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★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

逆説と常識

2022-12-04 23:37:59 | 思想


思春期ならびに青年期、中年からそれ以上の先輩がたに告げる、世の中が狂ってると思えるのはあなたがたの生理的なあれではない。世の中は実際狂っている。そしてそれは我々全員が狂ってるためである。

もはや誰が狂ってるかの競争であった20世紀においては、上のようなチェスタトン的な逆説も意味があった。しかし、いまや誰が正常なのかを競う世界になったので、それは逆説ではなく、単なる啓蒙である。若者やスマートフォンが狂ってるという勢力の一味としては、例えば、The Coddling of the American Mind がある。この飜訳ちょっと読んでるんだが、これ題名が「甘やかされた」云々ではなく、『傷つきやすいアメリカの大学生たち』と訳されている。ほんとは「傷つきやすさ」とは違って、傷つく耐性がない甘さがテーマである。わたくしは、心情としては、この本の内容にそこそこ共感はしたのだが、たぶん、こういう本がアメリカの内部にある思想的な軋轢と度重なる殺人を隠蔽してしまうのであろうと思った。日本だって同じである。

例えば、手紙やメールの書き方をいくら教えても駄目である場合が多いが、口頭で何かかしこまって頼むときの感情の使い方を知らないのに出来るはずがないと思われる。敬意というものは道徳で身につくものではない。知性は感情を操る。これを普通「常識」というべし。

先日のスペインとのサッカーで、ラインからボールがでてるかでてないかみたいな話は、ヨーロッパの一部では論争になった。人間の「常識」と器械で行われる判断のどちらを優先すべきか「常識」が迷わせるからである。わたくしも「常識的に考えてこれはでてるな」と「ボールの自意識上に於いてでてる」とか面白おかしく食卓で盛りあがったが、――日本ではこういうのが「つっこみ」になってしまい、議論になりがたい。日本が負けてたとしてもあまり議論になってない気がする。。

第四段の形態

2022-12-03 23:28:41 | 文学


夫婦の怪獣という設定は案外多い。

見ると、妻の髮に白い韮の花がこの朝早くから刺さつてゐた。
 私はまた葡萄棚の下へ戻つて來た。それから井戸傍で身體を拭いた。雇つてある老婆が倒れた垣根の草花を起してゐた。
 私はふと傍の薔薇の葉の上にゐる褐色の雌の鎌切りを見附けた。よく見ると、それは別の青い雄の鎌切りの首を大きな鎌で押しつけて早や半分ほどそれを食つてゐる雌の鎌切りだつた。
「なるほど、これや夫婦生活の第四段の形態だ。」と私は思つた。


――横光利一「妻」


横光利一は何回読んでもあんまり好きになれない作家だが、なんだか自分にも他人にも生き物にも優しさがない気がするからだ。自己肯定とやらは当然、他人に言われていることを自分にも当てはめるみたいな、自己肯定そのものから出てくるエネルギー抜きでやれることが可能な条件でようやく成立し、特に他人への否定を自分に当てはめられるかどうかにかかっているはずなのに、それだけは避けるからやりようがないんだ、と横光を読むと思う。わたくしは、横光を現代人にひきつけて読みすぎているのであろう。

心中と蹴球

2022-12-02 23:28:41 | 文学


何の事もなく、なきがらを頼みし松林寺におくりて、土中にして、憐れやきのふはむかしと過ぎ行き、それより丹之介毎日墓に参詣でて、「追付け跡より参るべし」と、四十九日に当たる日を考へ、武左衛門を是非にさそへど、隙入るよし力なく、五十二日目に同道して、松林寺に入りて、山川を見めぐりて、大右衛門塚のまへにもなれば、両脇に新しい卒都婆二本立ちける。一方は藤井武左衛門としるし、一枚は春田丹之介と書き置く。「これは合点の参らぬ所」と申す。 「御不思議もつとも」とはじめを語り、「近頃おぼしめしの外の仕合せながら、打ち果たしてたまはれ」と言葉を懸けて抜き合ひ、両人ともに夢まぼろしとなりぬ。住寺驚き御断り申して、詮議の後、三つ塚につき込みける。丹之介が思ひ入れ、又あるべき事にも非ず。

