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★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

魂・疫病

2020-03-25 23:49:51 | 文学


 御輿には、宮の宣旨のる。糸毛の御車に、殿の上・少輔の乳母、若宮いだきたてまつりて乗る。大納言・宰相の君、黄金づくりに、次の車に、小少将・宮の内侍、次に、馬の中将と乗りたるを、「わろき人と乗りたり」と思ひたりしこそ、「あなことごとし」と、いとどかかるありさまむつかしう思ひ侍りしか。

いまもそうだが、どの車にどのような席順で乗るかみたいなのに気を遣うというのはある。ただ、こんなのはだれかが理不尽に威張っているとか卑屈になっているということがなければそうは問題にならない。とにかくしっかり仕事仲間を選定することが重要であり、ちょっとでも手続きを省いて手抜きをするとだいたい失敗する。昔も大変だったのだ。

月のくまなきに、「いみじのわざや」と思ひつつ、足を空なり。馬の中将の君をさきにたてたれば、ゆくへもしらずたどたどしきさまこそ、我がうしろを見る人はづかしくも思ひしらるれ。

月の中を足が宙を踏むように進む。確かに、宮仕えというのはこんなときがある。ただ、どんなに魂が宙に浮くようでも、紫式部の自我ははっきりしているようにみえる。彼女は文章の仕事があったし、――自分は気晴らしでやっと生きているみたいな弱々しいことを言っていても、源氏物語を書ける魂が根本的に弱いわけはない。勝手に妄想するに、樋口一葉の百倍ぐらい強いと思われる。

疫病にかかって死ななんだら、今でも売りに往んでいた事であろ。それもよ、この女の売る干魚は、味がよいと云うて、太刀帯どもが、欠かさず菜料に買っていたそうな。わしは、この女のした事が悪いとは思うていぬ。わしは、この女のした事が悪いとは思うていぬ。せねば、饑死をするのじゃて、仕方がなくした事であろ。されば、今また、わしのしていた事も悪い事とは思わぬぞよ。これとてもやはりせねば、饑死をするじゃて、仕方がなくする事じゃわいの。じゃて、その仕方がない事を、よく知っていたこの女は、大方わしのする事も大目に見てくれるであろ。」
 老婆は、大体こんな意味の事を云った。[…]
下人は、饑死をするか盗人になるかに、迷わなかったばかりではない。その時のこの男の心もちから云えば、饑死などと云う事は、ほとんど、考える事さえ出来ないほど、意識の外に追い出されていた。
「きっと、そうか。」


――芥川龍之介「羅生門」


疫病で荒れ果てた世界では、自我はこういう風になってしまうのである。意識はもはや伝染する何者かとなりはてており、「事」が「考えることさえ出来ないほど、意識の外に追い出される」ような現象的なものになっている。散りばめられている動物の表現からして動物的といってもいいが、むしろ、比喩としての動物の撞着現象であるといってよい。

「意味という病」とか「病という意味」とかいろいろと論じられてきたわけだが、病こそが意味を現象に変えると言ってよいであろう。われわれの世界はついにこういう世界に突入しはじめた。