★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

2021-02-11 23:22:03 | ニュース


Mをはじめとする政治家から感じられるのは封建的家制度の残滓ではなく、現代的なミソジニーという感じである。例えば竹下登なんかは若い頃、家父長制度の恐ろしさを父親に苛められた妻の自殺とか何やらで思い知っていたはずだ。それに比べてそのほんとのおそろしさなんかを知らないから逆に「話が長い」とか言ってしまうのだ。

彼らは、現代的なミソジニー(これは決して意識ではなく「制度」である)を生きているにもかかわらず、根本的に男女の関係について観念的な把握しかない。戦争を知らない世代が、一発撃ったら何が起こるかを想像できないように、家制度のしでかした数々の殺人を忘れてしまい、男らしさとか責任について考えている。政治家のくせに、意識とそれが制度化されたときの弊害について思考していない。

リベラルはリベラルで、エリート主義とか特権意識みたいな説明で人間を批判するが、そんなもんで人間の意識が説明できるか。できない。確かに、現代は、根本的な馬鹿に対して、学歴や業績や地位といったアクセサリーで勘違いを起こさせることばかり一生懸命制度化してきてしまった。まさしく平等化の奇形的な暴走である。しかし、かれらの意識はもっと複雑な葛藤の中にいるので、その自己欺瞞自体を批判してもなんともならない。

曲がりなりにもデモクラシーの制度が作動している限り、権力が下に向かって力をいろいろな意味で行使するという構図だけでなくて、権力が下を模倣するということも考えとかなければならない。明らかなハラスメントとして顕れる以前から、いろいろな相互作用があるのが当然であり、我々の意識はその相互作用のなかにある。作用が少なくとも固定化しないような制度設計をすることは大事なんだが、ただ作用を自由に作動させておくばかりでは、パワーを誇示する輩が意識を一部の作用で塗り固めて勝つだけだ。だから、デモクラシー下では、主体の自由を許容する「支援」より以前に「教育」が必要なのである。

例えば、教師が生徒を模倣するということがあるし、むろんその逆もある。学級経営なんかはその相互作用が力の行使として変に暴走しないように教師も生徒も気を遣っている。その場合、教師が知と権力を持っていることによって、より重大なことが起きるのを防いでいるのである。谷崎の「小さな王国」みたいに、教師と生徒の力の逆転が貨幣(この場合は偽金だが)を起きることがあり、レーニンの「帝国主義戦争を内乱へ」みたいな発想が出てくるけれども、やっぱり、力の方向が切り替わっているだけの場合は危険だ。僭主政治みたいなものの誕生はもっとひどい力の作用を生み出してしまう。人間関係は、そういうオセロみたいなものではなく、もっと複雑な相互作用をみとめることでなければならない。

家父長制云々は勉強していないからよく分からないが、どちらの両親が同居しているかによって状況が一変したりすることがある。あるいはどちらの実家が近いかでもよい。問題は権力を自ら生み出しているのではなく「笠に着る」みたいなありかたの方が本質的に問題なのである。制度はそのあり方を容易にしてしまう。一方で、現代では、自分が家の中で一番頭がよいと思っていて、親や兄妹の行動にケチをつけつづけることでアインデティティを形成してきている人間も男女問わず最近は多くて、結婚しても自分が王様でないと耐えられない。これだって、その人が男であった場合は容易にミソジニーの発生を促すのである。

森問題が男女差別の問題に限られてしまうのはそもそもよくない。それはオリンピックに主体的に参画しようとしていた聖火ランナーやボランティアの人間の意識のありかたにまで向けられるべきだ。私は、そもそも聖火ランナーをやる人の気持ちがまったく理解できないが、わたしなんか重たい松明でバランスを崩してこけたついでにその火が群衆に乗り移り大惨事に、みたいな想像をしてしまうのだ。私は、義仲祭りだか松明祭りで火が山の木に燃え移ってみたいな(空想かも知れない)事件しか記憶にないからだ。荒唐無稽かも知れないが、聖火ランナーやボランティアに、そんな滅茶苦茶なことを想像してぼんやりしている自由はない。これこそがオリンピックによる自由の制限=動員なのである。森や小池だってある意味でその犠牲者といって差し支えない。

これは大人の常識だと思うが、政治家でも学生でも学者でも失礼な態度をとるやつっていうのは謙譲の美徳が欠けているからそうなるのではなく、無責任だからなのである。他人を処世のために使用するからなのである。MとかAとかが責任を権力と相即するほど負っているのであれば、多少威張ってても気にならないが、そうではない。こういう人間は敬語の使用法に熟達しても、行動自体によって周囲に責任を負わせ続ける。こういうタイプが処世のために「頑張る」。その「頑張り」自体は無視できないので、上がそいつを引きあげてますます頑張らす。そうやって、出来上がっているのがいまの一部の管理職たちなのだ。あまりに目に付くので、たぶん一般的な現象ではないかと疑われる。

だから、――Mさんは自分には頑張りが足りなかったと思っているのではないか。だから自分の面白おじさんみたいなキャラクターを切り落としたまずい意味で真面目な川淵を後釜に据えようとする。

根本的に、その頑張り=処世とは自分のためのそれで、祖国とか人類のためのものではない。だいたい、Mとかの発言には、「日本の女」という限定もなかった。つまりこの人には、祖国への愛憎といったものを含んだナショナリズムすらない。きわめて、現代的だと思う。ナショナリズムは、罪と罰に引き裂かれる自己の解体を必要とする。本当はリベラリズムだってそれが必要なのだ。


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