恋人を射殺した仇の墓まで建てて復讐にのぞむというのは話の筋に過ぎず、主題は「思い入れ」なのであるから、最後の復讐の果たしあいも一種の代償行為のようにみえなくはない。仇との心中は恋の相手との心中でもあり、その心で死後の恋人を巻き込んでしまおうというかんじである。結果、最後は、恋人の墓も出来た。

こういう世界からすると、女はすぐ泣くといういまならジェンダーバイアス云々と言われるところも、なんとなく言いたいことはわかる気もするのである。つまり男同士の対決=心中の純粋性に比べれば、女との恋愛は、そのあとの生活とか子孫へのあれとかでまったくもって多数の焦点がありすぎて、それぞれが主張するものに恋の旋律はかき消されてしまう。つまり、すぐ泣くやつは女の腐ったやつではなく、むしろすぐ泣くやつは蝉(つまり雄のそれ)のような輩だと思う。あれは、命の最後に子孫を残そうと叫んでいるわけで、同様に、我々の生は、そういう都合のよいときだけ主体的なのである。対して、相手のために命を賭けるだけの恋はもちろん主体は相手にある。

相手がテキストであっても同じである。読み手の主体性とか解釈が自由だみたいなことが広まると、それらは実現せず、なんというか解釈以前の読み取りのレベルでの自由が行使されるようになり、伝言や注意なども無視されるようになる。教育学部の学生も冗談ではなく、現にそういう状態である。で、そうなると人に何かを伝えるときには、伝言が指示になり、注意が命令として行われるようになる。つまり、言葉の意味に頼ることができずに無形のパワーをくっつけるようになる。通じるべきレベルが通じないからであって、もともとあった言霊的な言語間に基づいてのではない。だから、無形の力は無制限に拡大されることもあり、それを避けたい弱者たちは、嘘をついて逃げ回ることになるであろう。

こんなカオスの中で、近代の叙述文体の枷が外れ、なにか以前は分かってて今は分からなくなった古典文学の読み方がぴんとくる可能性がある様な気もしないではない。言葉が主体でないような準ー言葉の流れみたいなものの存在が重要である。もっとも、これが折口の弟子であった上原輝男じゃないが心意伝承みたいな形で整理してもあまり元気は出てこない。化け物特撮の作者であった金城哲夫は上原の弟子であって、彼の脚本は、上原の反映というより、上原のやり方ではあまりできないことを結果的に行っているといえるのではないだろうか。すなわち、怪獣という力の行使である。

サッカーの日本代表が独逸とスペインに勝ったらしい。奇跡的かどうかはともかく、ボールはコントロールできないということを示す面白い試合だったらしい。とにかく、スペインチームはころころっと白線の外に向かって転がるボールを放置せざるをえず、勢い余って足を出した日本人選手の動きはもちろん制御出来ないのであった。あれよっという間にボールはゴールしてしまう。ミシェル・セールが言うように、――ボールは準ー客体であるからして、あまりに競技にうまくなりすぎたチームはときどき人間が主体だと勘違いをする。

それに対して、田山花袋の「少女病」の主人公の方が自分がボールとなってする主体からも見る主体からも解放された。主人公は、少女に恋していたから、彼女のイメージの夢の中でボールとなって山手線に転がった。しかしこれは、「赤い繭」以上に現実的な話なのである。

そういえば「キャプテン翼」では、まだワールドカップでドイツ・スペインに勝ってないらしいのだ。そうだったのか。やっぱドラゴンボールみたいに戦闘力の無限上昇を起こさないと現実に抜かれるのだ。「ドカベン」の剛速球投手たちや「男どアホウ」の主人公も、大谷くんのおかげで、球の遅い努力家たちの物語になってしまった。現実の主体たる玉を追いかけたおかげである。

