石井信平の 『オラが春』

古都鎌倉でコトにつけて記す酒・女・ブンガクのあれこれ。
「28歳、年の差結婚」が生み出す悲喜劇を軽いノリで語る。

他人の不祥事を使い回すテレビ局 かつてはこんなサムライがいた!!

2011-07-16 16:03:58 | 月刊宝島「メディアに喝!」

 各テレビ局そろって、「料理使いまわし」の罪で「吉兆」のおかみを引きずり出して叩いている。他人の不祥事を見せて叩く、使い回しているのは、テレビよ、お前だろ。

 ところで、テレビは自分の不祥事を見せないし、自分の「歴史」さえ滅多に見せない。吉兆で被害を受ける人間の「少なさ」に比較すれば、このアンバランスは異様だ。

 そのテレビに珍事が起こった。TBSが何と、40年前に退社した社員のことを取り上げ、1時間半の「報道特別番組」を放送した。タイトル『あの時だったかもしれない ~テレビ・青春・1968~』(演出、是枝裕和。5月7日BS放送、18日深夜、地上波再放送。テレビマンユニオン制作)。退社した社員とは、萩元晴彦・村木良彦さんで、1960年代に意欲的な番組を連発した。彼らの手法や問題提起はテレビの最前衛を行き、前衛は叩かれ、彼らはTBSを辞めていった。

 今年の1月に亡くなった村木さん追悼で番組は始まった。是枝さんは彼らの問いかけたものと、表現した仕事を丹念にたどりなおした。

テレビマンとしての試行錯誤を面白がる

 二人の時代センスと、青春期のテレビメディアから『あなたは…』という奇妙なインタビュー番組が生まれた(構成・寺山修司)。道行く人に、いきなりインタビュー。「あなたにとって幸福とはなんですか?」「ベトナム戦争にあなたは責任があると思いますか?」「それについてあなたは何をしましたか?」……。

 風変わりで、ユーモラスで、困った番組だ。カメラを持って街に出る、そのライブ感覚に興奮し、ダイナミックに動いている社会を捉えようともがく。テレビマンとしての試行錯誤が、痛いほど伝わってくる。「テレビって何だろう」「その可能性は何だろう」、そんな「問い」ばかり発せられたら、経営の効率は低下する、と会社もテレビ界も流されていった。

 彼らは抗議の意思表示をした。今野勉さんも加わって、今や幻となった名著『お前はただの現在にすぎない』を刊行して退社し、その後、日本初の番組制作会社・テレビマンユニオンを作った。(同書は今秋、朝日新聞出版から再刊!*)

 思えば、萩元、村木ともにテレビ界の「伝説の人」になったが、多数派にはなれず、テレビは今に至るわけである。

 テレビという巨大装置が、いま、その意味や問題点や可能性を「問わない」人々によって運営されている、という事実が図らずも胸に迫ってくる番組であった。こんな「売れない番組」を放送した編成センスに敬意を表して、初めに戻ろう。

 右に紹介した名著の副題は「テレビに何が可能か」である。それを追求することを面白がった萩元・村木さんは、今のテレビをどう見るだろう。「吉兆のおかみを叩くのに何のリスクもない。叩いてしまえ」という品性なき風潮を。



『無名』 沢木耕太郎・著 (幻冬舎)

2011-07-16 15:02:52 | 本・書評
 
 誰もが身につまされて読む本である。89歳になる父親の脳出血と闘病、そして静かな死を息子の目から観察し、父と過ごした最後の日々を記録する。

 父の衰弱を、まず抱き上げたときの「驚くほどの軽さ」で著者は実感する。前年の暮れに父が胃潰瘍で入院して以来「早く、できるだけ早く父の話を聞いておかなくてはと焦るような思いを抱いていた」。他人の人生については肉親以上の根気良さで聞いてきたのに、父親のことは先延ばししてきた後ろめたさ。ここでプロのインタビュアーが味わう慙愧の念は、実は日本の息子たちに共通の気分ではないか。

 混濁する意識をさ迷う父と実のある会話がないまま「こんなに長く父の顔を見るのは生まれて初めて」という付き添いの日々が続く。読者は自分と父の場合はどうであったか否応なしに思いをはせるはずだ。

 私の父親は満州中央銀行の銀行員だった。敗戦で金融の破綻と国家の消滅を同時に体験し、彼はシベリアに拉致され四年間、強制労働に服した。驚くべきは、私は父の実体験を一度も意識的に尋ねたことがなかった。父は何も語らないまま私の海外出張中、急性白血病で煙のようにこの世から立ち去った。そういう父と私の関係とは何だったのだろう?沢木氏の場合はどうか、全ての読者が自分に特殊な事情をかかえて本書を読み進むはずだ。

