
一日のうちに、飲食・便利・睡眠・言語・行歩、止む事を得ずして、多くの時を失ふ。その余りの暇幾ばくならぬうちに、無益の事をなし、無益の事を言ひ、無益の事を思惟して時を移すのみならず、日を消し、月を亘りて、一生を送る、尤も愚かなり。謝霊運は、法華の筆受なりしかども、心、常に風雲の思を観ぜしかば、恵遠、白蓮の交りを許さざりき。暫くもこれなき時は、死人に同じ。光陰何のためにか惜しむとならば、内に思慮なく、外に世事なくして、止まん人は止み、修せん人は修せよとなり。
兼好法師のこの意見を聞いているうちに思ったんだけど、――無駄な時間を過ごすべきでないというなら、その「飲食・便利・睡眠・言語・行歩」などをやめたらいいのではなかろうか。
実際、忙しいオタクのみなさんや研究者は、ほぼこれを省略しつつある人たちがいるのだ。しかし、なぜかよくわからんが、そういう生き方では悟りへの道は開けない。よく食べよく㋒ンチをし、よく眠りしゃべりあるく、これは重要なのだ。兼好法師は健康オタクなのであろう。
とはいえ、隠者である兼好法師はなぜ、こういう下々の無駄な生き方にいまだに文句をつけ「世事」を攻撃しつつあるのであろうか。今日は、授業で、黒船的「外からの批評」の罪について喋ったが、やたら、日本の民衆が分かっていないとインテリ?批判をくり返している論者は、兼好法師のような「世事」から離れよという主張をする者と逆に見えて、表裏一体なのである。その証拠に、大概、世捨て人みたいなタイプこそが、民衆の真実について語りがちである。
免★更◆講習も、内への外からの批評という、思い上がった上の発想から生じた。この場合は、思い上がりと言うより大衆の学校への怨恨を利用したものであったが、――思い上がりというのは、大概、こういう怨恨の昇華に過ぎないからありふれた出来事である。それぞれの学校での先生方はそれぞれの専門性で問題を解決する他ないわけで、外からの攻撃は失礼きわまりなく、容易に行ってはならないことなのである。しかし、こういう禁忌を破ると、逆に「現場は現場でやるしかない」という内発的な観念的反発がつよくなる。無論、それはそれで間違っているのである。領域を強制的にやぶると逆につくってはならない領域が内的に形成されてしまうのであった。
学者が一般に国家政策を忌み嫌っているのと同じで、先生方は、今度は「大学的な知」みたいな仮想に対して反感を抱くようになる。現実には、当事者主義というか、現場主義みたいなものはエゴイスティックにふくれあがっており、国家は今度はそれに媚びなくてはならなくなっている。馬鹿馬鹿しい限りだが、その民衆の味方はせねばならぬみたいな中学生的発想は、大学を民衆に従属させることでなんとか免責を狙っている。現場には現場の論理があるからといって、それを全ての学問をそれに従った形に変形させることなどできない。わかりやすいかたちでそれをやろうとすると、現場は教科書をきちんと理解していればよいみたいな、小学生でも間違いとわかることを実行することになるであろう――というか、なりつつある。なぜ、それがだめかというと、そういう目標で教育をおこなえば、せいぜい六十点ぐらいしか理解できていない状態に現実が落ち着くからである。この六十点というのは、テストでのみ現れる数値であって、大学の目指すある種の知の全体小説性みたいなものとは全く関係がない。実際は、6割ではなく、――もっと何だか分かったような気になるタチの悪い状態である。
というわけで、下手をすると、単なる認識=実力不足のために、教育でもなく支援でもない授業をやりながら、人間の進路などを「お世話をする」(というか強制の場合多し)体の教育現場が出来上がる。
お互いの自由をほっておけない性、――のせいもあろうが、根本は批評とか批判とは何かという哲学の問題である。