oregonian way of life. 

オレゴンでの学生生活から南下して社会人生活へ。IT産業でホットなサンフランシスコ・ベイエリアで地味~に文系の仕事してます

「ヒッピー」とは何者ゾ?

2005-12-20 | 消費文化
「60年代が終わったら、ヒッピーがみんな集まってきた」といわれるこの町。この町発行の週刊情報誌が、「ヒッピー博物館」を造ろう、と提案したほど。ヒッピーはベビー・ブーマー世代ですから、当然まだその生き残りの方がたくさんいます。行きつけのコーヒー・ショップの常連客にも約1名。60年代にはサンフランシスコにいたそうですから、「じゃあそこでヒッピーしてたの?」と聞くのが野暮なほど、元、というか今も明らかにヒッピーな方がいます。ヒッピーがたくさん集まったからこそ、この町がベジタリアンやビーガンにフレンドリーになり、わたしが現在その恩恵を授かっている、と言っても過言ではないでしょう。ヒッピーという言葉は、日本人でも耳にしたことはあると思いますが、それでは、ヒッピーとは何者だったのでしょうか?

先日の記事『名物の自然食品店』で紹介した店を、1971年設立当事に所有していた方は、元(今も?)、自他共に認めるバリバリのヒッピーでした。その方と、3年前にお会いしたことがあります。ニューヨーク州ブルックリンの出身。カトリックの家庭で育ち、10代の時に市民権運動に参加。宗教の教えと社会の現実にギャップを感じたからか、カトリックを捨て、家族からも心身ともに離れていきました。当然、1960年代後半に盛り上がった反戦運動に参加。メディアは、体制派のエリート層が、自分達の利益になるように市民を支配する手段と思ったからか、テレビも観なくなり、1966年までには、主流の文化(mainstream culture)から完全に離脱したそうです。

その方は特に、アメリカ主流文化の核となっていた「核家族」に疑問を抱いた、と言っていました。郊外の一軒家に住み、移動はほとんど全てが車。きれい事しか言わない教会に週一回通い、その後はマクドナルドで「便利な」昼食。外で仕事に従事するお父さんと、家で子育てをし、消費者としてアメリカ経済の発展を促す母親・・・。ヒッピーは、日本でいう「古き良き時代のアメリカ」といわれる50年代を、そんな郊外の一軒家の中流家庭で、物質的に豊かな子ども時代を過ごした世代。その子どもたちが60年代に入って物心が付き始めると、そんな家庭と、社会や世界とのギャップに気付き始めました。理想と現実のギャップ、と言ってもいいと思います。平等(equality)という概念を重んじながら、人種差別がある現実。ベビー・ブーマーの親やその親の世代は、世界大戦や大恐慌などの大変な時代を切り抜け、物質的に豊かで平和(peace)な時代を有り難く思いながらも、ベトナム戦争が泥沼化していく・・・。これらのギャップに、その方も含め、当時多くの若者が「この国どこかおかしいぞ!」と声を上げたのです。

主流のアメリカ文化を捨てたはいいが、これからの自分の人生を導くべく、新たな文化枠組みが必要。その方は、徹底的に自己省察(soul –searching)をしたそうです。1968年には、「Back-to-the-Land Movement (「土地へ戻ろう運動」と訳していいのかな?)に参加。同志が集まり、山の中で自給自足の生活を送ろうとした社会運動です。その方は、オレゴンの山でコミューンを作って、2年間ほどそこで過ごしたようです。ちなみに、1993年に亡くなった俳優リバー・フェニックスは、オレゴンのコミューン生まれ(現在は、弟が俳優として活躍していますね。そんなフェニックス家は当然ベジタリアンで、リバー・フェニックスが来日したとき、そばのつゆが鰹だしだと知ると、手をつけなかったとか)。

そんなバリバリのヒッピーだった方が、1970年代に入ると、この町の自然食品の生協や店で働くようになります。(続く)

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