
浜田光夫と吉永小百合の「潮騒」を観てなかったので、鑑賞してみた。三島のいう「決して知的な澄み方ではな」い漁師の目をどう表現するかは難しいことだなあ。しかし、たぶん、当時の鑑賞者はそれがどんなものが知っていたはずである。「潮騒」のパロディでもあるところの「あまちゃん」の能年玲奈の方が、当時の吉永小百合より演技は上手いのではないかと思うが、我々がその瞳から受ける感じは、吉永小百合のものとは違って、虚構と現実の皮膜にあり、あるいはどこにもないものにあり、我々は「あまちゃん」を古典主義ともロマン主義のものとも受け取ることが出来ない。
私自身は、「潮騒」の嵐、「あまちゃん」の地震に対する我々の自己回復には、なにかうんざりするものを感じている者である。「その火を飛び越してこい」とか、まったく障碍でも何でもないではないか。既に我々の住んでいる世界は、映画「セブン」のような世界なのではなかろか。罪と罰が外からやってくる世界ではなく、我々の中からやってくる世界である。そこから逃げ出しても、もはや手遅れのような気がする。