続いては、左にあるのが「木簡人形」(Figure Produces from a
Recycled Tablet、7th)。
こちらも難波宮跡から出土した木簡で、元は表裏に文字が書かれ
ていた。本体を上下逆にして横向きの人形を削りだしている。頭部
には5カ所に木釘が打たれ、祭祀に用いられたことが伺える。
木簡の文字は「奴我罷る間」で、漢字を和文の語順で書いてあり、
日本語表記の初期のものではないかと考察される。
右が「謹啓」「山部王」の木簡(Wooden Tablet on which“Kinkei”
“Yamabeou”waswritten、7th)。
謹啓は、現在でも手紙の書き出しに使われており、もとは中国・南
北朝時代(4~5世紀)の公文書で用いられた上申の言葉。
また山部王は、壬申の乱(672)で没した山部王と同一人物と考えら
れている。
(大阪市中央区大手町4-1-32)
Recycled Tablet、7th)。
こちらも難波宮跡から出土した木簡で、元は表裏に文字が書かれ
ていた。本体を上下逆にして横向きの人形を削りだしている。頭部
には5カ所に木釘が打たれ、祭祀に用いられたことが伺える。
木簡の文字は「奴我罷る間」で、漢字を和文の語順で書いてあり、
日本語表記の初期のものではないかと考察される。
右が「謹啓」「山部王」の木簡(Wooden Tablet on which“Kinkei”
“Yamabeou”waswritten、7th)。
謹啓は、現在でも手紙の書き出しに使われており、もとは中国・南
北朝時代(4~5世紀)の公文書で用いられた上申の言葉。
また山部王は、壬申の乱(672)で没した山部王と同一人物と考えら
れている。
(大阪市中央区大手町4-1-32)