goo blog サービス終了のお知らせ 

★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

はてなブログに転居します

2025-05-28 23:49:05 | 日記
gooブログの終了に伴いまして、このたび、「はてなブログ」に転居します。
いままで誠にありがとうございました。

転居先は↓

https://shirotin1971.hatenablog.com/

です。これからもよろしくお願いいたします。

渡邊史郎

神と歴史

2025-05-27 23:16:01 | 文学


ナオミは譲治によってメリイ・ピックフォードそっくりの女に仕立てあげられた時、天才的な娼婦性を発揮する不良少女になるのである。そして晩年の『鍵』になると、「西洋」は軽薄な尖端的風俗をつきぬけて、保守的な大学教授の家庭にまで侵入し、貞淑な教授夫人を「娼婦」に変える。[…]谷崎が『刺青』でいちはやくとらえ、以後晩年まで一貫して追い続けた不安とは自己分裂の不安である。和服を着た「母」、たとえば『瘋癲老人日記』の卯木督助の夢にあらわれる「鼠小紋ニ黒縮緬ノ羽織」をまとい、「素足ニ吾妻下駄」をはいて、「髪銀杏返シ、珊瑚ノ根掛、同ジ珊瑚ノ一ツ玉ヲ挿シ、蝶貝ヲ鏤メタ鼈甲ノ櫛ヲサシ」た「母」は農耕文化の安定したサイクルのなかにいて、心にやすらぎをあたえてくれるが、そこに定住するかぎり「西洋」の約束する官能は永久にわがものにはならない。しかし母性の安息を捨てて「西洋」によって「娼婦」に変身させられた女たちに没頭するとき、そこに待っているのは破滅と死、つまり完全な「自然」の枯死である。この分裂のなかで、谷崎が結局『蓼喰ふ虫』のお久や『細雪』の雪子のような和服の「母」たちよりは、『痴人の愛』のナオミや『鍵』の郁子、あるいは『瘋癲老人日記』の颯子のような洋装の「娼婦」たちを選んだのは、彼が逆に自分の記憶の奥底にひそむ「母」のイメイジの強靭さを信じていられたためかも知れない。[…]昭和三十年代は、まさに日本全国が「近代化」、あるいは「産業化」の波にまきこまれて、ついに近代工業国に変貌をとげた時代である。この全面的な産業化の過程で、一番大きな心理的原動力となったのが、「置き去りにされる」不安だったことはいうまでもない。 エリクソンは、あらゆる女性的な不安のなかでもっとも根源的なものは、この「置き去りにされる」不安だといっている。

――江藤淳「成熟と喪失」


江藤淳の「喪失」は、小島信夫など、空虚そのものをエンジンにしたいような、つまり凧というより、風船みたいな作家たちの作品が根拠になっていた。彼らは江藤淳ほどしょぼくれてはいなかったとおもう。アメリカによる空虚の強制すら喜んでいた節があると思うのである。いまやアメリカが空虚を抱えるこの時代、空虚すぎてブラックホールと化した日本にいまこそはじかれた人々を吸い込むときである。ハーバード大学が留学生を断るなら、日本の地方大学にその留学生、ハーバード大に嫌気が差したインテリたちを吸収すればよいのである。中には、西洋が嫌になった?ハーンやケーベルみたいな人材が混じっているかもしれない。

すなわち、ハーバード大学が香川大に留学すればよいのではないだろうか。而して、どさくさに紛れて我々の研究費も上がるのではないだろうか。

教育は一生懸命やればやるほどうまく行かなくなる逆説がある。おれはいっぱい善い子どもを育てたみたいな、「オレが育てた型教師」が案外棄てたものではないのは、――あまりに馬鹿なので子どもがあまり言うことを聞いていないからである。子どもは鈍感なので、その空虚さえも無視できる。「置き去りにされる不安」はあっても、自分に対して好意的な行為に対しては反応がよくない。日本浪曼派の小説なんかには、自分が空虚故に荒ぶっているので神もあらぶっているみたいな小説がある(先日触れた「白日の書」なんかがそんな感じだった)けど、神はそこまで俺たちに相即的であろうか。神はだいたいに子どもみたいなものではなかろうか。神が中身が空気の人形のように偶像化したときにはそんなキャラクターがせいぜい想像されるわけである。熟慮するんだったら、人間並みだと言うことである。対して、歴史はもっと機械的に残酷である。

例えば、虎ノ門事件で昭和天皇(皇太子)が暗殺されていたらどうなっていたかとも思うが、犯人の難波代助の父親(衆議院議員)が餓死したあと、地盤をついだのが松岡洋右というのがなんというか。ちなみに、難波代助が使った銃は伊藤博文が倫敦で買ってきたものだったらしい。運命は認識され使えるものなら何でも使う、AIみたいな奴なのである。

山岳ベース――AとしてのBをCによる偏見をとおして

2025-05-26 23:05:42 | 思想


ことばや論理が閉じたシステムあるいは構造をなしているという考えもまた、書くことと印刷によってつちかわれる、とオングは言う。そういう意味では、テクストをあたかも閉じたシステムであるかのようにあらゆる歴史的な脈絡から孤立させ、そうしておいて、それにまつわるパラドクスをあれこれ論じたてるデリダ流のテクスト批判(ディコンストラクション)もまた、奇妙にも文字文化の産物としてのテクストにしばられていると言わなければならない。デリダの勘違いは、声としてのことばを文字文化による偏見をとおしてしかとらえられなかったところにある。

――桜井直文「デリダの勘違い」


「声の文化と文字の文化」を評した桜井直文氏がデリダを批判して、「デリダの勘違いは、声としてのことばを文字文化による偏見をとおしてしかとらえられなかった」と昔言っていた。この「AとしてのBをCによる偏見をとおしてしかとらえられなかった」という論法、かなり汎用性がある、というか「あった」。例えば、「資本主義国家としての日本を家父長制の偏見をとおしてしかとらえられなかった」とか言い換えられる。果たしてこう言うひとは家父長制に対して賛成なのであろうか、不賛成なのであろうか?

