Respighi, Fountains of Rome, 3rd movement, bass trombone & tuba
音楽を聴くことと、音楽を奏でることにはかなり大きな違いがある。前者の場合は、音楽は自分の外と頭のなかにある気がするが、オーケストラの一部に自分がなるときには、音は自分の内から外に出て行き、なおかつ音楽はオーケストラ全体が作用している場所(観客席)でしか存在していないので、自分ではよく分からない。
例えば、レスピーギの「ローマの噴水」を演奏したときに、観客席からは、上のような聞こえ方はせず、バストロンボーンとチューバの位置(かなり片隅である)から聞くそれはかなり違った音楽なのだ。しかし、この音楽は観客席からは聞こえない、いわば車のエンジンのなかの機械音に似て快楽的なのである。わたくしもバストロンボーンでこの曲を吹いたことがあるので、この動画はよけいいい感じがする。
そんな経験が昂じると、CDなどで「ローマの噴水」を聴いていても、たぶん普通は聞こえないバストロンボーンの音の一部のはやいパッセージが聞こえたりする。これは非常に面白い経験である。
思うに、オーケストラを社会に、トロンボーンをある組織などに置き換えることが出来るのである。最初からは、社会を聞こうとしてはならない。
音楽を聴くことと、音楽を奏でることにはかなり大きな違いがある。前者の場合は、音楽は自分の外と頭のなかにある気がするが、オーケストラの一部に自分がなるときには、音は自分の内から外に出て行き、なおかつ音楽はオーケストラ全体が作用している場所(観客席)でしか存在していないので、自分ではよく分からない。
例えば、レスピーギの「ローマの噴水」を演奏したときに、観客席からは、上のような聞こえ方はせず、バストロンボーンとチューバの位置(かなり片隅である)から聞くそれはかなり違った音楽なのだ。しかし、この音楽は観客席からは聞こえない、いわば車のエンジンのなかの機械音に似て快楽的なのである。わたくしもバストロンボーンでこの曲を吹いたことがあるので、この動画はよけいいい感じがする。
そんな経験が昂じると、CDなどで「ローマの噴水」を聴いていても、たぶん普通は聞こえないバストロンボーンの音の一部のはやいパッセージが聞こえたりする。これは非常に面白い経験である。
思うに、オーケストラを社会に、トロンボーンをある組織などに置き換えることが出来るのである。最初からは、社会を聞こうとしてはならない。