雪と毒ガス

2022-12-01 23:00:20 | 思想


 この六十日、合理、理論の合理にのみ身をよせて、抗辯したにもかゝはらず、戰爭に反對したことより以外に何の證據もないのに、打たれたり蹴られたりしてゐる自分にとつて、この雪の中に、又大空にみちみちてゐるこの秩序は、泌透る樣にこゝろを刺貫くものをもつてゐた。
 南京が陷ちたと云つて昨夜は外は騷しかつた。しかし支那事變は長期となり、やがて世界戰となり或は毒ガス細菌戰に轉移するから、絶對に反對すると云ひつゞけた自分としては、何れ何處かで、自分の死にまで連續してゐるこの度の戰に、せめて反對したことだけを滿ちたりる事としてゐたのであつた。
 しかし、この雪を見てゐるうちに、私は深い憤りに身をふるはす思ひであつた。この充ち充ちてゐる秩序の中で、人間のこの秩序だけは、この一片の雪にだに、面と面をむけ得るものではないのだ。
 この一片の雪に向つて、この私達の世界が顏むけならないのではないか。
 雪は窓のふちに抛物線を描いて、だんだんつもつて行つた。
 晝頃になつて、調室に出された私は、係官のT刑事に、
「この雪は二万尺の上から、一つ一つ結晶して落ちて來てゐるんです。この一片の雪よりも、私達の世界の方がみじめです」
 と云つた。
 刑事は、いつも、きつい目をしてにらみ据える人間だつたが、その時だけは、だまつて、窓に向つて歩いて行つて、じつと空をしばらく見上げてゐた。
 その事があつてから、人間の愚劣に對する私の驚嘆は、日と共に深くなり、自分も同時に人間全体とすこしも變りなくその愚劣さ、氣障さ、たわいなさ、まことに口にすべからざるものであることに往生したのであつた。


――中井正一「雪」


中井正一の留置所滞在記、これをよむと、他の文章でも中井正一にはどこか甘さがあるような気がしていたのが、よりはっきりしてくるようだ。彼の見ていたのは死の雪であった。これにくらべると、坂口安吾が、人間の愚劣さの美しさを面白がっているのは、ちょっと時期がずれているとはいえ、同時代の生き方としてはほとんど悪趣味なほど胆力に頼った態度だったと思う。愚劣な人間は単に愚劣なのではなく、悪に見えるからである。

バカという病気の厄介なところは、人間の知能と関係があるようでありながら、一概にそうともいいきれぬ点であります。

――三島由紀夫「不道徳教育講座」


三島由紀夫は、安吾のような胆力を持ち合わせず、肉体をせめて存在させようと頑張った。バカではない状態を知能ではなく逆説的に肉体から作ろうというのである。しかし、そもそもそこまで三島はワタシほど孤独にはなれなかった。30代の頃のわたしのある論文を読んでみたら、踊ってるみたいな幸福な文体でびっくりした。そんな気分ではなかったぞその頃は、と思う。やっぱり気分じゃなくて肉で書いてるんだなと思った次第だが、それはわたくしがまだ自分に向けてしか文章を書いていなかったからだ。バカではない状態を作るためには、バカではないものたちとコミュニケーションする必要があった。路線の間違いを証明するために肉体を罰してしまった三島であった。

政府が軍事費を増やすと言っている。最近の事件をみても刃物をもってはいけない人はいるもので、基本的に軍事も同じだ。シビリアンコントロールというはそういうことだ。国家の責任で暴力を自分でコントロール出来たためしがなく、いまもアメリカの命令待ちだというのに「待ったなしだ」とは笑わせる。シビリアンコントロールという言葉を知った頃、わたくしはアメリカンパトロールをピアノで練習しておったので、なんとなく三島由紀夫の「シビリアンコントロールというのはだな、新憲法下で堪えるのが、シビリアンコントロールじゃないぞ」というあれがアイロニカルに響く。