細が隠していたアイスを食べておきました。

かく言う私はどちらかと女性の地位向上には賛成で、もう日本の芸能界は、大喜利の天才・新居歩美さん(高松出身)とかに任せようと思っているくらいだ。

今日の授業は、「空っぽな女子」というクリシェはいかに成立したのか、という話題で、茨木のり子の「女の子のマーチ」とか永井豪のロボットものの女子戦闘員とかについて語った。テーマは反抗に理由がいるか、である。わたくしは、ここらあたりを理由だけがあって反抗しているとは限らない昨今のリベラルの日和現象に対して、効き目あるワクチンとして再評価すべきと思っている。

――と思っていた。つまり、暴れん坊新左翼の復権を考えていたのであるが、今日、ブント系であろう『情況』誌が、アンドロイドや某立花を表紙にするとかでネットで大炎上していた。我々は暗黒大将軍やショッカーと戦うべきで、それ以外を標的にするとだいたい山岳ベースで殺し合いになるのだ。山岳ベースから都市を包囲するというのがいまはネットから現実を包囲する、に変わっただけだ。そもそも新左翼はシン・サヨクみたいなものであって、情況によってころころ変わるのが真骨頂なのだ。

農業の大規模化=効率化みたいな議論を聴くたびに、平野族を山間部から包囲したくなる。

彼らの特徴は右や左、リベラルや金儲け、破壊や保守などをやたら跨ぐことだ。なんというか、彼らとしてはおそらく転向も非転向もいやなので、その実転向から転向して元に戻っているにもかかわらず、そして、それが意識されているから余計に上位からいろいろと眺める態度に出てしまう。悲しいかな、活動家とはなぜかそういう者の謂になってしまった。その実、活動家は自分お仕事を安易な地平に戻してしまう人とも協力をしなければいけなくなるので面倒になって引きこもるか、みずからの異物(隣の異物)を殲滅するしかなくなる。そういったときに複数のジャンルで活動するような人は有利である。自分全体というものに足を取られることがない。越境したり跨いだりする人は自分全体に囚われるのが危険なのである。

さっき書庫で横積みになってた資本論に躓いて転んだ。何か比喩的に重大な気がする出来事だ。この前、AIに「引き籠もり気味ですね」と言われたわたくしであるから、別に転向しても大したことはないのであろうが、活躍する人々は違うだろう。

2025-05-25 23:01:10 | 思想


1  私たちは言語を用いて相互の意志を伝達するわけであるが、言語表現の最も基本的な単位は「文」 である。 「文」 は、 あるまとまった内容を持ち、形の上で完結した(表記において「句点」が与えられる)単位である。文章や談話は、複数の文の有機的な組み合わせによって構成される。
2  文は、 より小さな要素の結合により作り上げられる。 文を構成する要素の中で最も基本的なものが 「語」 である。 「語」 は文を作るための最も重要な材料である。 文の数 (文として可能なものの数) が無限であるのに対して、 その材料である語の数は有限である。私たちは、有限の単語を用いて、限りない数の文を作り出すことができるわけである。


――益岡隆志・田窪行則『基礎日本語文法』


「国語」の勉強について、日本語が使えてるから意味ないじゃんみたいなことを言う人が増えたのは、いつからか文法の授業が軽視されていったことと関係があるような気がする。どっちが先か知らないが、英語もしゃべれればいいじゃんみたいな論調にいつのまにかなっていた。そういえば、わたしは大学の時に和田利政らの『国文法要説 文語篇』で勉強したが、文の定義は「ある一つのまとまった思想や感情を一つづきのことばであらわしたもの」という内面的定義だった。しかし、八九年初版の益岡隆志・田窪行則『基礎日本語文法』だと、上のように、言語を用いて相互の意志を伝達する言語表現の基本的単位が文、という記述になってる。横書きの書物だし、我々はコミュニケーションの動物だみたいな考え方をしている。

しかし、我々が内省してみれば、表現されたところの「文」が、相手に必ずしも意志を伝えているはずがないのは明瞭である。同様に、それ以前に思想や感情を完全に実現してもいない。こういう挫折とエラーだらけの現象がむしろ思考を生んでいる。このことは、言語表現を比べて相互に意味が交通可能かどうか調べてみることでより自覚される。だから、古典文法と現代文法を交互に学ぶのも意味があった。古典の恋の世界が現代人からみて共感できるよね、とか簡単に言えなくなるし、英語などとここまで文法的にも論理関係がちがうのに、なぜか日本語にいろいろ飜訳されうること自体が、――命がけの飛躍などではなくある種の論理的な関係にみえてくるからだ。人によるだろうが、私の場合は、ドイツ語をやっていたら日本の古文が少し読みやすくなった。

そういえば、フキハラ(不機嫌ハラスメント)が時々話題になっている。これなんかも、上の言語の性質を理解しないので起こっているような気がする。「感情労働」というのは、表現の完全性への強迫が大きな原因である。お客様や上司の言語は完璧に伝わっていなくてはならない前提がある。対して、右翼の街宣車や政治家の演説を聞かされるのも「感情労働」だと思うのだが、あれをフキハラだという人はいない。彼らがいい加減なことを言っており発言が情況によって流動的なのが前提だからだ。すなわち、家庭内の不機嫌表現は街宣車でやればよいのではなかろうか?――むろん、こういう発想が掲示板での罵詈雑言を生んできたわけである。

家庭内での話題が貧しくなり、お互いの言葉がマッサージ機能しか持たなくなれば、すべてのコミュニケーションが潜在的にハラスメントになるのであろう。話題が豊かというのは、完全な意味のやりとりよりも、話題それ自体がコミュニケーションよりも豊かということである。話題とは自立し運動する事象である。お互いがサッカーや連弾をやっていると思えば、感情や思想の発散されるところの表現は、その競技からでてくるのであって(主体はボールやピアノなので)、伝達やコミュニケーションだと思えばそりゃお互いはノイズだろう。

