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★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

天命と英雄

2019-05-05 23:37:18 | 映画


終戦直後に書かれた、小山弘健の資本主義論争の本を読んでいたら、冒頭あたりに、共産党関係者が獄中にあらずとも「非命に仆れ」たとでてきたので、やはりこのあたりでは、死をそんな意識で捉えていたひとがかなり多かったのかもしれないと思った。

我々には天命があるのではなかろうか。

映画の「アイアムアヒーロー」は原作とはかなり異なった物語である。われわれはつい見落としがちであるが、――この映画を撮っている監督である佐藤信介氏は「ガンツ」とか「図書館戦争」の監督であって、名前よりも作品がメジャーな人である。「アイアムアーヒーロー」は日本では珍しいハリウッドみたいなゾンビ映画であり、カーアクションもハリウッドや韓国映画を思わせる(よく知らんけど)。作者の死を地でいくと、こういうことになりかねない(知らんけど)

主役は、大泉洋とか有村架純とか長澤まさみとかである。大泉洋はかなりのイケメンであるとわたくしはおもうのであるが、美女二人を守るために、怖じ気づく性格(売れないマンガ家←彼らに失礼な設定だと思う)を乗り越えて、襲いかかるゾンビを皆殺しにする、という映画である。有村架純は、ゾンビに噛まれているので、半分ゾンビになりかけているが、それでも可愛いということで大泉洋が銃刀法を破ってぶっ放し続けるのである。

わたくしは、原作を裏切って、半分ゾンビになった有村架純がゾンビとして覚醒し、大泉洋を助けて大暴れするのかと思っていたが、まったくそんなことはなく、有村架純は最後までへなっとしている。本当は、ただへなっとしている人は唯のお荷物なので、介護要員として登場するのが長澤まさみである。長澤まさみは、この映画を訴えていいと思う。

大泉洋は、最後に、自分の名前「鈴木英雄」――を長澤まさみに伝える。で、画面一杯に「IAMAHERO」とでて終わり。

大量殺人をやらかしてまで自分のアイデンティティを確認しなければならないのはきつすぎる。

最近、映画の世界を征服しつつあるアメリカンコミックスの最初あたりの「アイアンマン」では、主人公が記者会見で「私がアイアンマンだ」と告白して終わっていたが、これは自分の正体がばれてもアイアンマンであり続けようとする、資本家の社会的責任みたいな話であって、むしろ彼にはこれからゾンビみたいな大衆との闘いが待っているのであった。一連のアメリカンコミックスの映画は、このあと、ヒーローたちが乱立する偏執狂的な「社会映画」に向かっている。美少女を助けて殺人をおこなってまで自分を確認する、そんな地点で戦っている「アイアムアヒーロー」とは大きく違う。原作でもそうだったが、主人公はちょっと気を抜くとゾンビたちの群れに同化してしまいそうになる。

なぜ、自分が自分であることを自明の理として乗り越えられないのか。天はどこにもないから、天命は却って無根拠なアイデンティティを作り上げるのに観念として向いていたのかもしれない。

最悪なのは、ミッションとか言っている連中である。

A2

2019-02-22 23:25:21 | 映画


「A2」は、前作よりも評判がよいのだが、たしかに実際に見てみると、ある意味で〈楽しい〉作品になっているからであろうと思った。オウムが各地で住民から退去運動を起こされている様を描いたのがこのドキュメンタリーで、その様子は一様ではない。なかには、オウムが住むバラックの隣に反対運動の拠点をつくったら、そこが地域住民の交流の場になってしまい、それどころかオウムの青年と仲良くなってしまって、みたいな場面が描かれている。また、これは私の地元に近い施設での話だが、信者同士の監禁事件が起こって、よくよく話を聞いてみると、かなり心を病んでいる信者を自殺させないためにあーだこーだやってたらそういうことになってしまったという……。――事件から時間がたつなか、そもそも我々の日常というのは、新興宗教の内部でさえ、さまざまな感情が存在するということが分かってみていて〈楽しい〉のである。

もっとも、わたくしはメディアの文章も映像もほとんど信用していないが、ドキュメンタリーのそれも信用していない。ただ、どちらも問題提起をしているのだと思っているのである。(前者はそんな機能すらなくしているので、ひでえなあと思う。ネットニュースにいちいち反応することはそういう意味で危険である。)大学の時に、映像作品をつくる授業があって、そのときの印象でしかないが、ビデオというものの(比喩的ではない)視野の狭さというのは非常にものすごいもので、これで認識を語るということの危険性は明らかだ。それでいうと、森氏のその場の空気まで切り取ってしまうセンスが尋常のものではないことはわかる。氏の文章もそういうところがあるが、言葉で視野の広がりを表現できてしまうのは、藤村とか志賀直哉のたぐいの才能だと思う。文章の論理に注目しすぎると、こういう自明の理が分からなくなるのである。

