石井信平の 『オラが春』

古都鎌倉でコトにつけて記す酒・女・ブンガクのあれこれ。
「28歳、年の差結婚」が生み出す悲喜劇を軽いノリで語る。

「戦争の記憶」 訳者あとがきより

2010-08-06 22:35:37 | 戦争
(一部抜粋)

 先の戦争をどう受け止めるか、ドイツ人の悪戦苦闘ぶりがうかがえる。ひるがえって日本では「一億総懺悔」に始まり、「侵略か進出か」の不毛な議論の他に、どのようなことばがしのぎをけずってきただろうか。

 400字詰原稿用紙で800枚を超える訳業は私の能力を超えていた。この仕事を途中で投げなかったのは、移り気な私にはめずらしい。ひとえに、あの戦争への理不尽な思いが消えないからである。

 敗戦時2歳半だった私には、戦争の体験も記憶もないに等しい。しかし当時の日本人がすべて何らかの形で被害を受けたように、私の家族がこうむった体験は大きく、とりわけ母の無念の思いを、いわば放射能のように浴びて私は成長した。

 私の長兄、石井公平は昭和21年、新京一中に在籍。5月末、ソ連国境の東寧報国農場に勤労動員で送られ、8月9日未明、ソ連参戦に遭遇した。級友とともに徒歩で避難の途中、牡丹江近くで死亡した。14歳だった(この、戦史にも教育史にも残らぬこの出来事は、級友のひとり谷口佶氏が『子羊たちの戦場』読売新聞社、1988年刊に書き記した)。

 私の父、石井真澄は満州中央銀行に勤務、昭和20年6月、招集を受け、敗戦とともにシベリアに送られた。私はこのふたつの出来事について「暴虐ソ連」と言い捨てることができない。

 まず、5月7日のドイツ降伏後、ソ連の大量の武器兵員が極東に移動され、「ソ連参戦必至」の情報を関東軍はつかんでいた(瀬島龍三証言『味の手帖』1991年7月号)。にもかかわらず、その国境に中学生を送り込み、期限を超えても呼びもどさなかった軍と教育当局の「判断」がある。

 また、すでに40歳を超えていた父のような非戦闘員を「根こそぎ動員」して兵士に仕立て、結果的には60万人の「シベリア抑留」のおぜんだてをした「動員政策」があった。

 それはまた、満州の辺境に30万人の開拓団婦女子を無残に放置して関東軍撤収の煙幕とした「作戦」とも関わる(草地貞悟・関東軍作戦参謀証言、TBS『報道特集』1991年7月21日放送)。

 つまり、私たちを守る指導者も軍隊も、あのとき、日本国民はもちえなかったという「事実」にゆきつく(1991年5月、私は兄の級友とともに牡丹江に慰霊の旅をした。それは事実を確かめる旅でもあり、その記録を「関東軍作戦放棄地区をゆく―戦後世代の「満州」訪問記」として『中央公論』同年9月号に寄稿した)。