風に従わず

2025-05-24 23:51:53 | 文学


夕方、私が屋根部屋を出てひとり歩いてゐたのは、まったく幸田当八氏のおもかげを忘れるためであった。空には雲。野には夕方の風が吹いてゐた。けれど、私が風とともに歩いてみても、野を吹く風は私の心から幸田氏のおもかげを持って行く様子はなくて、却って当八氏のおもかげを私の心に吹き送るやうなものであった。それで、よほど歩いてきたころ私は風のなかに立ちどまり、いつそまた屋根部屋に戻ってしまうと思った。 こんな目的に副はない歩行をつづけてゐるくらゐなら、私はやはり屋根部屋に閉じこもって幸田氏のことを思ってゐた方がまだいいであらう。忘れようと思ふ人のおもかげといふのは、雲や風などのある風景の中ではよけい、忘れ難いものになつてしまふ。――そして私は野の傾斜を下りつつ帰途に就いたので、いままで私の顔を吹いてゐた風が、いまは私の背を吹いた。さて背中を吹く風とは、人間のうらぶれた気もちをひとしほ深めるものであらうか。私は一段と幸田氏のおもかげを思ひながら家に着いたのである。

――尾崎翠「歩行」


尾崎翠は、空気よりも風に従うからスキである。そうではなく、だいたい空気に従うのが通俗的な我々の性質で、例えば、外国に行ったら急にナショナリストに変貌したり、よりインターナショナリストになったりするのがそれである。彼らの頭は、右と左、あっちとこっちみたいな思考しかない。英語で授業みたいなことすると、それに近いことがおこるに決まっている。だいたい外国いったくらいで認識が精確になるんだったら世話はない。わしなんか、新興旅行で疲労のあまり、ヴィニスの海に船から落ちそうになったので、小豆島行きのフェリーが余計怖くなったぐらいのものだ。わたしの運命の勘の良さなのか、普段、日本は海でニューヨークに繋がっているから戦争は日本に有利だとか言っていた馬鹿がいた時代の文献ばかり読んでいるからか、――同じ海に墜落することで、ナショナリストでもインターナショナリストでもないわけだ。

これにくらべると、最近『日本近代文学館』に「クレジットカード……作らなきゃ……」という文章を書いていた新井素子なんかは、その文学と1ミリも関係ない文章で、あいかわらず文学をやろうとしているから、まだ上の二分法から遁れている。オタクの可能性はこういう處にしかなかったが、オタクたちは成長して二分法へ帰って行く傾向がある。荻原浩の「ああ美しき忖度の村」は愉快な作だが、これは忖度社会をからかったものではなく、忖度をからかう行為みたいなものも忖度の一部なのである。そこに気付いているかどうかがオタク気質の未来をきめる。大友克洋の『彼女の思い出…』には彼のユーモアが顕れているが、どうみてもあまり面白くはないので、大友の場合はそれに救われたのだ。このユーモアは面白くないから却って自分では超克できない心理的滞留をもたらす。小林よしのりなんかは面白いから、その面白さを自分でコントロールできるのが危険であった。

一方、論理性でその滞留性を作り出すてもあるようなきがする。わたくし、都留文科大学国文学科の学生だったころ、国文法の授業が苦手で教科書もよくわからなかったんだが、最近その教科書読んでみたら、けっこうわかる。わたしが苦手だったのはその独特な論理性だったのである。昨今の論理国語とかセンスが狂ったものよりも、ただひたすら国文法を、生徒たちにいやがられてもやったほうが「論理」的になるのではないだろうか。そして、この論理性は頑迷で空気によってはなかなか動かない。もっとも、某国文法学者のように妙な右翼なることはあるのであろうが。

中学生か高校生の頃、たぶん今から三〇年前ぐらい前に、NHKFMで、大坂万博のサウンドスケープの音楽をやってて、日本の前衛音楽について学んだ。最近も「現代の音楽」で特集していておなじ曲を流していた。昔聴いたモノラルの雑音交じりの衝撃にはかなわない、クリアーな音であった。これらの音楽ははたしてナショナルな音楽なのか、インターナショナリズムな音楽なのか、分からない。少なくとも、そういう問いを誘発することがよいことであった時代だったことは確かである。いまはそうではない。

因果応報の起源

2025-05-23 23:15:04 | 文学


柳氏は書物のなかの詩人について私に話してくれた。彼女はいつも屋根部屋に住んでゐた詩人で、いつも風や煙や空気の詩をかいてゐたといふことであった。そして通りに出たとき氏はいった。
「僕の好きな詩人に似てゐる女の子に何か買ってやらう。いちばん欲しいものは何か言ってごらん」
そして私は柳浩六氏からくびまきを一つ買ってもらったのである。
 私はふたたび柳浩六氏に逢はなかった。これは氏が老僕とともに遠い土地にいつたためで、氏は楢林の奥の建物から老僕をつれだすのによほど骨折ったといふことであった。私は柳氏の買ってくれたくびまきを女中部屋の釘にかけ、そして氏が好きであった詩人のことを考へたり、私もまた屋根部屋に住んで風や煙の詩を書きたいと空想したりした。けれど私がノオトに書いたのは、われにくびまきをあたくし人は遙かなる旅路につけりといふやうな哀感のこもった恋の詩であった。そして私は女中部屋の机のうへに、外国の詩人について書いた日本語の本を二つ三つ集め、柳氏の好きであった詩人について知ろうとした。しかし、私の読んだ本のなかにはそれらしい詩人は一人もなかった。彼女はたぶんあまり名のある詩人ではなかったのであらう。


――「第七官界彷徨」


アンガーマネジメントとかやるから病むわけで、そもそも感情をコントロールすることなんか無理なのだ。向谷地生良の『ぺてるな人々』にでてくるように「喧嘩をしそうになったとき「研究しよう」という暮らし方、生き方こそが、最もシンプルな当事者研究」というべきだ。しかし、わたしがひっかるかるのは、尾崎翠の場合だって、一種の「研究」だったはずであって、より悲惨なことになりはしないかという懸念があるからだ。尾崎翠の場合もそうだが、自分が感覚される現象の世界をみつめつづけると何かがおかしくなるのだ。そのおかしさは、周囲の物質的な変化に容易に崩壊させられてしまう脆弱さである。

