
曰、然則衆賢之術将柰何哉。子墨子言曰、譬若欲衆其國之善射御之士者、必将富之、貴之、敬之、誉之、然后國之善射御之士、将可得而衆也。況又有賢良之士厚乎德行、辯乎言談、博乎道術者乎、此固國家之珍、而社稷之佐也。亦必且富之、貴之、敬之、誉之、然后國之良士、亦将可得而衆也。
賢人を多くするには、弓や馬の達人と同じでかれらを高い地位につけて尊敬し栄誉を与えるべし。大昔の墨子でさえ、賢者によい地位を与えて尊敬すると増えてくるよと言っている。少子化の対策は、まず産む人を尊敬するところからはじめるべきだ。というわけで、田んぼの蛙さんたちを尊敬しよう。
わたくしたちが、つい尊敬するべき奴を尊敬するとなにかソンをするんじゃないかと思うようになったのはいつ頃からであろう。たぶん我々が自分らしく生きるみたいな自己欺瞞を他者に投影するからだ。ありのままでいきてゆくよと言っている学者は多いわけだが、さっさと手から氷結光線出せよ、もう何年も待ってんだけど。――みたいな疑念とインテリ不信は似ているはずだ。
林田球の『ドロヘドロ』は元気なときに読むべき傑作であるが、逆に自分らしさを消去すると、我々は化け物に顔を変えてしまう、そんなことがよく分かる作品でもある。とはいっても、主人公の顔が鰐であるように、我々はいつもアイデンティティの危機を身近な動物を模倣することで乗りきってきたのではなかろうかとも思うのである。
我々の社会は、教師を生産できない社会になっていると感じるが、――どうも冗談じゃなく、むかしのひとは、犬猫だけでなく馬や山羊や虫たちとくらしていたから子どもともうまいことやっていたのではないかと思うのである。子どもはたぶん犬猫より馬や山羊に似ているし、給食のときなんかはまさに虫。つまりコミュニケーション能力みたいな人間的なものを想定している時点で間違っているのではないかとおもう。だいたいコミュニケーション能力笑の人って、相手を観察しないから、相手にコミュニケーションを要求するコミュニケーションだけになりがちなのだ。――それは、まさに、へたな飼い主である。
研究があるんだと思うが、校内暴力とかがおさまったりする場合に、実際中学生なんかにどのような転回が起こっているのか。人間がおとなしくなるというのはどういうことなのか。ここがいつもちゃんと観察されているかどうか。きちんと観察しないことによって抑圧を発生させてるのはわかるけど、そういうことにこだわっていても、せいぜい権力の勾配を、権力だ、生権力だみたいに存在を追認するしかない。問題は、かれらを人間だときめてかかっていることである。比喩ではなく、かれらをカブトムシみたいなものだと思って観察すべき。
多くの知識人、文人たちのコミュニティ論てほんとそりゃそうだよねみたいな理屈が書いてあるのだが、まさにお前に仲間がいないじゃないか、というあれに尽きる。その点、組織内にいて苦労している学校の先生やってるひとの言うことの方がまだましなのだ。学校の先生は認識力や学識の問題でうまく物事が言えないんだと文人たちはおもっていたところがあったと思うが、ここまで社会が学校化してくると、容易なことは言えないし、はてあれはどういうことだという事情があることがわかるだろうし、まずは非常に疲れていることがわかるのだ。そして相手が人間であることがどれだけ重荷になっているかも実感される。組織は人間の問題ではない。非人間的と言うより蟻やカブトムシの問題なのである。最近は大学でもそうかもしれないが、教員が妙なテンションで声色使うようになったらもうそんな職場にはおかしいやつしか集まらない。当たり前である。彼らはたぶん、人間的な魅力を出そうとしてAIに近づいている。いうまでも、AIがだめなのは、人間的なものに接近しようとしているからである。
乱歩の少年探偵団より大江健三郎の少年もののほうが最近の作品であるが、大江がほとんど人間を人間だと思っていなかったことは明らかだ。だから新しかったのである。
この前、信濃毎日新聞だかテレビだかで、長野県でやっている無言清掃の伝統についての特集があった。まだやってるんだな無言清掃、と思ったが、――そういえば、わたしの出た学校では「自問清掃」だったか。当時からそれが秩序維持が目的なものだとはわかったが、その抹香臭い半端な理屈づけについては、まあ舐められたもんだわなと思い、ひそかに学校をすっかり見放したことは確かである。当時は修養主義の名残だと思いたかったが、別もんであった。管理教育の導入であった。とはいえ、こういう活動が抑圧的であることはたしかでも、民主的な話し合いとかいう建前を実践しようとすると、単にコスパ的にずるする奴、口先野郎みたいな奴が叢生しそれはそれで大変な場合もあるであろう。集団としては生徒達が教師よりも優れているわけではない。外野はやってみてから言ってくれとかいいようがないのは確かである。学校の権力?も全体主義的かも知れないが、子供も違う意味で全体主義的であるのは自明である。お互いに行動を模倣しているスパイラルに入るとどうしようもない。ハラスメントが多発するのはこういう状況だと思う。力をふるうことが許されている方が力を行使するだけであって、実際に心的圧力で厭がらせをしているのがどちらなのかは、その現場による。
かくして、いらいらした教員達は、つい今時のわかものは批判的精神がないみたいなことを言ったりするわけだが、――学校に批判的、すぐ革命的に結論にとびちゅく、だいたいまじめである、若い――ほとんど一緒である。違うのは、より日常的に人間から離れた、つまりおしゃれをするようになったからか、儀式のさいに、ものすごくモンスターじみた感じになっていることぐらいだ。わたしが成人式とか卒業式がすきでないのは、儀式は拒否するぜみたいなあれだと思っていたんだが、もっといえば、かわいこぶった婆娑羅な恰好をみるのがいやなのかもしれないのである。どうみても男女ともに普段着の方がかわいらしい、普段の美が台無しだ。普段から昆虫なのに、もはやニコニコした龍みたいな形状の群れになっている。
その点、森薫氏の「乙嫁語り」、絵がうまいだけでなく、抽象的な衣装の柄がすばらしく、昆虫から遠く離れているといへよう。