それはともかく、言い方が難しいのだが、マイノリティーも少人数のコミュニティの一部であったら共生が容易であることもあるというのは、社会学などが言うとおりなのかもしれない。村八分みたいなことを多く目撃してきたわたくしにとっては、ちょっとわたくしは懐疑的な見方であるのだが……。このドキュメンタリーを見た限りでは、受けいれやすいキャラクターのオウム信者もいれば、そうでもない人もおり、それも受けいれる側の人たちの性格にも拠り、宗教団体には当然、病人を受け入れている側面もあり……という当然のことを思い出すことが必要だということであろう。

さっきたまたまみたNHKの番組で、心おだやかにくらすために、座禅を組んだり背筋を伸ばしたりみたいな番組をやっていたが、――世の中の糞さが原因なのにこういうことをやった結果、真面目な人のなかには、オウムみたいなところに行く人たちが出てくるのも理解できる。理解できるだけで、実際のところはよくわからないのであるが。宮台真司が言うように、自己啓発セミナー的なものとつながっていることもわかるのであるが、どうもわたくしは実感がない。吉本隆明の仏教的解説はもっとわからなかったが……

……以上は、わたくしならいつも抱く感想の類いであるが、わたくしがこのドキュメンタリーで一番面白かったのは、右翼の人たちなのである。この人たちは、オウムにでてけと言っても無駄である、賠償をちゃんとしろと言い続けるしかないのだ、直接俺が言って話つけてきたるわ、という感じで当然、警察官の皆さんに阻まれるのであった。まだまだ世の中知らないことだらけである。

そういえば、「オウムはデテケー」の演説をしてデモ隊を率いている人のなかには、明らかに昔学生運動で演説していたとおぼしき人たちがいたようだ。どうも口調が……それらしかった。

まあ、こういう作品をみると、「テロは瞬間だ。世界のしくみを一瞬だけ照らすのだ」とかいう思想が一部分しか当たっていないことは明らかだと思われる。前作みたいなテロ事件直後では、むしろ見えなくなってしまう部分が多いことが明らかである。オウム事件や、9・11によって、我々が視野狭窄に陥ったのがその証拠だ。

闘争の色と声

2019-01-13 23:09:33 | 映画


時間があるときに、小川プロダクションの『三里塚』シリーズを観ているが、白黒映画とカラー映画が混ざるので、この違いについて注意しながら考えている。あと、声ね……。甲高いおばちゃんたちの方言むき出しの声が印象的であるが、戦争をくぐり抜け開拓をし夫の横暴に耐えてきた(みたいに描かれている)この人たちの存在はこのドキュメンタリーの中ではかなり大きいように思われた。このドキュメンタリーは、学生たちや農民たちが対位法のように扱われ、おばちゃんたちもその一部であり、――音楽の使い方からみても、一種の交響曲のようにつくられている。ゆえに、実際の運動においてどうだったかは慎重に考えなくてはならないが……。このことの意味については別に論じるとしても――、これを戦後のフェミニズムがどう捉えたのか、ちょっと考えさせられる。

一老櫻の側に、『牝馬吾妻之塚』と題する木標立てり。其の木標は新らしくして、この頃建てられたるものと見ゆるが、裏面には、明治九年に死せる由を記せり。舊墓標朽ちて更に新たに建てられたるにや。


――大町桂月「三里塚の桜」

タクシー運転手と波止場

2018-12-27 19:49:58 | 映画


『タクシー運転手』は光州事件を描いた非常によくできたエンターテインメントで、前にも韓国の学生運動の映画に対して述べたが――、これは「革命神話」作りなのであり、独立国家のためには非常に重要な要件なのだ。韓国は映画作りに於いて着々とその過程を踏んでいるようにみえる。むろん現実にはいろいろとあったに違いなく、ハリウッド映画のレジスタンスものがそうであるように、欺瞞とは隣り合わせである。しかし、問題は現実に志があった人間がいたかどうかなのである。思想があったかどうかと言い換えても良いが、スターリン批判などをやっているうちに隘路に陥っている人間が多すぎた。思想上の人格を自分の私性とどうしても分離できなかった人々は、親子関係みたいな事柄に問題の根本を移すしかなくなるのである。親子の絆云々の泥沼にわれわれが墜ちたのは、ハリウッド映画の洗脳だけによるのではない。

