
最後に其の妹伊耶那美命、身自ら追ひ来りき。爾くして千引の石を其の黄泉比良坂に引き塞へて、其の石を中に置き、各対ひ立ちて、事戸度す時、伊耶那美命言ひしく、「愛しき我がなせの命、如此為ば、汝の国の人草、一日に千頭絞り殺さむ」といひき。爾くして伊耶那岐命、詔りたまはく、「愛しき我がなに妹の命、汝が然為ば、吾は一日に千五百の産屋を立てむ」とのりたまひき。是を以て一日に必ず千人死に、一日に必ず千五百人生まるるなり。故、其の伊耶那美神の命を号けて黄泉津大神と謂ふ。亦云はく、其の追ひしきしを以て道敷大神と号く。
はじめて国生みをするときに、いい男、いい女といいながら柱をぐるっと廻ったように、ここでは、人間界の死を生むのだ。柱ではなく石を間において、向かいあい、愛する男、愛する女、といいながら、女は死を生み、男は生を生むことにしたのである。ここでも口火をきるのは女で、それをいいことに、男はそんな死の数よりも俺はもっと生んでやるぞ、と言い返すわけである。国生みの時のように、男が先に言うのがいいとか文句を言っておきながら、イザナキはほんとクズ野郎である。
昨今も、てめえが先に言い出すべき所を他人に言わせておいて、それに反論してマウントをとる輩がたくさんいるが、本人はただ気の利かない病人なので気がつかない。イサナキもその類いであろう。考えてみると、見るなと言われたにも関わらず見てしまったこいつは、本当は、その言葉をちゃんと聞いてなかった可能性が高いと思う。
で、この二人が生んだ国では、すっかり死者の数が生まれる数を上回っている。最近は、毎年五十万人減っているそうである。イザナミ強し!
わが故郷、木曽町が毎年五十個分消えていることになる。
「まあ、愚痴をいったってはじまらない。ともかく、よかれあしかれ、この戦争の「意味」もきまった。なんのために死んだかわからずに宙に浮いていた魂も、これでようやく落着くだろう。だから、今年のお盆は、この戦争の何百万人かの犠牲者の新盆だといってもいいわけだ。それできょうはみなに家へ来てもらって大宴会をやるんだ」
「なんですか、大宴会というのは」
「わたしはみなに約束したんだ。戦争がすんだら王朝式の大宴会をやるって。つまり、これからその招待に行くんだ……本式にやれば、提灯をつけて夕方お墓へ迎いに行くんだろうが、みなリーブル・パンスウルだから形式にこだわったりしないだろう。もっとも、間違いのないように名刺は置いてくる」
「でも、降霊術のようなものは、カトリックでは異端なんでしょう」
「どうしてどうして、カトリックの信者ぐらい霊魂いじりのすきな連中はない。故人がうんざりするほど呼びだして、愚問を発して悩ますんだ。一年に一度、迎い火を焚いて霊を待つなんていう優美なもんじゃない。来ないと力ずくでもひっぱりだしかねないんだから」
「では、わたくしもお供しましょうか」
「まあ、やめとけ。死したるものは、その死したるものに葬らせよという聖書の文句は素晴らしいね。昨日わたしはみなの墓を廻ってみたんだけれども、掃除をしてあるのはただの一つもなかった。日本人は戦争で死んだ人間などにかかずらっているひまはないとみえる。それも一つの意見だろうが、死んだやつは間抜け、では、あのひとたちも浮ばれまいと思うよ」
「それで、おけいも呼ばれているのですか」
「君はだんだんフランス人に似てきたね。それも悪いフランス人にさ。そういう質問は、冷酷というよりは無思慮というべきものだよ。おけいさんの遺骨はまだニューギニアにある。これは遠いね。ちょっと迎いに行けないが、おけいさんはきっと来てくれるよ。君のような俗人にはわからないことだ」
「ひどいことをいわれますね」
――久生十蘭「黄泉から」
よくわからんが、確かに我が国はなんとなく死者との対話が足りない気がするのだ。イザナミも岩など乗り越え、イザナキを絞め殺すところから始めた方がよかったのだ。最近は幽霊も出なくなって、我々は思い上がるようになった。