人文学者にかぎらないが、学者の大学での言動を見ていると、「環境」は誰かが用意してくれるものと考えているらしき人たちがかなり居ることが分かるけれども、実際の「環境」は人が煩雑なやりとりをして危うく現状が維持されている。権力や言説の研究で、そこにはいろんな歴史的な事情があるのは解析されてきてはいるが、――その事情には、「環境」に無頓着な我々の赤ん坊じみた振る舞いも入っている。常識とか権力構造とかマジョリティの圧力だけではない。

知を扱う組織の運営にはいろんな外圧や忖度が関わっているので簡単に現状の説明はむずかしいが、いざ何かが決まる段になって、一年か二年前にかんがえておくべきことを急にかんがえるような行動が事態を悪化させていることはたしかで、しかも、その1、2年前に当該の呼びかけはなされている場合が多い。研究は計画的にやるべきだというのは納得しているくせに、組織の問題に関してはそうではないのは、興味が研究にしかないからではない。研究の五か年計画的計画は、そういうみずからの拠って立つ環境や時勢に対する無視によって成り立っているからである。民主主義には一夜漬けは向かないという自明の理は、社会でも大学内でも崩壊している。忙しいからではない。考え方がおかしいのだ。小学生の一夜漬けとおなじく、そういうときにだいたい賢しらな態度になるのもより事態を悪化させている。

商人達の既得権益批判に眉をひそめた知識人たちは多かったが、――ぼくよりも点数とってずるいぞ既得権益だ、とかそういう類いもおなじである。案外学者のなかにはそういうタイプが多い。既得権益というと悪に見えるが、それを穏やかに人材育成といってもよいが、
その人材とやらには、既得権益とおなじく、社会的な連関を含んだものを切り捨てたうえで想像される架空性に向かっている。だから、一生懸命その育成に向かおうとすると、その切り捨てた性格に気付いている人間以外の、せいぜい半分ぐらいの人間しか従ってこない。いろんなものを後回しにせざるを得ないとかいう理由をつくるような喫緊の課題――が多すぎる民主制国家と似てくる。だいたい投票で1対1になって強く言った方が勝ちという政治がエスカレートして行く。人材育成を目標とする学部がいつも半分しか育成できないのもたぶん同じ理由だ。

そういえば、強かったドラゴンズは、どこと当たっても1点差で勝つみたいな試合が多かった。御嶽海もどの番付でも八勝七敗ぐらいになる傾向があった。とうぜんそのやり方では横綱とかになれない。御嶽海は野球の方が向いているのではっ。

――閑話休題。切り捨てたものは忘れられたのではない。いまだに日本人に広範に共有されて居る倫理は、因果応報とか天罰とかだが、その回帰してくる罪はだからこそ回帰しているのである。だいたい、若者?が五時に帰りまーすとかいうのも、女性?がわちきも自由にさせろ、みたいなのも目の前にいる人間に対するよりも、なにかの天罰とか因果応報がなにかの観念に向かっている感じなのだ。また切り捨てたものが回帰して大変な事になるに違いない。共依存ではない親孝行はあるのかというお題で授業をしたことがあるが、むろん共依存的でない親孝行はない。いまの親孝行の消滅はそのために起こったことだ。

無意味で平和な未亡人

2025-05-22 23:04:44 | 文学


 棍棒に打たれて朦朧とした記憶のダイアグラムを自分の中に固定し、それを範例にして、再利用できる事例を探し求めることはできない。私の知人の一人は、学位を取得した後に少しだけ放浪していたが、その後学習障害者のための国家機構で働き始めた。同世代の誰もが市場を開拓しに出かけていき、どれだけ遠く、どれだけ高く、自分たちが山を登れるかを考える事に向かう中で、彼の仕事は立派で、積極的で、寛大なものだ。しかし数年後、彼は辞職した。誰でもそうするさ、と彼は言っていた。大勢の人々に対して甘いパパでいたり、サンタクロースでいたり、イエス・キリストでいるということは、魂にとっておかしなことなんだ、と言っていた。 辞職しない人については、あいつらは、揃いも揃って「大いなる看護師」なのさ、と言っていた。
 状況が求めるままにそこにいると、第三の眼のようなものが、何となくなすべき正しいことを見つけ出してくれる。すると、考えているときにアイディアがひらめくように、その正しいことが骨格に張りついて、範例のようになる。難しいのは、次の機会に、無知でいると同時に関心を持ち、なおかつ怖れを抱くということである。その無知と、関心と、恐れからだけ、善い行いや、勇敢な行いはやって来るだろう。 次の日には、空しい気分に取り残される。善い行いは栄光というよりも重荷であり、その栄光は、間違いなく重荷なのである。力が強まることもなく、ただ抑制された力だけが残されている。 時が満ちて、新しい力、正しい力が現れるかどうかも分からない。 再び善い行いができるようになるためには、悪意を知らねばならないのかもしれない。


――アンルフォンソ・リングス「善い行い」(『変形する身体』小林徹訳)


確かに、善意の降臨がずっとおなじ職場にいると起こりにくくなるのはわかる。リングスの論法は、我々が短いスパンで悪意による罪にまみれることを合理化しているようでそれはそれで納得いかないわけではあるが、確かに、善意も悪意もない人間というのはだいたいバカになって行くのは自明の理である。なぜか教育の業界にいると、そういう当たり前のことが分からなくなってゆく。

物理と私とどっちが大切なのよ、みたいな大学院入学を煽り立てるポスター(大阪大学)があったと記憶するが、大学の教員のなやみはもはやそういう決断を迫る入営的青春にはない。もっと内面化された悩み――学問と大学とどっちが大切なのだ、という戦争的問いである。で、結局自分の健康をとったり、人によっては酒をとったりする。それで辛うじて平和的に死ぬか生きる。

