土ありく童などの、ほどほどにつけては、いみじきわざしたりと思ひて、常に袂まぼり、人のにくらべなど、えも言はずと思ひたるなどを、そばへたる小舎人童などに引きはられて泣くも、をかし。
何が「をかし」だよ、と思わないではない。あまり「をかし」ばかり言っていると、物事に批評的になれていないときでも「をかし」く言わなくては収まりがつかなくなってしまう精神状態となる。わたくしも気をつけなくてはらないが、例えば、松本人志の芸などそういうものかもしれない。わたくしは、北野武と違って、松本が映画に進出しても「大日本人」みたいなお笑いを貫いたところに注目したが、これは危険なことだったかもしれない。チャップリンもお笑いなのだが、ちょっといい子ぶっているような側面が頑固に貼り付いていて、それで逆に彼自身を適度に貶めていた。松本の場合、大日本人で自らをルサンチマンに近い「自虐」の位置まで持っていき、それを日米問題にまで被せてしまう(「大日本人」というコンセプトはそのスプリングボードである)。自虐の笑いの攻撃性が、反転して他を責める攻撃性となる可能性をそこであからさまにつくっている。映画ではウルトラマンのパロディで済んでいたから曖昧にされていたが、あれは当時のネット=サブカル界の一部の精神構造そのものだったような気がする。本質的に「構造的」なものは非常に陳腐に反復されてしまうのであった。
それにしても、子どもを描き出したとたん、意味がしばしば不明確になるのがいやである。わたくしは芥川龍之介の「侏儒の言葉」だって、その侏儒という設定によって、なにか半端になっている気がしてならないのである。
紫の紙に樗の花、青き紙に菖蒲の葉、細く巻きて結ひ、また、白き紙を根にしてひき結ひたるも、をかし。いと長き根を文の中に入れなどしたるを見るここちども、いと艶なり。返事書かむと言ひ合はせ、かたらふどちは、見せかはしなどするも、いとをかし。人の女、やむごとなき所々に、御文など聞え給ふ人も、今日は心異にぞなまめかしき。夕暮のほどに、郭公の名のりしてわたるも、すべていみじき。
最後の「すべていみじき」というのが、あまりに弛緩しているのではあるまいか。端午の節句がそんなによいのか。そんなはずはないよね、本当は……。
「或は小舎人の起原は、もと家屋の精霊として考へられてゐたのだ。」と折口信夫が「日本文学の発生」で言っているが、まだそういう空想の方がわたくしは好きである。