宝塔品の三箇の勅宣の上に提婆品に二箇の諫暁あり、提婆達多は一闡提なり天王如来と記せらる、涅槃経四十巻の現証は此の品にあり、善星・阿闍世等の無量の五逆・謗法の者の一をあげ頭をあげ万ををさめ枝をしたがふ、一切の五逆・七逆・謗法・闡提・天王如来にあらはれ了んぬ毒薬変じて甘露となる衆味にすぐれたり
五逆(父を殺すこと、母を殺すこと、阿羅漢を殺すこと、僧の和合を破ること、仏身を傷つけること)そして、仏法を謗ること。こんなことをしたとしても提婆達多などは天王如来を約束されているらしいのだ。これは一見、悪人正機みたいな暴力的スピード感?あふれる逆説に思われるけれども、その実、我々を謎に投げ込むことが目的だったに違いない。われわれはさまざまな困難から明晰さや一刀両断の逆説を宗教に求めるけれども、大事なのは、困難の肯定に戻れるかどうかなのだ。何故か、悪人が如来である現実がある、因果応報は世界の摂理ではなく、なぜかそうなった現実がある。そこを否認すると、我々はつい暴力を用いたくなってしまうわけである。
宗教上の不幸は、一つには現実の不幸の表現であり、一つには現実の不幸にたいする抗議である。宗教は、なやめるもののため息であり、心なき世界の心情であるとともに精神なき状態の精神である。それは民衆のアヘンである
このマルクスのせりふは途中が略されることがおおいので、宗教はアヘンで殲滅すべし、と解されてしまうのであるが、宗教は「現実の不幸にたいする抗議である」わけであるから、それを除去してしまうと、不幸の表現が消える代わりに抗議もなくなってしまう。「精神なき状態の精神」は、精神に変わりないわけだから、それを除去すれば精神そのものをなくしかねない。宗教は、われわれ世界のシステムの表現である、とマルクスは言いたげである。
もとアイドルの生稲氏が東京で当選した。しかしその後のマスコミへの出演は「国会議員の資質も勉強も圧倒的に足りない」と言う理由でNGだったらしい。なんじゃそれは、とわたくしの正義の精神は呟くが、同時に、わたくしは上記の理由に於いて、生稲氏と自分との共通点を発見したのである。もしかしたらおれも知らないうちに自民党員で国会議員になっていたのか。もしかしたらそれ以前におニャン子クラブの一員なのではないか。職員番号、これあやしいな。。。
勉強不足力量不足で表舞台にあがらないのは、もとおにゃんこの人に限らない。われわれの、――やる気がない、自主性がない、権力がない、怒られそう、などなどの言い訳のすべてに似たような内実が潜んでいる場合があるわけである。安倍氏も生稲氏もテレビ局も我々の似姿で、傀儡だ。傀儡は実力つけないとおかしなやつにハンドルを握られる。おかしなやつは人でもあるが、われわれの精神のことでもあり、上のような言い訳=言葉にわれわれは操られているのである。社会は我々の実力と心で出来ており、言葉でできているのではない。我々の社会は死んでいる。
例えば教員というのは、大学にいる人に限らず、勝手に自分で知や伝統継承のための共同性をつくってしまう我々の社会の健康さ(実力)を示す人種であって、そこに人が集まらないというか、自然に集まってこないというのは、単に職場がブラックだからじゃなくて社会が死んでるということだ。
しかしまあ、このような――私は世の中だ、みたいな思考を極端におもいつめると平岡正明の『あらゆる犯罪は革命的である』みたいな発想に行き着く。確かに、平岡のように、もう自分を歴史の必然みたいな世界線で考えているような男にはそう思いきれるのであろう。しかし、これはこれで、個々の生の事象(生活)に対する分析がおおざっぱになって行きかねない。確かにわたしも、この生活から思い切り離脱するほうが、死体としての社会に付き合わずにスムと考えることもある。が、私は、今現在の提婆達多だってまだ死にかけの死体のような状態であって、生に未練があって中有に漂っているかも知れないと思う。やっぱりもうちっと彼はちゃんと正しいことをすべきだった気がするのである。
たぶんこれからも、ちがう世界線に軸足を移してしまった宗教やイデオロギーとの戦いは続く。カルト?であるかないかは我々の旧来の「常識」が決めるところもある。詐欺集団ぽいとか教義がごたまぜであるとか物を扱うやり方が独特だとか。。けれども、本来、その判断は、それこそ社会をどうすべきかという政治的な認識がすごく働かなければならない判断であり、それがふにゃふにゃしているから、めんどうくさそうな話題だとおもってフタをしてきたのが、この二十年の我々なのである。大学でのセクトや宗教団体の鍔迫り合いは場合にもよるがそれなりに意味はあった。そこで我々は学んだことも多かった。それがないと、学校や政府がいつの間にかカルト?みたいになってても単に観念の目を閉じるか、幇間になるかである。