『タクシー運転手』でも、親子関係は重要であった。光州事件に遭遇しても母親をなくし自分しか頼る者のいない娘のいるソウルに彼は帰らなければならなかったからである。それが最終的に、政治的倫理と不可分に描かれているところが面白い。最後、運転手の主人公が、光州事件の時にともに現場から脱出した乗客(ドイツ人ジャーナリスト)と、彼が後に有名になってもパーソナルな関係を結ばなかったのは、娘を社会から守るだけじゃなく、事件の英雄になりうる自分の当事者性に疑念があったからであろう。彼は光州事件にただ金儲けのために遭遇しただけに過ぎず、同業者の犠牲によって生き延びただけだったからだ。しかし、彼はタクシー運転手として抵抗運動に荷担した。その自負が、かれを現在に至るまでタクシー運転手を続けさせている。運転手は、客のプライベートと関係を持ったりはしない。が、それこそが彼が英雄であることの証明なのである。――名乗らないけれども、このような庶民の中に軍事政権を追い詰めた当事者たちがいることを示すのが、この映画のイデオロギーだとしても、神話は上のような整合性のもとにしか成立していない。

思うに、われわれは、『古事記』の時代から、神話はなにかおおざっぱでいいと思っている節がある。これではいけないのではないかとおもう。(なぜわたくしがいつのまにか国民国家論者にっ。)明治維新の物語が沢山作られているが、どうも物語に浅ましさがつきまとう。たぶん、現実が浅ましかったからだろう。

園聆治の「波止場の愛情」(『コギト』昭7)を昨日読んだのだが、――『タクシー運転手』が、光州とソウルを往復する移動の物語であるのはいいとして、それがひたすら陸地であるのは案外面白かった。やはり韓国は国境線が陸地にある大陸の国家なのである。ある意味、事態を変えなければ逃げ場がないのだ。「波止場の愛情」の主人公は画家志望で中途半端に結婚してしまい、倦怠感に悩まされている。で、友だちと一緒に船に乗って気分転換。トランプをやっているうちに妻が気分が悪くなって優しくしているうちに「これでよし」とか思う。それだけの話であるが、それが船の上であることがなんとなく私には不安であった。そういえば「舞姫」も「第七夜」も船の上であった。陸に上がると不安もなくなるがわれわれは同時にだめにもなる。鯨の食文化なんてどうせないようなもんだが、鯨と仲良くしたいというところだろう。戦艦大和もでかい鯨みたいなものだった。潜ったし。

超ポリコレ映画――ジュラシック・エクスペディション

2018-12-22 23:44:33 | 映画


「ジュラシック・エクスペディション」を観たのだが、これがなかなかの傑作であった。一般常識からいうと、とんでもないB級映画であることは明らかで、ネットでは「映画学校の学生でももっとうまくやるのでは」とか書かれていたが、確かにそうかもしれない。

しかし、わたくしは、とりあえず作品をとんでもなく褒めてみるというところから始める男である。

この映画は、これからのトレンドである「脱欲望」の映画である。

冒頭部分、「スタ-ウォーズ」よりも矮小で「レッド・ドワーフ」のそれよりも軽そうな宇宙船が宇宙を飛んで行くシーンから始まるのであるが、とにかくシーンの作り方に快感がない。そして、なんの変哲もない「題字」。

で、宇宙船の中では何が行われているかというと、中途半端なひげ面男と微妙な美人のベッドシーン。これが、二村ヒトシ(『欲望会議』)のいうところの、今はやりの実用的ザッピング●ッ★◎シーンかと思ったが、ザッピングにもなっていないのだ、途中で柔道シーンに見えてくるのだから。で、事を済ませた後よく見たら、女性が予想を超えて美人ではない。

なぜか、ある惑星に調査のために送り込まれるそのひげ男。着いてみると、どうみても地球である(たぶん、地球で撮影されたなっ)。しかも、砂漠地帯の割には、向こう側のアルプス山脈みたいな山々が妙に綺麗。これは案外、傑作なのでは思い、筋がクソでも買う価値があるのではと錯覚しそうになった。なにしろ、スターウォーズにしろ、スタートレックやゴジラにしろ、美しい風景はあるが、案外美しい山脈が描かれないのだ。ニッチなところついたすばらしい映画だ。――それはともかく、突然巨大な恐竜の石化した物体を発見。で、地震とかがある。巨大ミミズが地面から出てきた(が、以降消息不明)。で、気がつくと、砂漠で擬態化している恐竜が突然襲ってくるのである。その恐竜と言えば、ジュラシックパークででてきた小さな肉食恐竜に襟巻きをつけて、頭部をエイリアン風にした妙な人たち。しかのみならず、この惑星の水を飲むと人間は発狂してしまうのだ。で、……

草薙大佐にちょっとポテチを多く食わせたかんじの微妙な美人のアンドロイドとひげ男が頑張って惑星調査を完遂しようとするが、案外あっさりとアンドロイドを助けてひげ男の方が殺されてしまい、ラスト一分で急に主役交代。アンドロイドと恐竜の対決だ!







