
ダンテの三行詩節とジョイスの章句において起こることは要するに、美的効果の構造規定に照らせば類似した方法をもつ。つまり表示義と共示義の集合が物質的価値と融合し、有機的な形を形成するわけである。どちらの形も、その美学的観点から考察すれば、絶えず更新され一層深まってゆく享受行為に対する刺激として開かれている。だがダンテの場合、一義的メッセージの伝達が常に新たに享受されるのに対し、ジョイスの場合、それ自体(そして実現された形のおかげで)多義的なメッセージが常に多様に享受されることを作者が意図している。すると美的享受に典型的な豊かさに、現代の作家が実現すべき価値として自ら提示する新しいかたちの豊かさが一つ加えられるわけである。
――エーコ『開かれた作品』(篠原資明他訳)
予備校のときに名古屋の本屋で立ち読みしたときに、それが「開かれている」ことになるのかどうかわたくしは疑問であったが、いまでも疑問である。わたくしは浪人生で、非常に運命というか必然というか、そんな何かを感じていたので、テキストが開かれていようと閉じられていようとどうでもよかった。いまだって、あまりそういうことに興味はないし、解釈?が開かれているという言説がなにか怖ろしいことのように思えたからでもある。わたくしは開かれているということは、それが開かれたまま自走していってしまうことのように思えたのである。人は、そこまでテキストを目の前にし続けないし、自分の考えさえ制御できない。
先日も書いたように、ヴァンス副大統領の『ヒルビリー・エレジー』を読んだ限りでは、この作品にロシア文学みたいな「文学」を感じる東浩紀氏の感想も少し大げさだとおもったが、そういう感想は十分ありうるし、主人公(書き手)に対してセンシティブとさえいえるのだと思った。
この自伝は、やはりいま流行のエビデンス主義なのである。因果が現在を決定する。過去の悲惨は現在につながっている、と。しかし我々は、いいかげん我々は都合のいいエビデンスでっち上げることばかりしていないで、同じエビデンス主義でも因果応報というものを知るべきなのである。いきなりオウム事件を身から出たさびと見做すことがきついならもっと分かりやすいものでよいが――、とりあえずオウム真理教なんかは、戦後の教育とサブカルで醸成された善意とSFの結合が原因という説明がよくあるけれども、よのなかそんな簡単な因果では出来事は生起しないのではないか。わたくしは、善意とSFというものの周囲が重要だったことは認めたいが、そこに自由という観念がどこまで関与したかに興味がある。善意が孤独でないところに置かれるとやっかいなことはよく知られているが、なぜ善意の集団化が暴走しがちかといえば、なにか自由を目的化させるものが善意にあるからだ。自由を因果から遁れる暇つぶしに考えないのである。
おそらく教員の集団も、いま、因果を信じたい善意と整理不可能な現実との闘いを演じている。それこそ世の因果で前者は負けることになっている。勝ったら宗教集団として顕れてしまう。