。

これからも、友岡さんの文章を拾っていく作業を続けていきたいと思いますが、ゆくゆくは友岡さんの想いを受け継ぐことを目指したネットワークを作れたらと思っています。

その土台として、友岡さんの思想を少しでも整理して、多くの人の前に披露できればいいと思うのです。

ネットに友岡さんの文章を紹介してくださった方々、できれば連絡を取り合えれば幸いです。

「妙法の万葉集」の京都乃鬼さん。

「友岡さんとの思い出」の阪大博士さん。

「SNS上の友岡雅弥さんの言葉」を紹介して下さったkaragura56さん。

それと「すたぽ」運営者の方々。

ネット上の友岡さんの言葉を引用させていただきありがとうございました。

記事には、私の一方的な「解説」を付け加えましたが、おかしなところ、補いたい部分がありましたら、コメント欄にご意見をお寄せ下さい。


それ以外の方も、友岡さんの思い出や、ご意見・ご批判などありましたら、なんでもいいので、遠慮なくコメントしてください。

最後になりましたが、友岡さんのご冥福をお祈りいたします。

そして、ご遺族の方の話が、伺えたらと思っています。

 

PS)これまで友岡さんの文章を読んで、大事だなと思ったり、議論の余地がありそうだ、あるいは疑問に思ったことを思いつくまま書いてみます。

ご意見がありましたら、どなたでも書きこんでください。

●友岡さんによると、池田氏は「選挙は福運を消すんだよ」と仰ったとのこと。(妙法の万葉集:友岡雅弥さんの言葉 その13) これは本当なのか。

本当なら、なぜ今も日本では創価学会は会員を選挙に駆り立てるのか。

●友岡さんは池田氏のことが大好きで、評価しているようです。でも、友岡さんや高山先生、野崎至亮氏、高倉氏が参加されていた勉強会では池田氏についてどのような話を交わされていたのでしょうか。高倉氏はこの勉強会に参加してから、学会の組織や池田氏に対して批判的になり、裁判やブログて「池田カルト一派」などという表現をするようになりました。ちなみに高倉氏は、次のような友岡さんの発言を紹介しています。
「池田名誉会長の発言は、すべて感情的なものである。秋谷会長(当時)は、池田名誉会長に振り回されている。」
(創価学会池田カルト一派との裁判シリーズ その32)

●友岡さんとの思い出を綴っている「阪大博士」さんは、友岡さんを査問した創価学会幹部の名前を把握していますが、ネットではイニシャルしか書いていません。そろそろ実名を明かしてもいいのではないでしょうか。

 

 

 

 

獅子風蓮


石橋湛山の生涯(その81)

2024-10-07 01:37:45 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想に、私は賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

湛山の人物に迫ってみたいと思います。

そこで、湛山の心の内面にまでつっこんだと思われるこの本を。

江宮隆之『政治的良心に従います__石橋湛山の生涯』(河出書房新社、1999.07)

□序 章
□第1章 オションボリ
□第2章 「ビー・ジェントルマン」
□第3章 プラグマティズム
□第4章 東洋経済新報
□第5章 小日本主義
□第6章 父と子
□第7章 政界
■第8章 悲劇の宰相
□終 章
□あとがき


第8章 悲劇の宰相

(つづきです)

22日、精密検査。
この発表に社会党は「総辞職」を要求した。
党内は固唾を呑むような状況になった。
政局は大きく動く。誰もがそんな予感を持った。
「22日の診断結果で1ヶ月以内の静養なら頑張る。だが、それ以上なら総辞職」
三木は宣告するように断言した。
「先生、残念です」
22日夜。精密検査の結果が出た。「2ヶ月の静養を要す」。万事休すであった。
病床の湛山に総辞職の意志を伝える石田の頬に大粒の涙が光った。
「君、何事も運命だよ。運命だよ」
湛山は、石田の手を握ってはっきりした声で言った。
その夜、官房長官室に党三役、幹部閣僚を集めた石田は、すべてを報告した。総辞職反対の電話や申し入れも多かった。
「2ヶ月なら、何とか乗り切れる。せっかくの政権を投げ出すな」
「我慢することが大事だ。石橋内閣が倒れたら、日本が変わる」
だが、すでに骰子は投げられていた。
23日午前1時20分、石田は、病床で湛山が作成した 岸臨時代理と三木幹事長宛ての「石橋書簡」を記者団に読み上げた。その中の「私の政治的良心に従います」という条りで、記者団から「ほうっ」と声にならない嘆声が洩れた。
2月23日午後2時、石橋内閣は総理のいない臨時閣議を開いて総辞職を決めた。総裁公選から71日、総理就任から63日の短命内閣であった。しかし、この2ヶ月間には、湛山のそれまでの人生のすべてが詰まっていた。「ビー・アンビシャス」が、「ビー・ジェントルマン」が、そしてプラグマティズムが、小日本主義が。
「父さん……。決して無駄でも間違いでもなかったよ。短い63日だったけど、父さんにとっては72年間を凝縮した63日だったんだ。未練はないだろう? そう、何事も運命なんだから……」
うとうととする湛山の夢に和彦が現われて、白い歯を見せて笑った。湛山も満面の笑顔で和彦に頷いた。

2月25日、岸が首班指名され、岸内閣が成立した。
27日、首相の所信表明演説の代表質問に立った社会党の浅沼書記長は「政治家はかくありたいもの」と前置きして、石橋書簡の全文を読み上げた。
浅沼は、志半ばの湛山の胸中を思いやり、出処進退の潔さに感動して、時には声を詰まらせながら読み終えた。