今年は、野間宏を卒業論文のゼミであつかっているので、彼の小説のなかの「未亡人」の扱いは興味があるところだ。カストリ雑誌や林芙美子を読んで、当時の未亡人に思いをはせるのもいいが、私はさきほど、「豆腐屋の雞が首を締められた未亡人のようなときをつくつた」とかいう科白がふとんの中の頭に降ってきたので、安部公房のSカルマ氏の犯罪のなかの一節であることを突き止めて起きてしまった。

安部公房がよいのは、無意味で平和な未亡人を書いたからだ。野間の未亡人には戦争の意味がありすぎる。

科学者としての「人」

2025-05-21 19:49:28 | 思想


 近代戦では国防と科学とは切り離し得ぬものと一般に信ぜられているようであるが、自分の考えは少し違う。国防に必要なのは科学ではなくて科学者なのである。科学と云っても範囲があまり広すぎるので、念のために物理学に限定して考えてみるに、例えばマルコーニの無線電信の発明でも、電波の存在はヘルツによってずっと前に発見され、受信機のコヒーラーにしても、彼以前に数名の物理学者によって既に研究室の中では用いられていたのである。
 それを実用に供したマルコーニの偉業は、彼の科学的知識に負うよりも、彼の科学者としての「人」によった方が多いように私には思われる。フレミングのような学者を顧問に迎えたり、無線電信の権利を早く取って置いたりしたようなこと、それよりも大切なことは如何にして研究を進めて行くかということをよく知っていた点が、無電の実用化を完成させたのである。
 その意味で、国防に関係ありそうな純学術的の研究の発表などをあまり気にする必要はなかろう。国防に必要なのはその研究業績ではなく、それをなした研究者自身なのである。その点はとかく間違われ易いのである。研究の発表はその学者の頭を豊かにする一つの方法で、その上ギブアンドテークの原則で、外国の学者の研究を吸収する上にも必要なのである。
 科学の精華は花である。花は古来腹の足しにならぬものと決まっている。間に合うものは科学者の方なのである。


――中谷宇吉郎「国防と科学」


われわれが国防に対し、人間ではなく、手段として何か学問とか科学とかに頼ろうとするのは、別に、主体性とやらがないからではない。明治以降ずっとそんな感じであった気がする。第二次大戦の時の、大和魂とか科学精神とかはセットになっているのは当たり前であって、その実、主体と関係がない手段だからである。ほんとは目的もないのだが。いまで言えば、受験勉強の類いと一緒である。それは根本的には、政権がいつからか政治家でも軍人でもなくヤクザの親分=地主みたいな者だからではなかろうか。政治家や軍人は思想によってできあがるしかない。しかしヤクザの親分は主体に思想的根拠がなく、腹が膨らむという自らへの優しさが目的そのものだ。学生運動の時代にそれが気づかれて、左翼たるものヤクザ的に行くしかないんだ、みたいな人たちがでたことがある。科学者はほんとうは業績を生み出す手段ではなく、思想的存在であるべきであった。

われわれはまだその意味で動物的である。米が買えない、食料が足りないみたいなことをまったく予期していなかった人はあまりいないと思う。資本主義の右往左往のなかではありうることで、資本主義は動物の嗅覚だけには沿って展開する。昨今のこの事態に対応するために、われわれは人口減少をやってきたのかもしれない。我々は、自分の子どもが生きていける環境であるかどうかを生物として匂いをかいでいる。金の問題と言うより、匂いがキツそうだったらやめとくと。あと、我々が子孫を残そうとするのは、内側から来るものでなく、蛙とか蛾などがそうしているのを真似て、というか、対抗してみたいな理由もありそうだ。

かつて水を買うということで我々はびっくりしたが、かつては野菜とか米は政治家でなくても、物々交換みたいなやり方でやりとりされている現実があった。いまでもあることはある。そういう時代がまたやって来ている。そして我々は永遠に動物である。

From the bells, bells, bells, bells,

2025-05-20 23:13:50 | 思想


先づ最初にあの主としてフィレンツェを中心にする市民達、古代の事物に携はることをその生活の主目的とし、或は自ら大學者となり、或は大好事家として學者を後援した人々が吾々の一顧に値する。彼等は殊に十五世紀初頭の過渡時代にとって極めて重要な役目を勤めた、何となれば彼等の間に於て始めて人文主義が實際に日常生活の必要要素として役立てられたのである。彼等の背後を追うて始めて君主や法王達が真面目に之に携はるやうになった。
 ニッコロ・ニッコリやジャンノッツォ・マネッティに就ては既に屢々之を述べた。ヴェスパシアノによれば、ニッコロは、身のまほりの物に至るまで何一つ古代情調を傷つけるやうなものを我慢し得なかった男として描かれてゐる。素晴らしい古代の遺物に充ちた邸の中で、親しげな話方をする長衣を着た美しい風は極めて特異な印象を人々に興へた、一切の事について並はづれた潔癖家で、殊に食事の際にそれが甚だしかった、即ち彼の前には此上なく純白なリンネルの上に、古代の瓶や玻璩の盃が並べられた。 彼の感覺は非常に精煉されてをつたので、驢馬の嘶く音や鋸の削り、捕鼠器の鼠がキューキューいふ等を聞くに堪へなかった。


――ブルックハルト「伊太利文藝復興期の文化」(村松恒一郎訳)


すでに三〇度を超えているわが高松であるが、扱いからと言って文化を諦める訳にはいかぬ。上のニッコロのように、驢馬や鼠が暑さでひっくり返っているのを横目に、我々は妄想に集中すべきだ。三〇度を暑いと感じるのであれは、意味を変えればよい。三〇度を、――真冬に可愛い彼女とおててつないだら凍傷になったので訴えたら殴られましたという意味、――に変更しよう。

すなわち、もうすでに暑さに参っている訳だが、頭がぼけているよりも体がぼけている。昨日、ついに、昔の新聞の写真がよくみえないので、親指と人差し指で拡大しようとしたけど、私はまだ生きている。スマホと酷暑の二刀流で人類は全滅する。

寒い国は、我々がつい妄想への疲労を花鳥風月でごまかしているのに対し、さすがである。例えば、ポオの「鐘」から合唱交響曲をかいてしまうラフマニノフである。今生きていたならば最果タヒから大交響曲を生成しかねない。


   HEAR the sledges with the bells --
   Silver bells!
  What a world of merriment their melody foretells!
   How they tinkle, tinkle, tinkle,
   In the icy air of night!
   While the stars that oversprinkle
   All the heavens, seem to twinkle
   With a crystalline delight;
   Keeping time, time, time,
   In a sort of Runic rhyme,
  To the tintinabulation that so musically wells
   From the bells, bells, bells, bells,
   Bells, bells, bells --
   From the jingling and the tinkling of the bells.

