goo blog サービス終了のお知らせ 

★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

青き眼、誰もあるべきことなり?

2021-08-11 23:53:57 | 文学


さしたる事なくて人のがり行くは、よからぬ事なり。用ありて行きたりとも、その事果てなば、とく帰るべし。久しく居たる、いとむつかし。人のむかひたれば、詞多く、身も草臥れ、心も閑ならず、万の事障りて時を移す、互ひのため益なし。いとはしげに言はんもわろし。心づきなき事あらん折は、なかなかそのよしをも言ひてん。同じ心にむかはまほしく思はん人の、つれづれにて、「いましばし、今日は心閑に」など言はんは、この限りにはあらざるべし。阮籍が青き眼、誰もあるべきことなり。そのこととなきに人の来りて、のどかに物語りして帰りぬる、いとよし。又、文も、「久しく聞えさせねば」などばかり言ひおこせたる、いとうれし。

阮籍は、白眼と青眼をつかいわけることができたらしいのだ。厭なやつには白眼視、親友には青い目で出迎えたという。しかし、我々の人間関係というのは、そのどっちでもないことがほとんどであろうから、彼はそのとき一体どのような目をしていたのであろう。実際は、この人のエピソードは知識人達の願望であって、とくに嫌いなやつにむかっては、目を白黒させているのが現実だ。

あるいは、我々の目は、好きな人の目を青く感じることがあろうか。そういえば、そういう気がしないでもない。大概、我々はそういうときに大雨になんかには会っておらず、青空の下、目も少々お互いに青くなっているにちがいない。

我々はそのときに見ている風景が自然に文章に映ることがあるような気がする。このまえ、セリーヌの「虫けらどもをひねりつぶせ」というのを少し読み直したが、セリーヌの周りにどんな部屋の風景が広がっていたのかなんとなく分かる気がするのであった。彼の。。。。で中断されて連続して行く文章が、それが文章ではなく、セリーヌの視覚的ななにものかを示すようだ。わたくしは、二十世紀に深く根をはっていた文章に対する潜在的な強い反発を思わざるを得ない。

本当は、兼好法師もそうにちがいない。親友の言葉はもはや言葉ではなくなっている。解釈が必要なめんどうな言葉から逃げ、静かに寝ていたいのが兼好法師の老いの心であった。

「そして一週間足らずのうちに、私たちは誰もかも、その青い眼に出會ふ機會をもちました。
「私たちはみんな眩暈をもつたのでした。それに違ひはありません。が、私たちはみんなそれを見たのでした。それはすばやく通り過ぎました、廊下の暗い蔭へ、美しい空色の斑點をつくりながら。私たちはぞつとしました、が、誰一人それを尼さんたちに話さうとはしませんでした。
「私たちはそんな恐しい眼をしてゐるのは一體誰なのか知らうとして隨分頭を惱ませました。私たちのうちの誰だつたか覺えてゐませんが、或る一人のものが、それはきつと、まだ私たちの記憶の中にその泣きたくなるまでに抒情的な響が尾を曳いてゐる、あの數日前の角笛の亂吹の眞中になつて通り過ぎた獵人らの中の一人の眼にちがひないといふ意見を述べました。そしてそれにちがひないといふ事に一決いたしました。


――アポリネール「青い目」(堀辰雄訳)


青い目はこういうものもある。彼らは少したつとそれを見る能力を失う。そして、白い楕円のなかの黒丸の動きだけで生きるようになるのである。