 父親の病状はどんどん深刻の度を増してゆく。老母、二人の姉、そして作家である沢木氏も「付き添い部隊」の一兵卒として動員されてゆく。「母が倒れるようなことがあると、とても私たち子供だけでは対応できなくなってしまう」老人医療の現実が描写される。

 父は一族が経営していた通信機器会社の倒産を体験し、その後は実直なサラリーマン生活を勤め上げる。「食事をしながら一合の酒を呑む。そして、食事を済ませてから一冊の本を読む。それが父の最高の贅沢」だった。父の秘密を知る重大な人物の登場もなく、下町生まれの実直な父の生涯がスケッチされる。その補助線になるのが父が愛した昭和の作家たちと、作った俳句の数々だ。

 「二度軍隊に応召したが、幸運にも一度も戦地に行かなくて済んだ」市井の文人の足跡を辿るのが本書の後半である。「父と私」ではなく「父の文学趣味を味わい直す私」。久保田万太郎や小島政二郎など、今は書店にもない作家たちの意外な面白さを教えられる。そう、むかしは練達の作家たちが面白い小説を書いて、大人の生活者がそれを楽しむ文化があったのだ。

 そのような父に、やがて病院から退院許可が出る。家族総出で在宅介護のレッスンが始まる。「私たちは、あらゆることに不慣れだった」という言葉が胸を打つ。紙の上の言葉だけでは人生が処理しきれないやるせなさ。それもほどなくして迎えた父の安らかな死で終りを告げる。著者は父の死に顔に生えたひげをそってあげる。

 初七日を待たず著者は父の句集を作ろうと編集作業を始める。350にもなる俳句にすべて目を通し、季節ごとに分類し、並べ方に心を砕く。総タイトルは「その肩の」に最終決定する。

  その肩の無頼のかげや懐手

 無名だった父親の、たった一冊の句集に注ぐ著者の情熱は、友情とも愛情ともつかない、むしろ、もっと知ろうと努力しなかった父への「罪滅ぼし」のようにさえ見える。丹精こめた美しい句集が出来上がって、なお「突然、いまでも父のことは何もわかっていないのだという思いに襲われた」。

 ノンフィクション作家として降伏の心境を「なきがらの、ひげそるへやに、ゆきよふれ」という著者自身の俳句に託して本書は終わる。

 さわやかな秋の午後、一服の御点前のような一冊である。沢木さん、このまま枯れずに、今度は世界の阿鼻叫喚を書いてください。



「週刊朝日」2003.11.7号 『週刊図書館』掲載

あれから2年が経ちました

2011-07-16 14:42:47 | 妻より
ご無沙汰しております、妻の石井敦子です。

夫が亡くなった、2009年の7月16日14:20から2年が経ちました。

私も未亡人と呼ばれるのに慣れてきましたが、それでも「夫が近くに居ない」という実感は耐えがたく、現実逃避に年の半分は海外への逃亡生活をしておりました。

今年に入ってからも、昨年末から年初は東南アジア方面に2カ月の滞在、4月はメキシコシティへ1カ月、そして6月は丸々オーストラリアの妹夫婦宅におりました。

さすがに、身体が旅疲れてしまったのか、とうとう悲鳴を上げ、6月からずっと体調を崩して、帰国してから高熱が続いて、気管支炎になってしまいました。

とうとうお迎えが来たかなと、一瞬期待をしてしまいましたが、今の時点でどうやら死んでしまうようなことはないようで、まだしばらく今生でお世話になる日々が続きそうです。

旅が好きだった信平さんが、病床で私にささやいたのは、「敦子ちゃん、ここを出たら旅に出ようね」と夢うつつに言った言葉でした。

私の身体の全細胞がその言葉を覚えていて、それに突き動かされて旅を続けているのかもしれません。世界のあちこちに身を置き、夫のしたかったことを考えます。

そして、生きていたらどう感じていただろうかということ。

今年の2011年3月11日以降、日本人がそれまでおろそかにしていたこと、棚上げにしていたことが急に目の前にぶら下がるような事態が続いています。

誰もが危ないと思っていた原発の事故。政府(もちろん民主党だけではない歴代日本政府のことです)の原発推進の政策や東電を筆頭にした電気会社の無責任経営だけを責められないと思うのは私だけではないのでしょうか。ここに国民を巻き込む議論が圧倒的に足りなかったことが問題だったのではないかと重く受け止めます。

国民が「誰かがなんとかしてくれる」と待ちの姿勢でいたこと、積極的に自分たちの生活の根本的な問題に目をやらなかったこともこの問題の責任の一端を担っていないでしょうか。

こんな事態を目の当たりにすると、夫なら何と言うだろうと想像します。夫は原発反対でした。だからこそ、こんな現状を知ったら、さぞかし心を痛めるだろうと想像します。

今こそ国民が立ち上がり、物言わぬ国民から「物言う国民」に進化を遂げるチャンスです。

私もこれからも脱原発活動に積極的に参加していく予定です。

生き残された人間の使命だと思っています。