Tremendous English

2025-05-19 23:18:15 | 文学


「何だつてはなを啜るんだ」
そして三五郎はすこしのあひだ私の顔をながめたのち、初めて私のみてゐる地点に気づいたのである。三五郎は頭をひとつふり、やはりたたみの上をみてゐて呟いた。
「どうも僕はすこし変だ。徹夜の翌日といふものは朝から正午ごろまで睡っても、まだ心がはつきりしないものだらうか。僕は大根畠の排除にちっとも気のりしないで、却ってぼんやりと蘚のことを考へてゐたくなったんだ。女の子と食事をしてゐるときふつとそんな心理になってしまったんだ。しかし、たたみのうへにこぼれてゐる頭髪の粉つて変なものだな。 ただ茶色っぽい粉としてながめようとしても決してさうはいかないぢゃないか。女の子の頭髪といふものは、すでに女の子の頭から離れて細かい粉となつても、やはり生きてゐるんだ。僕にはこの粉が生きものにみえて仕方がないんだ。みろ、おなじ粉でも二助の粉肥料はただあたりまへの粉で、死んだ粉やないか。麦こがしやざらめ砂糖と変らないぢゃないか。しかし頭髪の粉だけは、さうはいかないんだ」
 三五郎は何かの考へをふるひ落す様子で頭を烈しく振り、そしてふたたびノオトに向った。


――「第七官界彷徨」


尾崎翠が立派なのは、横文字をふりまわさないことである。そうであるのに、なにか文章に光が差しているのはすごいと思う。うんこが満ちあふれる小説なのに。花田清輝なんか「ぱとろぎい・です・めるへん」とか題し、「やぽんまるち」とか題する人と同じくいろいろ工夫はするわけであるが、なかなかその光がでなかったような気がする。

わたくしななぞ、最近は絶望して、横文字をそのまま放り出す方がよいのではないかと思うくらいだ。

ところで、国文学などをいじくっていると、専門家と名乗る人ほど、読めない漢字も意味が分からない言葉がある事態には自覚的である。学校教育的な意味で簡単なものを間違えたりする人も馬鹿にはしないし、かようなことで人を蔑んだりはしない。が、間違いを指摘されたりすると「お前たちは英語で論文書いてないだろ」みたいなことを俄に言い出す人もいて困ったものである。英語で書いたり読んだりすることの不完全さを自覚する専門家はさすがにそういうことをあまり言わないんじゃなかろうか。

東大の工学部がオールイングリッシュで授業をするとかいうニュースがもたらされ、また定期的な炎上がおこなわれている。だいたい、そこに適応する人はともかく、ほとんどは不完全すぎる英語の実力が壁になって学修が圧倒的におくれるのがなぜ分からないのであろうか。すなわち、そのほとんどは何の成果もなく、下手すると工学部の「坊っちゃん」が「うらなり」君みたいになり、わたくしのような赤シャツ気質に虐められるだけであろう。確かに、そのなかで漱石みたいに精神を病みながら文豪になるやつが一人ぐらいでるかもしれない。東大工学部の人はぜひ田舎の英語の教師になっていただきたい。

確かに、学者同士のコミュニケーションもコミュニケーションみたいになってきていることは確かで、素敵なとか刺激的なとか評してくる学者はだいたいやばい奴と決まっているにもかかわらず、結構な頽廃が進んでいる。授業でも、スライドを使いながらトレメンダスとか言ってれば人気がでたりするのであろうか。私も、今日の授業では、ジョン・ケージのテレビでの「ウォーターウォーク」のパフォーマンスと、マイケル・ジャクソンの「ブカレストコンサート」を並べて、二〇世紀に於いて観客とは、観客と一緒に創るとはいかなる事態か、みたいな与太を展開しているのだから話にならん。バルトが言っていたように、音楽においても読書においても、そこには戦争状態があって、ケージは観客と和解し、マイケルは戦争に勝っただけだ。私の場合は、――わからない。

そういう事――つまり戦争の推移だけを問題にしていても仕方がないのは無論である。読者のうごきに対する考察は、その実作品の読みに関わっていて、それができないと読者がどう感じていたかなんか推測できるはずがない。で、出来ない場合は何かに統計に頼るとういうことがありうるが、ありうるだけである。のみならず、統計的なものの不確かさは結論ではない。まだ、マイケルのコンサートは宗教儀式だとか言っている方がましな場合すらある。

立派な魂について

2025-05-18 23:41:20 | 文学


「減ろびるならばかく激しく、来たるべきものならばかく速やかに――」
 その時、私はふいに意外なものを見とめてぎよつとした。おゝ、泣き叫ぶ人びとの間から、一人の、二人の、三人の、そして数人の人間が、まるであやつり人形のやうな、奇妙な恰好をして空へ昇りはじめたではないか。それは忽ち、あつちからこつちからと段々数を増してゆき、ふらりくと月光美しい空へ向って泳ぎ昇つてゆくのだった。瞬間、私は何かはげしい眩惑を感じ、思はずよろめくと息をのんだ。
――おゝ、昇天してゆく、地上一千メートルの彼方、神の子らが昇天してゆく。
 頭上にはげしい一撃を受けたやうに、私は再びよろめいた。驚異からではなかつた。今宵はこのことも當たりまへ事のはずだつたのである。あゝ、今わたしをよろめき倒さんとするものは、いきなり奇怪な幻想に襲はれたやうな、得体知れぬ一つの不安だった。 思ひがけぬその不安は、いつか、昂然と復讐の成就に肩をはる私の姿勢を崩し、やがて底知れぬところまで落ちゆくと、それは忽ちあの嫌悪と焦燥を翳りたて、征服の絶頂に立つてみた私は、もはや絶望の穽を足もとにみたのだった。