対決せず終わり。







なんか微妙な大音量のロックロールが鳴り響く中エンドロール。

つまり、この映画は、すべての要素が回収されずに、まさにポストモダン的に「脱臼」や「宙づり」で出来ているようにみえる。しかし、テーマは明らかで、優秀なアンドロイド(AI)がトラウマをかかえるひげ男を癒やして人間化させる愛を描いたものである。つまり、AI讃歌、癒やせよ乙女的「絆」みたいな愛の讃美、これからの介護や治療の可能性を称揚した作品なのだ。人間同士の性行為はもう時代遅れた。ジェラシックパークの殺戮で興奮するのは変態だ。美少女をだして戦わせるのもけしからん。宇宙船がかっこいいとか、男根主義のマッチョイズムだ。美男美女とかが時代遅れだ。この映画に、セクサロイドとかを期待したそこのあなた、速やかに呪われよ。

――まさにそれは超ポリコレ映画であった。「超」ポリコレではなく。

暖冬下の雑感2

2018-12-21 23:44:03 | 映画


・「ジュラシック・エクスペディション」という映画を観ようと思っているのであるが、たぶん、クソ映画であろう。考えてみると、金をかければ「ジュラシック・パーク」ぐらいの品格は出るとか考えてしまうわれわれに天罰はそろそろくだるであろう。

・学生のレポートなどを見ていたら、もう既に天罰は下っていると思った。

・熊野純彦氏の生産力をわたくしに装備したい。

・『3月のライオン』はいつ終わるのか。もういっそのこと、全員インフエンザで入院とかで終了でいいや……。

・ネルソンスのショスタコーヴィチの四番を聴いて村田沙耶香を読んでみた。別に認識の変化なし。

・最近の大塚英志氏の仕事はまるでわたくしの頭のいい別人格がやっているようだ。――ほぼわたくしとは別人だ。すなわちわたくしとは別人だ。

・NHKスペシャルの「大アマゾン 最後の秘境」の再放送をみたが、頑張んなきゃと思う。

彼らは原風景をめざす

2018-12-12 22:10:23 | 映画


園子温は、「地獄でなぜ悪い」以降、量産体制に入ったと誰かが言っていたので、なぜかあまりに観る気になれなかった。学者でも、そういうときに自分の仕事がどのレベルなのか訳が分からなくなるときがあり、どちらかというと、観るのが怖かったのである。

「恋の罪」「ヒミズ」「冷たい熱帯魚」、いずれもすばらしかったので、余計恐ろしかったのである。

先日「ラブ&ピース」(2015)を観てみたら、これが結構良かった。特に感心したのは、音楽の使い方で、これは授業で喋ってみるつもり。

観始めて五分ぐらいで気づいたのであるが、主人公が長谷川博巳であった。この俳優を憶えたのは「夏目漱石の妻」であるが、すごく上手いと思った。俳優ってすごいなあ……

脚本は園子温がかなり若いときに書いたもののようである。ロックンローラーを目指す青年は仮面で?サラリーマンをやっているが、酷い扱いを受けている。彼はぼろい下宿でうつらうつらしているが、「朝まで生テレビ」で自分への批判を言われていると錯覚するほどに追い詰められている。この番組に出ているのが、田原総一朗をはじめ、脳学者の茂木氏や宮台真司、津田大介がいて、もっともらしいことを言っている。宮台など、主人公を「あり得ないですね。国辱です」とかなんとか言っている。彼が会社のビルの屋上で亀を買う。亀をつかって人生ゲームなどをやったりしながら、自分が2020年五輪会場でコンサートをうつ夢をみたりする。それから主人公は本当にロックスターになったりするが、なんだかんだあって、栄光の頂点で結局この下宿に帰ってくることになる。惨めな時代は、社会的な自分が仮の姿で真の自分が隠れているような気がしているのだが、結局成功しても同じなのである。西田敏行演じるサンタクロ-スは、捨てられたペットや人形を、下水道の隠れ家で綺麗にしてクリスマスに配っているらしいのだが、彼らはたぶんまた捨てられるであろう。愛は、下宿や下水道の中にしかない。

はじめ、「バットマン・リターンズ」みたいな映画だなと思ったが、少し違う。われわれの文化では、社会への絶望が深いせいか、主人公たちは自分の原風景のなかに帰って行く。

返せ

2018-12-11 23:21:06 | 映画
『ゴジラ2: キング・オブ・ザ・モンスターズ』 予告編2 (2019年)


おれたちのかわいい怪獣を返せ

功名をするためでもなければ、主君のためでもなかった。一途に恩を返すことを念としたのである。(菊池寛「恩を返す話」)

恩を返そうとするのはいいのである。ゴジラはだめだ。と思ったが、キングギドラの方が愛国心に関係あることをわたくしは今発見したぞ。

武富健治の『鈴木先生』というのを少し読んだが、やっぱり学校世界は酷い世界だな……と思わざるをえない。ここには恩を返すといった観念がない。みんなそれぞれに労働しているだけである。こんなところにいれば、世の中には崇高さや楽しさがあると考える人が多く出てくるのも分かる気がする。われわれはそろそろ、呪術的世界を否定できる情況に足を踏み入れたのかもしれない。

