★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

ハイデガー・フォーラム観戦記

2011-09-18 23:53:30 | 思想
 

右は、京都駅で買った京都大鼓あんぱん。ゼミ生達にあげよう……

左は、「ハイデガー・フォーラム 第六回大会」の資料など。

二日間のハイデガー・フォーラムが終わった。

登壇したのは、竹内綱史、松井吉康、入不二基義、氣多雅子、山本恵子、村井則夫、須藤訓任、田島正樹の諸氏である。一篇以上は論文を読んだことがある人達だったから、とりあえずどういう風に語る人達なのかという興味においても楽しかった。私は他分野の研究者だからという気楽さが一応あったから、そんな楽しみ方も出来たわけだろう。特に以前『思想』に「存在の呪縛」を書いていた松井氏がいったいどんな人だろうと思っていたのだが、なんとなく発表を聞いて納得した。文学者でもそうだし、西田幾多郎などもそうだが、虚無とか無にこだわるのは別に枯淡的なものとは関係なくて、すごくエネルギーを必要とする。無があるということを言い続けるとなんだか無が無じゃない気がしてくるけれども、言い続けなかったら無は無いことになってしまうのだ。……なんというか、我々の有限を突き抜けるが如き果てしない欲望が必要であるように思われる。私はそういう抽象的な?欲望が二〇世紀以降のニヒリズム一般からでてくる気がしない。ある特殊な現実的な原因がある気がしてしまう。

私の一〇年来の研究もニヒリズムや無をめぐるものである。ニヒリズムや無への関心がいかに文学の「内容」となりうるか、もしかしたら哲学的課題として捉えたとしても文学的に超克可能なのではないかという問題を文学の現場で考えた人間の一群が対象だからだ。その場合、いかにその問題を扱ったかという問いは、何故その問いが生じたかという問いと切り離せないと、文学研究の場合──いい加減だからかも知れないが──考えられている。私も一応そうは考える習慣がある。しかし、どちらかといえば、他の研究者に較べて、「いかにその問題を扱ったか」という把握さえ本当は難しいと考えて論文を書いてきたから、この二日間の発表を私は勝手に共感を持って聞けた。文学の学会で覚える疎外感をここで感じることはなかった(笑)文学研究者は、虚構を扱っている自意識からか、かえって「表象」とか「現実」をなんとなく自明視するタイプがまだ多いが、哲学の人達にとっては、そんなものは全く自明の概念ではない。例えば、氣多氏が扱っていた西田幾多郎の『自覚に於ける直観と反省』以降の、特に歴史的世界に西田の論点が転回していく契機について、つい文学研究者が「そんなもん、マルクス主義者と戦争のせいだわな」とか言ってしまうのを、よく目にするけれども(←よくは目にせんか……)それはあまりにナイーブなものの見方であろう。しかし文学をやっていると、そのナイーブさは、粗雑であるが故に、というか明確でなく何だかわからんが故にそんな作用はありそうだ、と考えてしまいがちである。作品がいかにも「内部」でその「外部」としての現実がある気がするからである。どうも文学研究者には、文学よりもその外部としての現実の方が好きなのではないかという奴が多すぎる。

とはいえ、哲学研究者のなかでも「現実」は概念規定抜きにしても問題なのであろう。松井氏の言う「極限的な無」というのを、現実と捉える人とそうでない人がいたのは、純粋に現実の概念規定に関わる問題だとしても、……それぞれの発表を聞いて感じたのは、哲学の営為が現実(これは常識的な意味での現実だが)といかに関係すべきか、あまり皆口には出さないけれども共通課題と化している気がした。これは寧ろ課題というより恐怖という感じかも知れない。西田やハイデガーがそうだけれども、イデオロギーや同調圧力の中で、哲学が常に正常に?哲学であり得るかどうかは、哲学者にとって恐怖である筈である。我々文学者は、「どうせ文学者はちんぴらだろ、勝手に転向を繰り返すに決まってる」ぐらいに考えているから気が楽だが、哲学者はそうはいかない。だからこそ、今日論じられていた「正義」の問題はやっかいだ。なんというか、本当はみんな、「正義」については論じたくないのではないか、という印象を私は持った。正義は哲学自体がニヒリズムであったことを証明してしまうような気がするからだ。(本当は文学だって同じことである。)

あともう一つ感じたのは、所謂ポストモダン以降の困難である。日本近代文学研究でもそうだが、従来「対立」と見えていたものを、「差異」あるいは「構造の一部」とみなしていくのが、最近の大きな傾向ではないか。私の研究も、考えてみると、そんな傾向の一端を担った側面があった。ニーチェとハイデガーの場合も、それが単純な対立であるとはもはや見なされない。だからといって、構造や差異の戯れが解放にみえた時代は去ったようにも思えるので、なんとかしたい。しかし、うまくいかない。ますます問題は細かく論究されるが、なぜ哲学者(あるいは文学者)が「そうなった」のか、をなかなか説明できた気がしない。

最後の田島氏の発表は、いわば、そんな状態への批判である。田島氏はいきなり「ハイデガーの「ニーチェ」はつまらん」と言った。ニーチェは左翼だが、ハイデガーは右翼であると。前者はルサンチマンを指摘することで我々のなかに「対立」を生じさせるが、ハイデガーは勝手に「本来的」なものを我々に押しつけるが故に。この差異、いや「対立」は彼らの共通性によって消去できるものではないし、相対的に弱まるものでもないというわけであろう。しかし、たぶん、こうした田島氏の言い様を、ハイデガーの影響だと捉える人もいるような気がする。

ちなみに、動く田島氏を見たのも私は初めてだった。壇上で動き回る氏の姿を見て、氏の『正義の哲学』のなかの「私は一人の兵士(ソルジャー)にすぎない」という言葉が頭から離れなかった。氏は、挑発的でパフォーマティブなニーチェをハイデガーに対比させていたが、会場で実際にあったように、ハイデガーもパフォーマティブなのだという反論は常に可能である。本当は田島氏としては、講壇哲学が処世のためのパフォーマンスに明け暮れていることと自らの振る舞いを対比したいところなのではなかろうか。だからパフォーマーではなく「兵士」なのだ。

とにかく面白い二日間であった……。

第6回ハイデガー・フォーラム

2011-09-18 02:22:45 | 思想


昨日から、第6回ハイデガー・フォーラムに参加するために龍谷大学に来ています。統一テーマは「無」。特集として「ニーチェ」。わたくしは日本近代文学の学徒であるが、これは出かけてみなくてならぬということで来ております。感想は後ほど……。

……龍谷大学では、大学祭が近いらしく?、放送部がミスコンテストの司会の練習をしていた。ベンチでサンドウィッチ喰ってたら、いきなり始まったのでびっくりした~(笑)