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★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

人生は何処に?

2025-04-01 23:25:19 | 文学


「おめえの殺したのは、おらじゃなくて、おらのばあさんだったんだ。」と小クラウスは言いました。 「そのばあさんを売って、大枡にいっぺえのお金をもらったのよ。」
「なるほど、そいつはほんとに、いいもうけをしたな。」と大クラウスは言いました。そして、急いで家に帰ると、斧を持ち出して、さっそく、自分の年とったおばあさんを打ち殺してしまいました。それから、死骸を車にのせて、町に出て、薬種屋の店へ行きました。そして、死んだ人を買わないか、とたずねました。
「それはだれだね。どこで手に入れなすったかね。」と薬種屋はききました。
「うちのばあさんでさ。」と大クラウスは言いました。「大枡いっぺえの金で売ろうと思って、ぶっ殺して来ましただ。」
「とんでもない!」と、薬種屋はびっくりして言いました。「とんでもないことを言う人だ!そんなことをしゃべるなんて! おまえさんの首が、ふっ飛んでしまうから!」


――「小クラウスと大クラウス」(大畑末吉訳)


いまの教育の一部がだめだと思うのは、こういう譚を小クラウスが生きる力があって大クラウスはまぬけだったみたいな解釈をしかねないからである。アンデルセンの目は、ちゃんと人間の人生に密着しているのである。人生訓がその対立物である。善が対立しているかはよくわからない。小クラウスが大クラウスの馬を含んで「おれの馬が云々」とか最初のあたりで言っている時点で、善悪や所有の観念その他いろいろなものが崩れているのである。ただ、人間そのものが崩れているわけではない。大も小もみせかけのレッテルで、彼らがやったことだけが彼らの人生である。

チャットなんとかなどのAIの登場で、ヤ★ー知恵袋などの間違いだらけの腐りきったかんじがちゃんと人間的にみえてくるのだから、世の中うまく出来てている。ついに、人間がその腐って滅茶苦茶なものであることを再認識する秋が来た。感情や知能が滅茶苦茶なのではなく、もともと奇跡や魔法に近い滅茶苦茶な事象なのである。

そういえば、ここ数年、研究室のゼミ生の興味はどこかしら戦争に関係ある文学にかたむきつつあるきがする。古典ゼミは近世が人気であるが、その理由はよくわからない。いずれにせよ、文学への興味は人間の人生へ興味があるかどうかにかかっているようにおもえるのであるが、それが感情への興味や性への興味と絡んで混乱する。オペラなんかはそういう混乱を大げさに利用したジャンルのような気がする。映画で戦争がほんとに描かれるようになって、特に戦争という事象が人生よりも感情よりも大きく見えるようになって混乱が激しい。

スポーツに惹かれる人々が多いのは、芸術よりも直截に人生を感じるから、というのがある。勝負がはっきりしているわりには、その原因が偶然性に拠っている気がするからだ。ただ、これは観客の視点である。行っているのは、ただの肉体労働者であって、やったことと結果が形式論理的に結びつく世界に生きている。

わたくしは、たぶん父親の影響もあってか、――最近はほとんど観てないが野球はわりと好きである。個人種目にほとんど興味がないからなのかな?ともおもったが、そうでもない。サッカーやバスケットボールはめまぐるしくてつかれるからあまり観たことがないし、フィギュアスケートがすきだった頃もあったが、美少女が観たかっただけである可能性があり最近はどうでもよくなった。結局、砲丸投げとやり投げと野球が残った次第だ。すると、遠くにとばすものが好きなのか?マッチョな男性趣味なのであろうか?――そういえば、最近、『嫌われた監督』(鈴木忠平)と『ルーキー』(山際淳司)を続けて読んだが、ある種のセンチメンタルなかんじがあふれかえっていてびっくりした。野球文学みたいなものは、新聞の記事もふくめてたくさんあるがなんとなく肌に合わない。結局、2ちゃんねるの野球板にあったような空騒ぎが好きだったのか?しかしそうとも思えないから、いったい何であろう?――と考えてきたら、ほんとに野球が好きだったのかどうかわからなくなってきた。結局、水島新司とか「アストロ球団」といった野球まんがが好きだっただけではないだろうか?

しかしどうもちがうようだ。多くの野球ファンと一緒で、わたくしは「記録」をみるのがすきなのである。落合博満氏が「記憶は記録に勝てない」と言っていて、彼の冷徹ぶりを示しているようにとらえられているが、実際は野球における「記憶」は野球文学も含めた空騒ぎで、「記録」こそが落合氏が好きな「映画」みたいなものなんだろうと思う。「記憶」は、観客が勝手に紡ぐものであるが、「記録」は野球労働者の個人的な労働=人生からしか生まれ得ないのだ。


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