柳氏は書物のなかの詩人について私に話してくれた。彼女はいつも屋根部屋に住んでゐた詩人で、いつも風や煙や空気の詩をかいてゐたといふことであった。そして通りに出たとき氏はいった。
「僕の好きな詩人に似てゐる女の子に何か買ってやらう。いちばん欲しいものは何か言ってごらん」
そして私は柳浩六氏からくびまきを一つ買ってもらったのである。
私はふたたび柳浩六氏に逢はなかった。これは氏が老僕とともに遠い土地にいつたためで、氏は楢林の奥の建物から老僕をつれだすのによほど骨折ったといふことであった。私は柳氏の買ってくれたくびまきを女中部屋の釘にかけ、そして氏が好きであった詩人のことを考へたり、私もまた屋根部屋に住んで風や煙の詩を書きたいと空想したりした。けれど私がノオトに書いたのは、われにくびまきをあたくし人は遙かなる旅路につけりといふやうな哀感のこもった恋の詩であった。そして私は女中部屋の机のうへに、外国の詩人について書いた日本語の本を二つ三つ集め、柳氏の好きであった詩人について知ろうとした。しかし、私の読んだ本のなかにはそれらしい詩人は一人もなかった。彼女はたぶんあまり名のある詩人ではなかったのであらう。
――「第七官界彷徨」
アンガーマネジメントとかやるから病むわけで、そもそも感情をコントロールすることなんか無理なのだ。向谷地生良の『ぺてるな人々』にでてくるように「喧嘩をしそうになったとき「研究しよう」という暮らし方、生き方こそが、最もシンプルな当事者研究」というべきだ。しかし、わたしがひっかるかるのは、尾崎翠の場合だって、一種の「研究」だったはずであって、より悲惨なことになりはしないかという懸念があるからだ。尾崎翠の場合もそうだが、自分が感覚される現象の世界をみつめつづけると何かがおかしくなるのだ。そのおかしさは、周囲の物質的な変化に容易に崩壊させられてしまう脆弱さである。
人文学者にかぎらないが、学者の大学での言動を見ていると、「環境」は誰かが用意してくれるものと考えているらしき人たちがかなり居ることが分かるけれども、実際の「環境」は人が煩雑なやりとりをして危うく現状が維持されている。権力や言説の研究で、そこにはいろんな歴史的な事情があるのは解析されてきてはいるが、――その事情には、「環境」に無頓着な我々の赤ん坊じみた振る舞いも入っている。常識とか権力構造とかマジョリティの圧力だけではない。
知を扱う組織の運営にはいろんな外圧や忖度が関わっているので簡単に現状の説明はむずかしいが、いざ何かが決まる段になって、一年か二年前にかんがえておくべきことを急にかんがえるような行動が事態を悪化させていることはたしかで、しかも、その1、2年前に当該の呼びかけはなされている場合が多い。研究は計画的にやるべきだというのは納得しているくせに、組織の問題に関してはそうではないのは、興味が研究にしかないからではない。研究の五か年計画的計画は、そういうみずからの拠って立つ環境や時勢に対する無視によって成り立っているからである。民主主義には一夜漬けは向かないという自明の理は、社会でも大学内でも崩壊している。忙しいからではない。考え方がおかしいのだ。小学生の一夜漬けとおなじく、そういうときにだいたい賢しらな態度になるのもより事態を悪化させている。
商人達の既得権益批判に眉をひそめた知識人たちは多かったが、――ぼくよりも点数とってずるいぞ既得権益だ、とかそういう類いもおなじである。案外学者のなかにはそういうタイプが多い。既得権益というと悪に見えるが、それを穏やかに人材育成といってもよいが、
その人材とやらには、既得権益とおなじく、社会的な連関を含んだものを切り捨てたうえで想像される架空性に向かっている。だから、一生懸命その育成に向かおうとすると、その切り捨てた性格に気付いている人間以外の、せいぜい半分ぐらいの人間しか従ってこない。いろんなものを後回しにせざるを得ないとかいう理由をつくるような喫緊の課題――が多すぎる民主制国家と似てくる。だいたい投票で1対1になって強く言った方が勝ちという政治がエスカレートして行く。人材育成を目標とする学部がいつも半分しか育成できないのもたぶん同じ理由だ。
そういえば、強かったドラゴンズは、どこと当たっても1点差で勝つみたいな試合が多かった。御嶽海もどの番付でも八勝七敗ぐらいになる傾向があった。とうぜんそのやり方では横綱とかになれない。御嶽海は野球の方が向いているのではっ。
――閑話休題。切り捨てたものは忘れられたのではない。いまだに日本人に広範に共有されて居る倫理は、因果応報とか天罰とかだが、その回帰してくる罪はだからこそ回帰しているのである。だいたい、若者?が五時に帰りまーすとかいうのも、女性?がわちきも自由にさせろ、みたいなのも目の前にいる人間に対するよりも、なにかの天罰とか因果応報がなにかの観念に向かっている感じなのだ。また切り捨てたものが回帰して大変な事になるに違いない。共依存ではない親孝行はあるのかというお題で授業をしたことがあるが、むろん共依存的でない親孝行はない。いまの親孝行の消滅はそのために起こったことだ。