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oregonian way of life. 

オレゴンでの学生生活から南下して社会人生活へ。IT産業でホットなサンフランシスコ・ベイエリアで地味~に文系の仕事してます

古き悪しき(?)思い出の地、シリコンバレー

2012-12-09 | 見方・視点
最近3週連続でシリコンバレーに行く機会がありました。2週目は感謝祭休暇のプライベート旅行でしたが。

去年の4月まで1年7ヵ月住んでいたシリコンバレー。そこを再訪して改めて感じたことは、在住当時は仕事で精神的にかなり張り詰めていたということ。1週目に用事があった場所は自分が以前勤務していた場所から歩いていける距離だったので、怖いもの見たさ(?)でそこまで行ってきました。日曜日だったので誰もいないのは分かっていたし。(「勤務先に行った」と言っても、もちろん会社の中までは入ってません。)当時ひいきにしていたコーヒーハウスやレストランなどを再訪しても当時の状況を思い出し、現在は精神的にかなり楽であることを実感します。


(クーパーティーノのWhole Foods Market。午後1時出社前のランチによく寄りました。アップル本社に近く、昼休みに多くの"Apple techies"が来てて「アップルなんかで働けていいな~」とよく思ってました)

シリコンバレー在住当時は時々サンフランシスコに行くたび、「あ~、ここいいなあ~」と思っていたけれど、今は逆。SFは自分には混みすぎというか人が多すぎるというか・・・。だからSFほどゴミゴミしていないシリコンバレーを訪れるとホッとします。

SFに住んでわざわざシリコンバレーまで仕事で毎日通う”techie”が多いらしいけれど、自分には信じられない。こんなに混んでるSFより、ゆったりしているシリコンバレーのほうがいいじゃん!(←あんたが年なだけだと思うよ

SFからシリコンバレーまでは電車または地下鉄&バスで日帰りが十分可能な距離。気楽に行って気分転換できるのが

(一番上の画像はサンノゼのダウンタウンや日本町にほど近い公園。ここのすぐ横の道をよく車で通っていたけれど、公園内を歩いたのは今回が初めて。のんびりしてました)

違いを尊重する・・・

2009-01-03 | 見方・視点
SFに引っ越して来て2日弱。ルームメートとの新たなアパート生活を始めたばかり。人間が2人以上集まれば、当然両者の違いを意識するわけで・・・。

このルームメートとの間に気づいた大きな違いの一つは、整理整頓度。わたしから見たら、ルームメートはかなりきっちりしています。逆にわたしは、どちらかといえばずぼら(sloppy)。食に対する考えも違いますね。

わたしは、自分と相手との違いに対してjudgmental(表面だけを見て、けなしたり馬鹿にしたりする)にならないように気をつけているけれど、そのルームメートからはわたしに対してjudgmentalな態度を感じ取りました。自分の方が年上でアメリカ&SF生活が長いからか、「上目線(condescending)」なんですよね。さっきランチを一緒に食べながら、オレゴンの下宿先での生活を例に出し、「自分は同居人にjudgmentalな態度を取らないようにしている」とルームメートに言った本当の意味(「だから、アンタもわたしにjudgmentalになんないでね」)、分かってくれたかな~?

アメリカ人がいうdiversity (多様性)って、人種&民族や文化、またはsexual orientation(性志向)などの集団レベルを指すことが多いけれど、わたしにとっての多様性は個人レベル。相手との違いに対してjudgmentalになっていたら、一緒に生活できないもんね・・・。

(画像はアパートからの眺め。イマイチですね。あの辺ってすごい坂なんだろうな~)

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文型は思考を反映&形成する

2008-12-27 | 見方・視点
『雑食者のジレンマ』の著者、マイケル・ポーランが2001年に出版した『欲望の植物誌―人をあやつる4つの植物』。この序章でポーランさんは、「自分が植える種を選び、草を引き抜き、作物を収穫する」という自分(人間)主体の自然との関係に疑問を投げかけ、「自分がポテトの種を植えようと決めたのか、それともポテトが自分にその種を植えようと決めさせたのか?」という疑問をこの本の出発点にしています。つまり、主体と客体の関係に疑問を投げかけたのです。

そうなんですよ~。主体と客体の関係って、普段のあらゆる思考に関わってきますね。わたしが先日書き終えた論文で気をつけていたことの一つが、「主語+動作を表す動詞(active verb)+目的語」という文型をできるかぎり用いることでした。なぜ?主体(主語)と客体(目的語)を明らかにし、かつ両者の関係を鮮明にしたり疑問を投げかけたりするのが目的でした。「主語+状態動詞(be 動詞)」や「主語+自動詞」などでは客体が存在せず、主体があたかも周囲から何の刺激を受けないし関係も持たないような錯覚に陥ります。例えば以下の一文。