とすると――、やっぱりゴジラやキングギドラはいらんわ。アメリカにあげてもいいです。


ヒーローと反乱者

2018-12-01 23:12:25 | 映画


スピンオフ的なアニメーションをちゃんと観ているわけではないが、『スターウォーズ』には人並みに興味があって、最近、『ハン・ソロ』と『ローグ・ワン』をみてみた。

『ローグ・ワン』の方ができが良かったように思えたが、アメリカ映画にはよくある、「英雄と反乱者」の対立がここにもみられたのが興味深かった。この二者はお互いに一者となることも、対立者となることもある。お互いに従属関係になることもある。ハン・ソロは英雄であり反逆者である(この前息子に殺されたけど)。ローグ・ワン(反乱者たち)は反逆者であり英雄誕生の土台をつくる名もなき英雄である。

日本の社の伝説にある、為政者に惨殺される英雄たちの静寂への回帰に対して、これらの英雄たちは動乱の媒介者であり、おそらく、この調子では、トランプやブッシュさえもそういうものである(べきだと思われている)。おそらく勝者の特徴なのであろうが、彼らを良き死に送り返すことに成功した、あるいは成功しようとする執念においてわれわれとは桁が違う。そして、それは熱情に回収されない物語の冷静さでもあるのだ。

そう考えてみると、希望への媒介者として『ローグ・ワン』の制作は、歴史の必然として行われているのだと思われた。

卓球映画「ミックス。」

2018-11-02 19:10:04 | 映画


「ミックス。」という卓球映画をご飯を食べながら観た。卓球は――私は父が卓球の選手みたいな感じだったので一応ニュースでも気になる。私自身と言えば、町の卓球大会に出たことはあるが、そのときほとんどはじめて卓球をやった。高校の時にも授業でやった気がする。

https://number.bunshun.jp/articles/-/832374

ここにも引用されていたが、マルコム・グラッドウェルが言っているように、何でもぬきんでた存在になるためには1万時間の投下が必要だ。わたくしは大したあれではないが、どうみてもそのくらいは必要な気がする。たぶんこれは真実である。

今の学生をみてると、徐々に上の真実に気づき始めているような気がする。主体的であればこそだ~、要領よくやれば~なんて考えているのは、生活の心地よさに一時期酔っ払ったわれわれ近辺の世代の一部のデマだったのではないか。上の映画でも主人たちをコーチする中国人のペアが「中国が卓球世界一の理由は簡単だ。世界一厳しい練習をしてるからだっ」と言うが、たぶんその通りである。根性論を批判するのは結構であるが、誰もサボってもいいとは言うとらんわ。

楽しい感じの映画で、しかも、新垣結衣、瑛太、広末涼子、瀬戸康史、永野芽郁、佐野勇斗、蒼井優、田中美佐子、遠藤憲一、小日向文世、山口紗弥加、真木よう子、中村アン、トレンディエンジェルのあの人、といった派手なキャストで、しかのみならず、最近台頭してきた若手の卓球選手が実際に出てくる。2020に向けての国策映画かと一瞬思ってしまうほどであった。

この映画では、混合ダブルスのペアが実際のカップルになっていた。確かに、混合ダブルスというのはなんだかみてて恥ずかしい感じが昔からしていた。ピアノだと男女の連弾みたいな感じである。スポーツは実際、社会の縮図みたいなところがあって、だから体育会系が重宝されるのもわかるのであるが、カップルの意味もこういうスポーツ映画で再考されてくる可能性はある。ある意味で、「ドカベン」や「巨人の星」といった勝利至上主義が崩壊させたものの復活である。

「闘いの真実」の上演

2018-10-11 23:40:27 | 映画


近くの映画館で「1987、ある闘いの真実」を観てきた。韓国映画である。

われわれは忘れがちであるが、韓国はついこの前まで軍政であって、民主化運動は軍事政権と戦わなくてはならなかった。学生時代、韓国人の知り合いには徴兵制度や、全斗煥時代の話を良く聞いたが、こちらは韓国の歴史を殆ど何も知らずにそれを聞いているのであまり実感がなかった。体感であるが、われわれ以降の世代の中国や韓国の歴史に対する無知はちょっとひどい。これでグローバリズムも何もあったもんじゃないし、まず戦争責任やらの問題を積み残している(というより、この問題はどこの国でも消える事は絶対にない。そういうもんなのである。)くせに、あまりに関係国の事を忘却しすぎなのである。これではさすがに現実的にまずいのではないか。