――横田文子『白日の書』


明日は、これと尾崎翠の「第七官界彷徨」と比べてなにか妄想を話すつもりであるが、二作はまるで双生児のようなものだ。尾崎翠は横田の小説がでたころ、もう東京から島根に連れ去られたあとであったと思う。だから、尾崎翠が昭和10年代においても書きつづけていたら横田みたいになったのでは、――といったことを想像しがちであるが、時代は違ってもあちらとこちらのような作品はあるものだ。同時代性というのは時代を超えてあるものである。

尾崎翠の小説は、見掛けよりもインテリ小説である。インテリにこき使われる少女がおかしくなっている小説とも言えるのである。苔の恋愛とかなんとか「きれい」(花田清輝「ブラームスはお好き」)な場面が多いのであれなのであるが、案外彼女は忙しいのである。あまりやることが多すぎると却って非効率になるみたいなのは、一見真実を示しているように見えるが、単にそのひとが能力がなさ過ぎるだけの場合があるのは当たり前である。テクノロジーのおかげでこういう自明の理がわからなくなるのも現代社会のあれであるが、尾崎もたぶん横田も生活に忙殺されているに違いない。いかにデカダンスであっても忙しいのであった。なぜかというと、おそらく生活に関する単純な作業がやや苦手だからだ。

しかし彼らが別に生活者として敗残していったとは思わないのである。我々は、初読の印象が強いために青春の文学だと勝手に思い込んでいるものがあるが、「第七官界彷徨」とかもむしろ中年から初老の文学だと思う。わたくしも生活に疲れてはじめてそのモードを理解したように思う。考えてみると、職業人にはやいうちになった村上春樹なんかも案外そうではないかと思うのだ。そうでないとコマル。わたしがこれから読むからだ。

学生ははやく職業人となるべきだ。それだけでどこかしら立派に見えることは確かだし、実際立派になる。確かに働いたら負けという側面はあるし、正直人生はそこでいったん終わるが、立派になる。立派になった眼で見ると、――乱暴な議論なんだが、「負け組」と「マイノリティ」の関係が常に混乱する、この現状をあまり軽視すべきでないと分かる。「負け組」とは、民主主義の多数決で負けた人々と一緒で根本的にマジョリティなのでそれだけでは魂がない。横田と尾崎の違いを考えるときに、どちらに魂があるのかみたいな議論が必要だ。大学院生のわたくしは尾崎をマジョリティとみなしていた。

チャットGPTみたいなものでいくらか遊んでみたが、さまざまな人が指摘しているように、――「中とって」とか、「綜合すると」とか、「より適切な」とか、「そのことを考え合わせて」みたいなことを答えてくる傾向がある。これには魂がない。尾崎の小説が泣けてくるのは、その寄せ集めみたいな文体にもかかわらず、魂みたいなものあるからだ。人間がある事柄を一〇年考えてぎりぎりなことを言い出す側面がある。チャットなんとかにはいまところそれはない。言うまでもなく、そういう欠落を客観的な論理的能力と錯覚が大手を振って歩くのが我々の社会である。そういう能力は、文学や思想にはほとんど役に立たないばかりか、《ジャーゴン知ったか野郎》みたいな状態を長く続ける可能性が出てきて非効率だ。

当事者批評としての研究=者

2025-05-17 23:09:20 | 思想


そして手の榴弾が裂けるとき、
われらのこころは胸でほほ笑む

 またえらく流布したパンフレットの類では、かれらは生命を超越して、死を茶飯事のように語る英雄として描かれている。鉄かぶとはかれらの一部となって、目は死に会釈しながら笑う、といったわけだ。 「屈辱と哀願とから跪き、天にまします神さまに救いを乞う」、そんな者には、とても考えられない。戦士は盃を飲みほして、余すところがない。聖餐盃が口から離れることを祈る者はいない。それどころか、かれらは進んでこの盃を手にしようとする。「必然という名のものは、すべて善いのだ。かれらはこのことを知っているからだ」。「縛られ処刑される同胞たちが、辻々に並べられる。そうした異様な時代の怖ろしい十字架」に代わって、祖国のために斃れた兵士たちの像が建てられよう。 ローゼンベルクは、そういう時代の到来を告げている。


――カイヨワ「戦争――国民の命運」(『聖なるものの社会学』)


いま澤西祐典「貝殻人間」を演習で精読しているが、教育的には、現代文学だから読める筈みたいな幻想を粉砕することが目的である。この小説でも感じられることであるが、現代人においては、仮面や演技の概念が一元化しておかしくなっているのはある。それは、もしかしたら、死を茶飯事のように語ることよりも、ロボット的なのである。

例えば、仏教作家=村上春樹説はすでに展開されているけれども、破戒小説をかくもたくさんの衆生が読んであれですか、みんな地獄ゆきだと思わざる得ないわけだ。しかし、小説を論じている方も、仏教を論じている方もそうはおもわない。考えることすらも演技とかしている可能性があるのである。

昨日は日本比較文化学会の全国大会で、横道誠氏に直接お目にかかった。氏のご発表の「当事者研究と当事者批評」は、氏の思想家並びにアクティビストとしての学術的背景を端的に説明されていた。今更言うまでもなく、すごく感情的な反射神経と論理的な反射神経がバランス良く備わっている人であった。学生に聞きにくるように言えばよかったと思う。ところで、日本比較文化学会というのは不思議な学会で、文化ならなんでもいいというか、横道氏の前の発表は、旧茨城県庁の建築についての発表であった。研究の「当事者批評」性――我々にとって、文化的なものがいかに当事的であるのか、つまり、我々は本当は何をすべきなのか、という問いを棄てたら終わりなのだ。ジャンルを越境するとか言っている人は当事者ではなくただの旅行者か商人である。当事者はすべきことをしていろいろな事をするだけだ。