「季節ごとにトレンドが大きく変動するファッションの世界」

この文を読んでも、何の違和感も感じないかもしれません。でも、ファッション、つまり服装などの流行が、季節ごとに自動的に変動するはずはありません。具体的に誰が(主語)ファッションを(目的語)変動させている(動詞)のでしょうか?アパレルメーカーでしょうか?ファッション雑誌でしょうか?芸能人などの有名人でしょうか?一般大衆でしょうか?それとも逆に、ファッションが人間を(具体的に誰を?)動かしているのでしょうか?いろいろ疑問がわいてきます。それでは、この文はどうでしょう。

「(日本人女性はもてるのに)日本人男性はもてない」

まるで、日本人男性に問題(もてない原因)があるようです。でも、「日本人以外の外国人女性(主語)は、日本人男性(目的語)が好みではない(動詞)」と書くと、日本人男性の問題よりも、外国人女性の好みの問題になります。外国人女性は、日本人男性を好まないのでしょうか?だとしたら、なぜでしょうか?外国人女性は男性に何を求めているがために、日本人男性を好まないのでしょうか?「日本人男性はもてない」だと、「日本人男性は○○、△△だからもてない」など、日本人男性を主体とした議論を誘発しますが、「外国人女性は日本人男性が好みではない」と言うと、外国人女性が主体になります。同じように、「ピーマンはまずい」と言うと、ピーマン自体に非があるというか、「まずい」というのがピーマンの本質であるように聞こえます。が、「わたしはピーマンの味を好まない」と言うと、ピーマンよりもわたしの好みの問題というか、「ピーマンをまずいと感じるわたしに非がある」とも言えます。

「『主語+動作を表す動詞+目的語』という文型を用いましょう」と言うと、単なる言語(文法)の問題だと思ったり、「どの文型を用いるかなんて個人の勝手だろ」と思ったりするするかもしれないけれど、文型は思考を反映するし、形成もします。「季節ごとにトレンドが大きく変動するファッションの世界」や「日本人男性はもてない」などを「主語+動作を表す動詞+目的語」の文に置き換えてみると、これまで当たり前だと思っていたことに対して多くの疑問が生まれます。思考を柔軟にする一つの方法だと言えるかもしれません。

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「女王様キャラ」は弱さの裏返し?

2007-10-03 | 見方・視点
芸能マスコミを騒がしている沢尻エリカ。この女優、わたしはオンライン・ニュースで拝見するだけで、実際に彼女が出演する映画やドラマを観たことはないけれど、「女王様キャラ」がウリなんだとか。「女王様キャラ」と聞いて、「沢尻エリカって、『ろうそく、マスク、ムチ、ハイヒール』の女優なんだ、ワクワク・・・」と期待した(?)のは、おバカなしんのすけだけ?

で、社会問題になっている(?)、主演映画の舞台挨拶における沢尻エリカの態度。わたしがオンライン・ニュースを読むだけで感じるのは、「沢尻エリカって本当は弱い人間なんだろうな」ということ。その弱さを隠そうとするために、「エリカ様」と言われるでかい態度を取っているような気がします。そういう目で上の写真を見ると、「腕組みして威張っている」と言うより、おびえているような強張った表情がわたしは気になります。この時の沢尻エリカ、何を思っていたのか非常に興味深いです。

自分の弱さを隠すために強がる・・・。本当に強い人だったら態度に余裕があって、他人に突っかかるようなことはしないと思います。もしかしたら、「沢尻エリカの真の姿は『女王様キャラ』ではない!」ことを誰よりもよく分かっているのは、沢尻エリカ本人なのかもしれません。

沢尻エリカって、21歳だっけ?まあ、これからもっと丸くなっていくのではないでしょうか。こういう女性には、包容力のある大人の男性とお付き合いすることをお勧めします。(←アンタは細木数子か?)先日報道された交際相手がこのような男性かどうかは知りませんが。ちなみに、長澤まさみと比較する人が多いようだけれど、わたしは基本的に優等生キャラには魅力を感じないので、どちらかと言えば沢尻エリカの方に注目しています。

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動物を見下す「動物は非力」という思い込み

2007-09-21 | 見方・視点
「プワットランド」のパウエルズ書店で昨日目にしたのが、『雑食者のジレンマ』のペーパーバック版。去年わたしが、『肉食は、自然界のバランスを維持する望ましい行為?』で紹介した本です。

この『雑食者のジレンマ』、ニューヨークタイムズ紙が去年選んだ「年間ベスト10冊」の一冊に選出されています。「あのニューヨークタイムズ紙のお眼鏡にかなったからこの本はいいんだよ!」と言うつもりはないけれど、食生活に対して新たな視点を提供してくれたという点でわたしはこの本を評価しています。ちなみに、わたしがこのブログを約2年前に始めてすぐ気付いたのは、「自分の視点って先進国の都会&中流階級に属する消費者中心」だということ。だからこそ『雑食者のジレンマ』を読んだとき、「動物を含めた自然界に対してもその視点から見てアンフェアな判断していた」ということに嫌というほど気付かされました。