今回の映画は、1987年の民主化運動(というより革命的騒乱)を描いたもので、この前やってた光州事件のタクシーの運転手の主人公映画(題名忘却)の続編みたいに観ると面白いのでなかろうか。全斗煥時代の一人のソウル大生の拷問死が引き起こした運動が話の中心だが、当時韓国は完全な統制報道なので、拷問死が報道される事自体に大変な困難を伴うのである。だから、検死をした医者、手続きに執心する検事や、兄弟を学生運動でなくした看守、教会の神父や寺院の僧に至るまで、自分の権限を逆手にとったりしながら、徐々に世間に真実を流出させてゆく。面白いのは、彼らが殆ど法に触れずに自分の仕事をきちんとしながらぎりぎりのことをやっているということである。故に逆に権力の側は、不法な手法に手を染め続けるしかなくなって行く。日本ではおそらく、こんな権力の統制も効いていないが自分の仕事を厳格にやるわけでもないので、なんとなく不正がだらだらと社会全体を環流し続けていることになるわけだ。

この映画を締めているのは、反共部隊のリーダーである男(パク所長)である。彼は脱北者で、共産主義政権に家族を虐殺された過去を持つ鬼のような愛国者である。彼も彼の職責を完璧に果たす。日本の自称右がだめなのは、こういう雰囲気がみじんもないところだ。

韓国映画をそんなに観ているわけではないが、デモのシーンなどを描かせるとすごくいつもうまい。シーン自体もうまいが、そこに持って行く盛り上げ方がうまい。今回も――、最初は、パク所長とチェ検事の一騎打ちという感じで、ほとんど暗黒小説の趣である。実にマッチョで男臭く気取っているのである。民主化のリーダー(キム・ジョムナム)を守ろうとする男はださくても男気のあるタイプであるし、メディアの連中も一昔前の日本の新聞記者みたいな描かれ方で、「最高の絵を撮ってこい。撮るか死ぬかだ」みたいなノリなのだ。――確かにここまでは面白いけれども制度内での膠着状態が感じられる。しかしながら、中盤以降、八〇年代のファッションを身にまとった(ここは日本の流行と同じ感じだから妙なリアリティがあるが)大学生の男女が登場し、最後のトリガーをひくことになる訳である。女の子の方は、キム・ジョムナムに手紙を運搬したりと影では大活躍しているのであるが、運動に主体的に参加しているわけではなかった。しかし、男子学生が催涙弾で死んだ報道をみた女の子が悲しみのあまり走り続け、ついにデモ隊の中心に加わるところでクライマックスがくる。最後のデモのシーンは、まるでミュージカル映画「レ・ミゼラブル」の最後みたいでドラマチックすぎると思えた(と同時に、1987年の騒乱自らが何を見出しているのかが明らかである)が、いずれにせよ、最後の女の子の駆けてゆく感じがすごくデモの高揚感に非人間的なスピードと人間的な感情をあたえている。

と、かように解すると堅いのであるが、――あからさまに言えば、この女の子に、今売り出し中の「キム・テリ」というびっくりするほどの美少女を使っているので、あざとさを感じる暇もないっ

この映画は、ほぼ史実を描いているようなのだが、パンフレットの監督のインタビューによると、この事件にふれることはかなりタブー化されていたようだ。なぜだろう。日本では、最近1968ものみたいな本が寧ろ流行している気がするくらい、――やっぱり彼らは墓にまでもってくつもりはなかった、という感じであるが――。それはともかく、現実にはいろいろ語りにくい様々な事情があるのであろう。だから、この映画も当時の分析というよりも、現在の〈希望みたいなもの〉の表現なのだろうと思う。案外、日本と同様、真実を明らかにするということが民主主義の肝であることが忘れ去られ、表面の政治的対立のなかで情報操作に明け暮れるていたらくになっているのではなかろうか。そして、韓国も日本も、三十年、四十年前の動乱を再現する条件はいろいろな意味で失われつつある。むろん、韓国と日本の違いは大きいが、やはり似たところに困難があることも忘れるべきでないような気がするのであった。

高嶺的・猟奇的

2018-09-15 19:19:16 | 映画


先週はちょっと寝床から起き上がれない状態だったのでテレビなぞを見てしまったのであるが、――石原さとみ主演の「高嶺の花」というドラマがネットでさんざ悪口を言われているようだったのでかわいそうで録画を一気にみてみた。面白かった。

石原さとみは華道の天才だが、「もう一人の自分」とやらが見えなくなってスランプである。どうやらその「もう一人」とは、それまで華道をやっていた人格らしいのだが、婚約者に結婚式をドタキャンされたこともあり、彼女はドツボにはまっていた。とはいえ、実はそれは家元(父)が仕組んだ罠だったのである。その月島流という流派は、「たゆたう光と影」を目指すもので、光と影という分裂をかかえる者のみが成し遂げられる芸術なのであった。――ということになっており、石原さとみも、そこらの自転車屋のにいちゃんをもてあそぶ(自分がやられてた、結婚式ドタキャンをする)ことによって、罪の意識を獲得して、といった行動でその光と影を獲得しようとするのであった。で、才能はいまいちの妹や、京都の有名な流派の家元の愛人の子どもなどをまきこんでなんやかんやと騒動がある(めんどくさいので詳細は省く)。

