
町のそとに、大きな絞首台がたてられました。 そのまわりに、大ぜいの兵隊と、何万という人人が並びました。王様とお妃とは、裁判官と顧問官一同とむかいあった正面のりっぱな玉座につきました。
兵隊さんは、もう段の上に立ちました。ところが、いよいよ首に縄をかけられる時になると、兵隊さんは、こんなことを言いました。どんな罪人でも、いよいよ処刑されるという前には、無邪気な願い事を一つは、かなえてもらえるそうではありませんか。私にも、いまわのきわに、どうぞ最後のたばこを一服のませてください。
これには、王様も、いけないとは言われませんでした。そこで、兵隊さんは火打石を出して、一、二、三、と火をきりました。するとたちまち、目の玉茶わんぐらいの犬と、水車ぐらいの犬と、円塔ぐらいの犬とが、三匹ともあらわれました。「おい、おれを助けてくれ! おれはしめ殺されるんだ!」と兵隊さんが言いました。 すると、三匹の犬は、裁判官と顧問官とに飛びかかって脚をくわえたり、鼻にかみついたりして、みんな を空高くほうり上げました。落ちてくると、みんなはこなごなに砕けてしまいました。
「わしはごめんだ!」と王様は言いました。けれども、一番大きい犬が、王様とお妃とを二人つかまえて、ほかの者たちのあとからほうり上げました。兵士たちは、こわくなってしまいました。いっぽう人々は口々に叫びました。「もし、兵隊さん! 私たちの王様になってください。そして、どうぞ美しいお姫様をお妃様にしてください!」
それからみんなは、兵隊さんを王様の馬車に乗せました。三匹の犬は、馬車の前を踊りながら「ばんざい!」と叫びました。子供たちは指を口にあてて口笛を吹き、兵隊たちは捧げ銃をしました。お姫様は、あかがね御殿から出て、お妃になりました。それがお姫様には、まんざらいやでもありませんでした。御婚礼のお祝いは一週間もつづきました。そのあいだ、三匹の犬は、宴会のテーブルについて、大きな目をぐりぐりさせていましたとさ。
――「火打箱」(大畑末吉訳)
この兵隊は火打箱を魔法使いの婆さんの頼みで金銀と一緒に手に入れたついでに、婆さんを殺した。上の三匹の犬(というより目が巨大なバケモノである)の引っ張ってくる金銀のおかげで名誉や信頼も得たが、王様の娘と会いたかったので、犬を使って自分の家に連れてきてキスしてしまう。バレたので死刑になりそうであったが、結果どうなったかというと、上の通りである。「走れメロス」の結末で、群衆たちが「王様萬歳」と叫ぶのは、彼らが罪へ罰を下す常識を失った衆愚だとしか言いようがないが、あるいは、もともと信頼を信じないことにかけては王様と民衆はもともと似たようなものなので、もしかしたら狂っているのはやはりメロスだけかも、――みたいな謎の中に読者はほうりこまれる。これにたいして、上の話には不思議なところはあまりない。魔法が存在していること以外は。
むろん、チェスタトンの言うように、科学者のほうがセンチメンタルな空想にとり憑かれているのに対して、太陽が上がってきたりする平凡さに魔法をかんじることこそが、平凡さにひたすら依拠する民主主義的な態度なのである。メロスの話は完全に英雄=全体主義にみえるが、なにか不自然なのだ。そして、平凡さが極端に魔法のように感じられると逆に驚きのあまり独裁が成立してしまったりするのが上の話からわかるというものである。チェスタトンよりもアンデルセンのほうが現代的な何かをつかんでいるのではなかろうか。
昨日、藤高和輝『バトラー入門』を読了したが、よくわからんが、世の中、認識や身体が痙攣すればよいというものではないような気がするのである。ハチの音のような痙攣音に対して人々は敏感である。そういえば、ガブリエル・アンウォーがでてた危険なハチが飛行機の中で放たれる映画(「フライング・ヴァイラス」)があったが、彼女がハチ女になって世の中の不条理と戦う話になるかと思ったわたくしはほんと「走れメロス」的な発想から離れていない。
太宰や私に比べると、「落窪物語」のほうが人への知恵も世の中の構造への認識もありそうだ。三十年ぶりくらいによんでみたらそもそもあんまり継子いじめの話に思えない。芥川の「玄鶴山房」とかもそうだが、我々は嫌う人間を隔離してしまうのだ。だからいじめと言っても「シンデレラ」みたいな直接的な奴隷にするのとはちがって、むしろ被差別部落問題の起源みたいなかんじがするわけである。そして、「走れメロス」みたいにほんものの奇跡にたよらず、内戦をさけるための非人間的な姫様を設定する。魔法を使えない我々は、非人間的な人間を仰ぎ見ることで問題を沈静化させてしまう。
こういうのは天皇制の欺瞞としていつも糾弾されてきたわけだし、その批判に一理はある。結局、アンデルセン的な魔法=革命のほうが人間的みたいな気がするからだ。しかし、我々は、そういう現実的に目覚める魔法ばかりに拘ればよいというものではない。非人間的な純朴さがひつようなときもあるのである。例えば、――昨今、文系?の研究室・学会などが疲弊しているのはまあそうかもしれないが、単に政府とか世間から攻撃されたからではない。こういう局面でファイトがわかない、なにか別の目的で学問をやってるタイプが、本を読んで考えて嬉嬉としている純朴なタイプを現実に目覚めよとか甘いとか言うて、現実的な方策で(上の三匹の犬がお金をどこからか持ってくるように――)資金を得、純朴な人々を追い落とし勝ち上がった結果でもあるにちがいない。彼らはディレッタントではなかったかも知れないが、本心からの問題意識がないので、学生からも本気だと思われない。現実に目覚めよ、というタイプは現実が疲弊したり混乱したり脅迫してきたりすると、それに合わせてしまうのだ。簡単なことである。