★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

うちの庭の蛙が去年よりもでかくなっている件

2024-06-12 23:51:19 | 文学


翌朝、天幕を出てみると、百七、八十貫もありそうな牛のような異様なけだものが三十頭ばかり草を食っている。身体は密毛で蔽われ、額から波のように垂れた長い毛が顔を包みこみ、眼鼻もわからないほどになっている。尾は絵にある唐獅子にそっくりで、草を噛む音は櫓をこぐよう。眼つきに凄味があって、いまにも突っかけて来るのではないかと思われるくらいだった。これは西蔵高原の不毛の寒地に野生しているヤクという動物で、北部ではもっぱら駄用乗用に使役し、肉と乳は食料、皮は沓に、毛は織物に、糞は乾かして燃料にする。見かけは恐ろしいが牛よりも温柔だという。そう聞くと、これに荷をつけてゆけば長旅の苦労は半分に減ると思い、乾隆銀幣(西蔵銀貨)を出してたのむと、金などはいらない、マナサロワール湖の手前の河のそばに弟の天幕があるから、そこへ置いて行けばいいという。礼をいってヤクを一頭借りうけ、その背に荷を預けて北に向いて歩きだした。玄奘三蔵のお伴はお猿と猪だったが、こちらはヤクかと可笑しくもあった。

――久生十蘭「新西遊記」


基本的に、三蔵法師みたいなお経をとりに行きたがるのは文献派であろう。それは、わたくしの学生時代の如く、図書館というジャングルを熊のように動き回り宝探しをするやからであって、孫悟空にしても上のヤクにしても図書館のなか、あるいは図書館に行く途中の本屋でみつけた珍しい文献みたいなものだ。しかし、こういうやり方は限界が来る。だいたい孫悟空やヤクがほんとはたいして珍しいものではなかったことが年月を経るとわかってくるからだ。学者はそれ以降、みずからが古い文献みたいになりながら動かず考える道に流れていきがちである。休息は必要であるが、それは睡眠と読書である。一部の者は執筆こそが休息の場合がある。

博士論文を三年で書かせて追い出せみたいな政策がまた浮上してきているが、こういう政策は頭が悪いだけでなく根性が悪く、というより何より趣味が悪い。研究者の土台をつくるんだというのは正論の方が確かにまだましなのであるが、――しかしもともと大学院というのは本来的には梁山泊的なサロンでないと面白くない。だから、国家の尖兵でしかない大学には存在が難しかったのかもしれない。で、漱石や西田がつくったのはそれであった。寺田寅彦は漱石が死んだときに、じぶんにとって先生の文学はたいして重要なものじゃないが先生そのものが重要なんだ、と言ってたが、いまのひとはだいたい、人よりも残された文章がとかすぐ言うからつまらない。――こういうつまらなさも博論三年でかかねばデテケみたいなのの変奏にちがいない。大学院に行くときには、楽しいサロンがありますたぶん変人だけと妙に博識な愉快な先生がいて、自分も何か素晴らしいこと思いつくかもしんない、という期待が大きいわけだが、――入ってみたら、論文生産マシーンと業績サイコパスの巣窟だったら絶望である。素朴な感情的意味でいやだ。むろん、梁山泊であるから、自分がだめだったら相手にされなくなるだけだが、まだ相手が面白い相手だったら納得もゆく。しかし、相手がマシーンやサイコパスだったら機械に舐められたという嫌な感じだけが残る。

たしか、小山慶太氏だったと思うが、物理学というのは自然への攻撃だみたいな云い方をしていて、文学もそういう攻撃かもしれないことを示唆していた。これはしかし、こういう世界観がその時代に幸運にも成立して、西と東でシンクロしていたのであろうか。わたくしはそうは思わない。結局、寺田寅彦が漱石におもしろそうだから物理学を教えたがった人だった、漱石がそれをつかっていいこと言うからであった。

制度改革みたいなのは一定の意味がある場合があるのだろうが、それをした場合に、その改革に適応した者のなかに悪い怪物がでてくる可能性が高い場合と低い場合があると思う。プラス面とマイナス面を理性的に判断できると考えるのは、人間の存在をちょっと舐めてると思う。ばかな政策にはかならず馬鹿な人間が現実的な判断と称して、まったく別の目的のためにそれを使用してしまう。例えば教育学部では、人間性を土台にして教育を教えようと殊更観念的=実践的に頑張るみたいな、中学生でも一秒でだめだと分かる方向性を内面化してゆくことによって、このままゆくと、学校の先生のかなりの部分が遠慮気味に言っても勉強が出来ず嫌いである状態になる。で、ただの必然として、そういう人ほど勉強出来ない人間をバカにしたりする。結果的に人間性どころの話じゃなくなっているのは自明である。


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