で、結局、石原さとみの葛藤の原因は、上の無理のある「混沌作り」にくわえて、本当の自分が隠蔽されていたからであった。実は、彼女は家元の娘じゃなくて、母親がおつきの運転手と浮気したときの子どもだったのである。しかも、運転手は家元の指示でそうしてた。がっ、途中で本気で惚れてもいた。というわけで、最初は人為的につくられた恋であっても、途中で本気になってしまった恋(つまり父親と母親の恋=自分)を全面肯定して、――自転車屋のにいちゃんと結婚するのであった。本当の彼女は、才能的にも、母親系のもので、「たゆたう光と影」ではなく「私はお花」という、暗喩ではなく直喩の――テーマを得意とするものであって、そんな感じで作ったら、京都の有名な流派の若き家元も仰天するほどのできばえ。彼女は月島流を離脱して独立し、そのまま、ドラマはハッピーエンドに雪崩れ込む。

一応、芸術家石原さとみを中心に物語をおおざっぱにいうとこんなかんじであるが、その他、引きこもり+ドメスティックバイオレンスの中学生が、自転車屋のにいちゃんからラインでアドバイスを受けながら自転車で旅に出て、優しくなって帰ってくるというサブストーリーがあったりと、そもそも、自転車屋のにいちゃんもほぼ主人公の扱いなのである。

石原さとみも最後に言っていたように、自分の流派を立ち上げる茨の道であっても、支えになる人がいれば……、みたいな気持ちが、芸術家の物語と自転車のにいちゃんの存在意義を統一する。

たぶん、このドラマの根本的な不評の原因は、自転車のにいちゃんが「高嶺の花」をひたすら支えているばかりだからである。つまり、この話はラブストーリーではなくて、星飛雄馬とお姉さんのお話であって、しかも男女の関係は逆転している。自転車屋さんのにいちゃんみたいな存在がありうるのか、我々は確信を持てない。ドラマの中でもなぜそうありうるのか説明はなかった。

あと、暗喩と直喩のどっちが過激かという議論があるように、「私はお花」がすばらしく思えるのは一瞬だけであり、これは、「私は月島流」と同じことになる可能性はあるし、「私はキリスト」みたいなニーチェ的黄昏に突入することだってある。石原さとみを待っているのは、これまでのような鬱ではなく、本物の発狂である。わたくしは、本当はいまわれわれの直面しているのはこういう発狂であり、カウンセラーみたいな自転車屋さんの存在ではどうにもならないと思っている。しかも、カウンセラー役をやらされている人間が、もはやその役に疲弊しまくってしまったというのが現実である。

昨日、「猟奇的な彼女」が深夜やってたみたいだけど、わたくしはやっぱりこっちの方が好きだ。この映画も、恋人との強制的な別れ(死別)を経験した女の子が、作為的な恋愛を自分に課しているうちに、だんだんと回復してゆく話である。しかし、これが病を感じさせないのは、主人公の女の子が電車の中でゲロを吐くところから始まっているからである。で、観る者は、ゲロを吐く女に徐々に惚れていく過程を経る。しかし、石原さとみは最初から最後までとても美しく撮られているので、観る者に心理的変化を与えていないのであった。

GOのあと

2018-08-09 23:20:27 | 映画


「GO」とは、金城一紀の小説で、映画にもなった(2001)が、わたくしは残念ながら、さいきんまで「GTO」と混同していたため観ていなかった。


「GTO」は、もと暴走族のにいちゃんが高校の先生?になってなんとやらという、いつもの、勉強のできない方々の夢を描いた作品で、原作ではたしか主人公の童貞設定までくっついており、勉強もできずコミュ力もない方の夢もかなえようという作品であった。

ちなみに、わたくしはこのG★Oも観ていない。さっきウィキペディアで調べて知ったかしているのである。しかし、この作品にでていた反町某とヒロインの松嶋某がリアルに結婚してしまったのは知っている。

世の哀れな勉強=コミュ力不足の方々を尻目に、イケメンと美女はそんな感じで幸せになっていくのであった。

という訳で、「GO」は全く異なる作品であり、研究者にも一種のはやりの分野に適合する作品として論じられることもあるが、作品自体は結構面白い。映画も思っていたよりも面白かった。デビュー当時の窪塚洋介というのは怪しいアウラの塊のような感じで、「池袋ウエストなんとか」や「凶器の桜」とかが面白かったのは彼のおかげである。最近の「沈黙」も彼がいたから傑作になっているようなものである。

