中世哲学の研究者、花井一典氏が亡くなったそうである。トマス・アクィナス『真理論』やヨハネス・ドゥンス・スコトゥス『存在の一義性』の翻訳(山内志朗氏との共訳)などで私の中ではかなりの有名人であった。トマスに関する「超越概念と経験」という論文を大学院のときに読んだ覚えがあるが、無学の私はまったく歯が立たなかった。
私の論文を「スコラスティックである」と言っていた人がいたが、たぶんこれは批判されたのであろう。しかし、私は褒められたようなくすぐったい気持ちがしたものである。この知的風土で、処世と興奮と刺激だかをもとめて、転向を繰り返す学者の中にあって、スコラスティックであることができたら驚異的である。果たしてそんな強さを我々は持っているのであろうか。だいたい「スコラ哲学」とは何か、そもそも我々には分かっていないではないか。
小室直樹氏も死去されたか……。こちらは昔、ある新書の帯の推薦文に談志師匠が書いていて、その文章があまり好きになれなかったので、つい読まずに放り出した経験がある。読んでおけばよかった。宮台真司への影響は大きいのだろう。その立ち振る舞いにおいて。
20代のはじめ、どちらかといえば、私は花井氏のような文章にあこがれていたのである。また一方で、「花」しか共通してない、文体もまるで違う花田×輝氏を研究対象として選んだけれども。彼らの文章にある共通性を見出すこと、これが20代の私の願いであった、――というより幻想であった。
私の論文を「スコラスティックである」と言っていた人がいたが、たぶんこれは批判されたのであろう。しかし、私は褒められたようなくすぐったい気持ちがしたものである。この知的風土で、処世と興奮と刺激だかをもとめて、転向を繰り返す学者の中にあって、スコラスティックであることができたら驚異的である。果たしてそんな強さを我々は持っているのであろうか。だいたい「スコラ哲学」とは何か、そもそも我々には分かっていないではないか。
小室直樹氏も死去されたか……。こちらは昔、ある新書の帯の推薦文に談志師匠が書いていて、その文章があまり好きになれなかったので、つい読まずに放り出した経験がある。読んでおけばよかった。宮台真司への影響は大きいのだろう。その立ち振る舞いにおいて。
20代のはじめ、どちらかといえば、私は花井氏のような文章にあこがれていたのである。また一方で、「花」しか共通してない、文体もまるで違う花田×輝氏を研究対象として選んだけれども。彼らの文章にある共通性を見出すこと、これが20代の私の願いであった、――というより幻想であった。