★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

今年も神様強奪祭

2015-07-28 07:11:12 | 神社仏閣


水無神社のお祭りが今年も行われているようである。御神輿を町中担いで歩いた後、転がして壊してしまうお祭りである。かなり重い神輿であり、道が舗装されたために余計破壊音が凶悪なものになったそうである(今私がそうだと思っただけ……)。昔、飛騨に出張していた宗助・幸助という樵が、戦火の混乱で焼けそうになっているお宮からご神体を救い出して木曽まで移動させた際に、追っ手の追撃を逃れるために、面倒だから神輿を木曽側にまくり(方言で、「転がす」の意)落としたという伝説から来ている。実際は単なる勧請だったのかもしれないが、飛騨と木曽の間には、御嶽を中心に険しい山が立ちはだかっており、その地形の事情が実はこの話のきもであることは明らかだと私は思う。すなわち、強奪だったのか勧請だったのかはさほど問題じゃない。そういえば、義仲のからくり峠の戦い的なものを思わせる話でもある。義仲の挿話と似ているからと言うわけでもないが、谷が普段は自分たちを取り囲むものであるのに、谷に何かを落とすという視点の逆転は、何か暴力的なものを感じさせる。木曽人としてわたくしは思うが、どうも、京都とか他の神輿のデコ車のようなハレの雰囲気が微塵もない、このやたら白く重いだけの木曽の神輿は、谷の底の木曽人たちのもがきを示しているような気がする。神輿は、神様でもあり、桎梏としてのお山の象徴でもあったのではなかろうか。だからそれは、敬われつつも転倒され破壊されるのである。
 宗助・幸助の伝説も不思議である。よく分からんが、子どもの頃、この話を聞いた時、宗助・幸助は、はじめから神様を奪い取るために飛騨に行っていたのではなかろうかという疑問を私は持った。要するに、十字軍的ななにかだったかもしれないのだ。日本人が昔から多神教的なちゃらんぽらんさを持っていたとは限らないと思うのである。というか、問題は勧請とか分霊という発想がどの地点で支配的になったかだ。勉強していないので知らないが……、非常に集権的な匂いのする発想である。要するに霊の天下りではないか。……宗助・幸助が樵だったことを考えると、あるいは飛騨の匠関係者のゴタゴタだったのかもしれない。あるいは、宗助・幸助がもともと飛騨の水無神社の宮司だったらどうであろう。飛騨の水無神社は江戸期の大原騒動の件だけでなくいろいろとあったはずであって……。そういえば、藤村の父親も飛騨水無神社の宮司だったと思う。彼の、藤村に受け継がれる妙なポジションは……。

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そういえば、牛丸先生のこの記述だと、誤植かどうかは分からんが、飛騨を「火だ」と言い換えている。成る程、水無神社の「水」と飛騨の「火」の戦いの話と捉えている訳である。火は上に昇るが、水は下に降る。神輿もまくられて下に降ったわけである。木曽川の流れは、蛇抜けでなくとも、普段から、まさに、捲られ降るという感じだ。祝い歌「高い山」に曰く「ドンドドンドと鳴る瀬で落ちる ならの小川の瀬で落ちる」。