「弘誓深如海」とあるわたりを読むほどに、谷の方より、物のそよそよと来る心地のすれば、「何にかあらん」と思ひて、やをら見れば、えもいはず大きなる蛇なりけり。長さ二丈ばかりもあるらんと見ゆる
「観音経、蛇に化し、人を輔け給ふ事」(『宇治拾遺物語』)では、谷底に落ちた鷹匠が、お経を唱えていると、大蛇が現れて助けてくれる話であった。この「やをら見れば」というところがいいと思う。
鷗外の「蛇」なんかだと、青大将と出っくわしただけで気がおかしくなってしまう当時の「新しい女」が出てくる。おそらく、鷗外の目は、新しい女やら当時の家族論やら教育論の遙か遠くの行方を見ていた。それが我々の様々な期待とは別に、どういう「感覚」に陥るかを見ていたに違いない。この蛇事件は、いまの事件としてみれば案外思い当たるような気がする。思うに、我々は空っぽな自我など持つことはできず、何かを教育(洗脳)して柱を入れ替えることすら容易ではない。にもかかわらず、理屈だけは沢山覚えるし、また案外多くのことを沢山すぐ忘れてしまうのである。そこで何が残るかは、あらかじめ予測できない。エリスの発狂はちょっと突き放されているのに対し、豊太郎の自我は冷静に見られているようにもみえるが、果たして……。