〈私はいろいろ考えました末、この際思い切って辞任すべきであると決意するに至りました。友人諸君や国民多数の方々には、そう早まる必要はないという御同情あるお考えもあるかも知れませんが、私は決意いたしました。私は新内閣の首相としてもっとも重要なる予算審議に1日も出席できないことが明らかになりました以上は、首相としての進退を決すべきだと考えました。私の政治的良心に従います。……これがこの際私として政界のため国民のためにとるべきもっとも正しい道であることを信じて決意をした次第であります。
2月22日  

      
 内閣総理大臣 石橋湛山〉

       ◇

嵐の2ヶ月が去った。心ある人々は、無限の期待と深遠な興味を蔵しながら、慌ただしく去っていった石橋政権への無念の思いを鮮明にした。
後に「あの時にもしも石橋政権が2年続いてくれたら、ずいぶん世の中は変わったであろう。アジアの有り様も違っていただろう」としみじみ話した政治家や政治評論家は多い。

「先生、手続きはすべて終わりました」
「おお、石田君か。苦労をかけたねえ」
「読書ですか」
「うん、ちょっとね。ケインズをね。気にかかっていたことがあるからさ」

湛山が築地の聖路加病院を退院するのは、4月27日であった。その後、しばらく伊豆長岡で静養し、さらに7月の終わりには避暑を兼ねて山中湖畔の別荘に移った。

 

 


解説

22日夜。精密検査の結果が出た。「2ヶ月の静養を要す」。万事休すであった。
病床の湛山に総辞職の意志を伝える石田の頬に大粒の涙が光った。
「君、何事も運命だよ。運命だよ」

こうして、湛山は潔く首相を辞するのでありました。


獅子風蓮


石橋湛山の生涯(その80)

2024-10-06 01:53:23 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想に、私は賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

湛山の人物に迫ってみたいと思います。

そこで、湛山の心の内面にまでつっこんだと思われるこの本を。

江宮隆之『政治的良心に従います__石橋湛山の生涯』(河出書房新社、1999.07)

□序 章
□第1章 オションボリ
□第2章 「ビー・ジェントルマン」
□第3章 プラグマティズム
□第4章 東洋経済新報
□第5章 小日本主義
□第6章 父と子
□第7章 政界
■第8章 悲劇の宰相
□終 章
□あとがき


第8章 悲劇の宰相

(つづきです)

「浅沼さん、お願いがあるんだ。総理の風邪が重いんですよ。31日の施政方針は出来上がっているんですが声が出なくて演説は難しいんですよ。2月4日に延期をお願いしたいんですが……」
石田は官房長官として社会党の浅沼稲次郎書記長に申し入れた。浅沼も同じ早稲田の出身である。湛山にも個人的な好意を持っていたこともあって、快く承知した。
だが、湛山の病状は一向に快方に向かわないままであった。
「三木さん、どうもまずいよ。総理大臣臨時代理を置くしかない情勢になった……」
「石田さん、弱ったねえ。代理といっても……。せめて石井光次郎さんでも閣内にいてくれたら、石井さんを指名できたのに……」
「岸さんでいくより仕方がないのかねえ」
石田と幹事長の三木は溜め息をつきながら相談した。二人とも岸に総理の代理を委託するのには反対だったのだ。
「大久保留次郎さんではどうかな。最年長だし……」
「いくら国務大臣でもな、大久保さんじゃあ国会は乗り切れないだろう。党内をまとめることも考えたら、岸さんしかないだろうな」
医師団は「肺炎のために3週間の静養を要す」と診断した。湛山は、岸を首相臨時代理に指名し、同時に両院に対して2月20日まで3週間の請暇手続きを取り、承諾を得た。
「総理、ゆっくり養生して治してください。後はお任せください。吉田先生と佐藤栄作君も自民党に入党してくれることになりました」
石田たちの苦衷は、誰にも話せないものだけに心労に近いものがあった。社会党は当然のことながら「21日以降、首相が登院できないのなら責任追及をする」と決定した。浅沼は、人を介して石田に「21日に登院して社会党の質問に答え、閣僚の答弁に責任を持つと言ってくれれば、後はまた休養されてもよい」と伝えてきた。
だが、党内外には「石田たちが延命工作をやっている」、「医師団に圧迫を加えている」などの噂まで立ち始めた。
「三木さん、駄目なら駄目でよい。その時には立派に退陣して、将来に石橋内閣の志を伝えなければなるまい」
その夜、湛山は三木と石田に、時間をかけて自分の考えを伝えた。
「昭和5年11月のことだった。首相の浜口雄幸が東京駅で凶弾に倒れて重傷を負った。そのために登院が不可能になった浜口首相に対して僕は『東洋経済新報』で鋭く辞任を迫ったんだ。〈民に信なくば立たず、信義は死よりも重し、言行一致し得ぬ場合にはその職を去るべし〉と書いた。今の僕がまさにその折りの浜口首相の姿だ。僕は自分にも他人にも厳しいと自認している。だが、このままでは他人に厳しく、自分に甘いと言われかねない。僕は、辞めるべきだと思う」
二人には言葉がなかった。

(つづく)


解説

病に倒れた湛山は、こうして潔く首相を辞める決意をかためました。


獅子風蓮