宝暦5年(1755)、奥羽地方を中心に大飢饉が起こる。その惨状を
目の当たりにした一関藩の藩医・建部清庵(1712~82)は、飢饉への
対策や準備について記した救荒書「民間備荒録」を著し、それを藩
に献上する。
清庵はその後、救荒用の草木の図譜「備荒草木図」の草稿を作成
する。それには、スミレ、キキョウ、ヘチマ、クヌギの他、食用可
能な草木数百種の図を載せ、それぞれの調理法を記した実用性に富
むものだった。
この備荒草木図は長らく出版の機に恵まれなかったところ、清庵
の死後50年余を経た天保4年(1833)12月、杉田立卿等の序文を付け
て刊行。
「枸杞」(くこ)は。若葉を茹でて食うべし。実は赤くなりたるを
食うべし。
「七葉樹」(とちのき)は、実皮を去り、水を換えて煮ること数編。
流水に浸すこと一宿、蒸熟し食う。
天保4年のこの年は、深刻な凶作と飢饉の発生年であった。天保
飢饉の惨状が図解「凶荒図録」(明治18年刊)で紹介されている。
そこには食い物は一品もなく、牛馬の肉は言うも更なり、犬猫まで
も食い尽くしたれども、ついには命を保ち得ずして、餓死せしも多
数なりし。とある。
(国立公文書館:千代田区北の丸公園3-2)
目の当たりにした一関藩の藩医・建部清庵(1712~82)は、飢饉への
対策や準備について記した救荒書「民間備荒録」を著し、それを藩
に献上する。
清庵はその後、救荒用の草木の図譜「備荒草木図」の草稿を作成
する。それには、スミレ、キキョウ、ヘチマ、クヌギの他、食用可
能な草木数百種の図を載せ、それぞれの調理法を記した実用性に富
むものだった。
この備荒草木図は長らく出版の機に恵まれなかったところ、清庵
の死後50年余を経た天保4年(1833)12月、杉田立卿等の序文を付け
て刊行。
「枸杞」(くこ)は。若葉を茹でて食うべし。実は赤くなりたるを
食うべし。
「七葉樹」(とちのき)は、実皮を去り、水を換えて煮ること数編。
流水に浸すこと一宿、蒸熟し食う。
天保4年のこの年は、深刻な凶作と飢饉の発生年であった。天保
飢饉の惨状が図解「凶荒図録」(明治18年刊)で紹介されている。
そこには食い物は一品もなく、牛馬の肉は言うも更なり、犬猫まで
も食い尽くしたれども、ついには命を保ち得ずして、餓死せしも多
数なりし。とある。
(国立公文書館:千代田区北の丸公園3-2)