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★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

これでも埒のあく事にぞ

2022-12-09 23:01:00 | 文学


百日の立つ事間なく、精進事をはりてから、人々の内証にてはじめに見増さる美君をまねき、長吉の御方へつかはされけるに、各々の心ざしをもそむかず、この上臈をそのままに置きながら、とかくのささめごともなく、不便やこの人、生きながらの若後家なり。しかれども色はやめがたく、女はふつふつと飽きて、その後は小姓を置かれける。これでも埒のあく事にぞ。

うつくしい、小野小町もかすむ妻を亡くして、これまたすごい美君を親戚が内緒で探してあてがってくれたのだが、それにはてをつけない。で、よくわからんが「色はやめがたく」「女はふつふつと飽き」たらしく、その後は小姓をかかえて男色に励んだという。「これでも埒のあく事にぞ」(これでも片はついたことだよ)。

全集の注は、これを若衆ものとはいわぬ、と文句を言っているが、考えてみると、愛妻の死後に女に飽きて色道に爆発的に移行するなど、やはり愛妻は唯一無二であり、外の女ではつい妻を思い出すだろうから、男色で気を紛らわしたのだともいえるかもしれないし、女への愛の果てには小姓への愛があると言いたいのかもしれない。それに、「好色一代男」のように、つい男色に走ることだって十分ありうるのである。別にエラーでもなんでもない。そういう愛のプロセスは現にあるだろう。西鶴は、男色をつぶさに写すぜといっているのだから、それをそのまま受け取るべきのような気がする。

そういえば、最近は学生が男色とかBLを題材として選びがちであるんだが、これは異性愛がハラスメントになりがちだからめんどう、みたいな原因だけじゃなくて、あまりにも世間がくだらなすぎた結果、よい意味で純粋性みたいなものへの欲求がある気がする。学生と話しててそう思うんだな。。

結婚は昔からいろいろ他の目的(生殖、跡継ぎ、家嗣ぎ、政略、なんでもござれだ――)とつながっていて、まあいろいろあった訳だけど、常に、諸目的に分解解消できるものじゃない。が、近代社会が猖獗を極めると、ほんとにそういうふうに考える大馬鹿がいるんだよな。そんな目的好きのサイコと縁を結びつつ恋愛なんかできるかよ、というわけである。透谷じゃないけど、恋愛は人生の秘鑰で楽しみやプライベートですらないのだ。こんなのは言うまでもなく常識的な感覚の話である。

そういえば、最近花屋さんに行ったら、花屋さんになりたくなった。これだって、色道の一部かもしれない。まったく無関係とはいえないのである。その証拠に、むかしから我々は好意を抱く相手に花を贈ったりするではないか。しかもこのことが、コンサートの最後や退職や記念の式典において花を贈る行為の根拠の一部を形成している。これは逆もそうで、敬意や畏怖につながった花束が、愛の表現としての花束にもつながる。愛はその意味で多義性を帯びるわけだが、その多義性がないと、愛の行為や敬意の行為は、単なる権力関係となるのである。かくして世の中はハラスメントラッシュとなる。