いま「GO」をみると、0年代にちょっと容易に乗り越えた問題が最近になって回帰してしまった感がある。主人公のコリアン・ジャパニーズの少年は最初はただひたすら暴れている。映画は実は、この前半が面白い。山本太郎や新井浩文と一緒に警察に追いかけられるシーンとかがとてもいい。「パッチギ!」をポップにした趣だ。しかし、朝鮮学校から日本の高校に入った主人公が、シェイクスピアの恋愛小説なんかを読み、――ちょっとお金持ちの「日本人?」柴咲コウと恋愛関係に陥り、自分の国籍や自分とは何かみたいな問いのなかに置かれ始めると急に時間がよどみ始める。最後は、「いや、俺は俺であることすら捨ててやる!クエスチョンだ!ハテナマークだよ!」と叫ぶ主人公が描かれて、柴咲コウも差別を乗り越える。しかし、この物語を経験する観客は――おそらく、潜在的に、前半への回帰を望んでいる。なぜなら、解放と恋愛の甘さはあるが、ある種の強さがそこには感じられないからである。

似たようなことは、「池袋ウエストなんとか」を観たときにも思ったことだ。おそらく、この種の0年代の弱さが今に至るごたごたを生んでいる。思想の強度などと、容易なことを口走るべきではなかった。我々は、常にもっと本質的な弱さに復讐される。

灼熱連休1

2018-07-14 23:44:22 | 映画


リバー・フェニックス(すごく色っぽい)がでている「旅立ちの日」を観てみたが、この話はちょうどわたくしぐらいの世代の話であった。この話は、七〇年ぐらいに武装闘争をやってFBIから逃げつづけている両親の間に生まれた子どもたちが、自立するというのはどういうことか、がテーマである。世間的なものからある種の過激な自立を行ったものの内部が絆や規律で縛られているのは、連合赤軍やオウムをみりゃわかる――みなくてもわかるけど、その中で自立するのは、世間に帰ることのなのか、否か。

われわれの世代は、団塊の世代の親をもって、上の課題につきあう者も多かったはずだ。

1、もっと自立してやるぜ→①日本から飛び出るぜ→①グローバル人材(インテリもしくは落ちこぼれ)→①挫折してネトウヨ、或いは自民党から出馬
                       →②ポストコロニアルだぜ(亜インテリ的出世主義)例・英文学者とか文化研究                            
    
            →②日本で更に潜伏だ→①実存主義的(内気なインテリ)→①調べ物しているうちにネトウヨに
                                      →②日本文学研究→①就職難しだががんばる
                                               ②がんばれない→ネトウヨに 
                      →②アニメ耽溺的(内気な……)
                      →③日本すばらしいに目覚める→①伝統芸能復興だぜ
                                    →②ネトウヨ
                                    →③民進党から出馬

            →③やっぱり運動だぜ→①フェミニズム
                      →②エコとか自然食品とか
                      →③宗教
            
            →④親と仲良く自立できず
        
2、自立はつらいやめます→①親と仲良く自立せず→①実存主義的(内気なインテリ)
                       →②アニメ耽溺的(内気な……)
             
            →②日本すばらしいに目覚める→①アニメ耽溺
                          →②伝統芸能復興だぜ

            →③普通になろう→①本当に普通になる
                    →②普通になる能力がなかった

3、自立って何?

場合分けを、自分の周辺を基に考えてみたがばかばかしくなってきたのでやめる。どうなったとしても、時間をかければ同じようなところに行ってしまったり、違う場所に思いもかけずたどり着いてしまうのが、人生なのであろう。「旅立ちの日」だと、母親がテロリズムに走る前にあった人生プラン――音楽家になる夢――を、息子のリバー・フェニックスが引き継いでしまい、彼は、家族からも自立する結末となる。人に頼らない人生をつくるという意味では、親から自立したからOKであるにもかかわらず、親の自立思想に従っているという意味では、家族から離反したわけではない。しっかり母親の夢も引き継いだ。こんなに表面上上手くいくこともあるのであろう。

しかし、上の話の過激派の両親が二〇年近くも逃げ回っているように、自立というのは始めることよりも続けることの方が遙かに難しい――にもかかわらず、引っ込みがつかないから続けるしかないのだ。リバー・フェニックスが家族から離れ、ジュリアード音楽院への道が開けるところでドラマは終わっているが、ここからが問題である。音楽院には入れたかどうか怪しいし、音楽を続けられたかどうかもわからない。わたくしなら、音楽や恋に破れた彼がテロリストとなる結末を付け加える。

だいたい、学園闘争や何やらへの意識が、社会へのエディプス的な意識に置き換わってしまうこと自体が逃避である。ラディカリズムは、アメリカ内部でももっと具体的な問題を引き起こし続けている。そういえばリバー・フェニックス自身がカルト教団の出自をかかえていたことも有名である。わたくし思うに、まあいろいろあるけれども、結局

恨は長し人魂か何かしらず筋を引く光り物のお寺の山といふ小高き処より、折ふし飛べるを見し者ありと伝へぬ。(「にごりえ」)


という感じになることは避けられないという感じはするのであった。