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★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

going through a rough patch

2022-01-28 23:29:16 | 文学


草深みさしも荒れたる宿なるを 露をかたみに尋ね来しかな

露はどこにもあり、それが形見だというなら、――形見は遍在するのではなかろうか。あばらやで男を待つ女の姿がどれほど好まれたのか、よくよく考えてみると、「伊勢物語」だけの影響とは思えない。この涙の露も、あるいは自分の涙ではなかろうか。わたくしであったら、女があばら屋で朽ちて行く姿は耐えられない気がする。しかし、人間はそんな非人情なことも平気やってしまうもので、その後悔の方をよく覚えているような気がする。涙は、女と男のそれが混じっている。こういう涙は物理的にあるものではなくて、歌の中で関係性の怨念として存在する。

岩波明氏の『文豪はみんな、うつ』の幻冬舎文庫版の解説を島田荘司氏が書いていて、ある種の怨念が籠もった名文であった。推理小説の界隈も、純文学と同じく、学歴やら被差別者としての怨念やらがあった。岩波氏の文章も、単なる作家の病歴ではなく、近代文学の文士たちが持っていた精神的環境が鬱病を発症させ彼らをはやい死に追いやったことを重視しているようだ。――しかし、岩波氏も島田氏も彼らの文学からくる種々の怨念に突き動かされているようにも読める。やはり近代文学は怨霊を呼び出す、呪術回線みたいなものであった。

漫画の世界で、最近の作品では「呪術廻戦」というのがあったし、むかしから少年漫画には呪術で怨念と戦う話が多い。これは、近代文学が文体を失い、うまく言葉に出来なくなってしまった怨念の扱い方を直裁に表出したものなのかも知れない。

我々の世代は、まだ文学への幻想があって、論文に於いてもその論理がそのまま文学的昇華になりうることを夢みている人が多い気がするが、グローバル化と経済的破滅の中で思春期を送った下の世代になると、怨念の表出の仕方も異なっている。刑部芳則氏の大著『セーラー服の誕生』の「おわりに」がすごくて、学校の記念誌を400ばかり調べた後あたりで苦しくなって、「大東亜決戦の歌」を自分に言い聞かせながら乗り切ったという。刑部氏はちょうどわたしの妹の世代だが、そういえば、軍歌の研究で世に出た辻田真佐憲氏とか、ネトウヨから転向した古谷経衡氏とかもその世代である。妹が言うにはまわりには一種の日本回帰を思春期から起こしている者が結構いたと。妹も伝統文化に大学以来のめり込んでいていったがそれは興味というよりある種のパッションであったようだ。時代のせいなのか、洒落ではなくある種の受難(パッション)意識が働いているような気がする。

しかし、怨念は、関係性として存在する。我々がそのことをわすれる頃が一番受難の時代といえるであろう。