大人の変形譚へ

2025-05-16 23:56:14 | 文学


じゃ、私の将来は? 皆様もご存じのとおり、
自分の事は一番気になるもの!
見える、見える!けれども言えません。
その時になったら、さっそく申し上げますがね。
ではいったい、この中で一番幸福な人はどなたでしょう?
一番幸福な人? こりゃすぐ見つかります!
それはおっと、うっかり言えません――
どうやら、悲しい思いをする人がたくさんありそうです。
だれが一番長生きか? そこの婦人か、あそこの紳士か?
いや、こんな事を言ったら、なおいけない!
ではこれにしようか? だめ!あれにしようか? だめ!
では、これは? ああ、何がなんだかわからなくなってしまった。
だれかのごきげんをそこなわないかと心配です……


――「幸福の長靴」(大畑末吉)


戦後文学の「変身譚」の系譜を講義したうえで、澤西祐典「貝殻人間」を演習で扱っている。アンデルセンの童話のほうが、最初から大人の問題を扱っているような気がしないではなかった。戦後の変形譚がちゃんと人間への復帰を主題にし続けないから。。。とわたくしは思っている。

「魂と蛸」必要論

2025-05-15 23:45:13 | 文学


もしもこの時、魂が帰って来て、自分のからだを東通りに捜しに行ったとして、もしそれが見つからなかったら、さぞおかしな事が持ち上がったでしょう。たぶん、まっさきに警察へ行くことでしょう。次には、落とし物広告をしてもらうために登記所へ行くでしょう。そして、いよいよ最後には、病院へ。けれども、そんな心配には及びません。魂というものは、自分だけで、何かする時は、たいへん賢いものですから。魂がまなことをやるのは、みな肉体のせいなのです。さて、前にも言いましたように、夜警のからだは病院に運ばれました。そして消毒室に運びこまれました。消毒室で人々がまず最初にしたことといえば、言うまでもなく、長靴をぬがせることでした。そこで、魂はいやでも、戻って来なければなりませんでした。さっそく、魂はからだのある方角をさして飛んで来ました。そして、たちまち生命が男のなかによみがえりました。夜警は、こんな恐ろしい夜は、生まれてはじめてだ、いくらお金をもらっても、もう二度と、こんな思いはしたくない、と言いました。ですが、どっちみちもうすんでしまったことでした。その日のうちに、夜警は病院を出されました。


――「幸福の長靴」(大畑末吉訳)


左翼や右翼は両翼なので、どちらかがだめになると中間にある翼以外も墜落する。墜落しないためには魂が必要だったのだ。つまり、左翼や右翼も生活者に寄り添っているからだめなのだ。とりあえず、現体制や現生活者を打ち倒してなんぼじゃなかったのであろうか?――いや、考えてみると、右も左も確かに物理的な破壊よりも精神的な破壊を目指しているようでもある。脳天を砕くのがむかしの革命勢力だとすれば、いまは脳髄を砕こうとする、小林秀雄の初期みたいなかんじなひとたちが革命勢力なのである。これを小林は、自殺の論理(自殺するのは蛸だった)につなげていったようにみえる。

中沢新一の『レンマ学』のなかで、タコの皮膚にたくさんの脳が、みたいな議論が出てきたと思う。自分が流石醜いと感じる人たちは、蛸になったほうがよいのかもしれない。小林を右だと思う人々は、蛸を自殺させないために中沢新一を読むべし。

悲しみは、いつも自分一人で

2025-05-14 23:57:40 | 文学


そこで、私たちはそのあいだ玄関へ出てみることにしましょう。そこには、外套やステッキやこうもりがさや長靴が置いてありました。そして、そこに女中が二人すわっていました。ひとりは若く、もうひとりは年をとっていました。ちょっと見ると、どこかのお嬢さんか未亡人のおともをしてきたらしく見えました。けれども、もうすこし気をつけて見ますと、ふつうの召使でないことが、すぐわかりました。召使にしては、手が華奢ですし、ものごしも上品でした。それに、着物の裁ちかたにも、ふつうとは違った思いきったところがありました。この二人は、じつは仙女だったのです。若いほうは、もちろん幸運の女神ではありません。女神の侍女の一人に仕えている小間使でした。小間使とはいっても、ちょっとした幸運の贈り物を持っていました。もう一人の年をとったほうは、ひどくまじめな顔つきをしていました。これは悲しみでした。悲しみは、いつも自分一人で仕事に出かけます。そうしたほうが、うまく仕事が運ぶということを知っていたからです。

――アンデルセン「幸福の長靴」(大畑末吉)


悲しみが召使いを連れて歩くとは、現代の親子たちを見るようだ。親子関係の桎梏がやっかいなのは、それが目的化することでその外部性を失うことである。「新世紀エヴァソゲリオソ」がその地獄を描いていたし、古くは白樺派の一部がそうであった。親が長生きする時代になって社会全体がそうなってきている。親と社会とは両立できないというのがわたくしの感覚である。

現代の子供とは、老人の連れ合いであって、子供ではない。もう一回「赤い鳥」からやり直さないといけないきがする。ちょっと歳をとってくると、偉そうな口をきいて部下たちや若者を働かす者に童心がないことは明らかだが、ついでに心も失っている場合がある。野間宏の小説に屡々見られるように、物体からの引力で人の心なんか簡単に失われる。その力が権力でもコミュニケーション能力(笑)でも同じだ。窮余の策に過ぎない慣習の積み重ねだけで誰もが納得するわけではないのが分からない馬鹿がいるのはなぜであろうか。おそらく「赤い鳥」の地点が失われたからである。理屈をいうときにこそみずからの正当性がなく、その実、ルサンチマンのはけ口ととしての弱い者いじめとしての理屈しか行わない変態がいない、――そういう地点である。