この本を読んで新たに思ったのが、2者間の力関係は「(一般的に言われる)強→(一般的に言われる)弱」の一方通行だけで見るのではなくて「強⇔弱」の両側通行で見る、ということ。「強→弱」だけでは全体像の半分しか見ていません。男性と女性、白人と黒人という人間同士においてだけではなく、人間と動物の関係においても同じこと。もし、「人間→動物」という一方的な力関係しか見ない(見れない)としたら、それこそ「動物=非力」だと思い込んでいて動物に対して失礼だし、そのような思い込みこそ人間が動物を見下している表れ。動物に敬意を表するならば、動物が人間にどのような影響を与えているのかも考えたいものです。

それに、進化の過程で一部の動物が家畜化して人間と動物の共存関係が成立した(人間⇔動物)らしいけれど、現在のアニマルライツは「強い人間が自分たちの都合だけで弱い動物を無理やり家畜化した(人間→動物)」と思い込んでいるそう。だから現在、「弱い動物を横暴な人間から開放しろ!」と言うように政治問題としてアプローチしているのだとか。いずれにしろ、人間社会の倫理だけで人間と動物の関係を判断し、進化の過程を含めた自然界の成り立ちを丸っきり無視していることには変わりはないようです。

この『雑食者のジレンマ』、アニマルライツの人にこそ勧めたいけれど日本語訳はまだ出ていないようです。ちなみに、わたしが「勧めたい」と言うときは、「この本を読んで筆者の言うことに100%同意しろ」と言っているわけではないので、念のため。ここでは詳しく述べないけれどわたしには、「この点、もうちょっと詳しく説明してくれないかな~」と思ったり、「う~ん、でも、それだけじゃないよな~」と思ったりする点がありました。でも、自分の視点がいかに人間中心で、自分としては動物の事を分かっているようで実は全然何も分かっていなかった、ということにわたしは気付きました。自分の考えが最良だと思い込んで(そう思うことって傲慢?)それに固執するのではなく、柔軟な頭を持っていたいものです。

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「周りに何もない」が反映&強化する自然軽視

2007-08-27 | 見方・視点
わたしが以前から気になっている表現の一つが、「(周りに)何もない」。俗にいう田舎を表すときによく使うこの表現、正確に言うと「(周りに)建物や店や遊び場所がない」、つまり人工物が少ない場合によく使います。

わたしが指摘したいのが、「(周りに)何もない」という表現は、田舎&自然を軽視した都市&文化中心的な見方だということ。「周りに何もない」と言っても多くの場合、山や川、木や草や花、それに食料源となる畑などがある場合が多いけれど、このような俗にいう自然をまるっきり無視して「何もない」と表現しがちです。

「周りに何もないよ」という表現の意味、日本社会ですっかり確立されていますね。「○○大学のキャンパスの周りには何もないよ」と言えば、まず意味は通じます。そこで、「えっ、何もないの?民家もないの?畑もないの?木や草もないの?」という疑問を挟む人はまずいません。「わたしは自然が好きだし大事だと思う」と言う人でも、人工物がない/少ないことを説明するとき、「周りに何もないよ」という言い方を「何気に」使う人は多いのではないでしょうか?このような自然を軽んじた表現を「無意識に」使用しているということは、「何だかんだ言っても自然よりも人工物のほうが重要」という価値観を持つ日本社会を反映し、かつ、そのような考えをより強固なものにしていると思います。

この「(周りに)何もない」という表現は日本語だけではなく、英語にも「in the middle of nowhere」という表現があります。わたしが覚えているのが、ニューヨークー州イサカにあるコーネル大学の案内文にあった、「Ithaca is in the middle of nowhere(イサカの周りには何もない)」という記述。「都会やその近くにある大学と比べて遊び場やインターンをする会社などの数が少ないよ」と言いたいのを、「イサカの周りには何もない」と表現したわけです。わたしが去年の9月に訪れたイサカ&その周辺。自然豊かな所でわたしは気に入ったその場所を「nowhere」だと言ってしまうのは・・・、アップステート・ニューヨークの自然に対して失礼では?(上の写真はコーネル大キャンパスで撮影。この写真を見て「何もない所」と思ったあなた、あなたの世界観は都市&文化中心に形成されていますね)

多くの(ほとんど全部の?)言葉や表現には、人間の価値観が反映されています。そして、言葉や表現を無批判に使っていると、自分の意図とは裏腹にある特定の価値観を強固にしている場合があります。蘭丸さんが先日、家事において「自動操縦をしない」旨を書いておられたけれど、自分が普段「何気に」使っている言葉や表現も自動操縦しないで吟味したほうがいいのかもしれません。

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「言語力」導入は「モンスターペアレンツ」を蔓延らせる?

2007-08-18 | 見方・視点
「言語力」育成、脱「ゆとり」も…中教審が指導要領改定へ

今年度中に改定が予定される小中高校の学習指導要領について、中央教育審議会(文部科学相の諮問機関)は16日、基本方針を「ゆとり教育」から「確かな学力の向上」に転換した上で、自分の考えを文章や言葉で表現する「言語力」を全教科で育成していく方針を固めた。

国際学力調査で低下していることが明らかになった文章表現力や思考力を向上させる狙いがある。中教審は今後、各教科ごとに言語力の具体的な育成方策をまとめる方針だ。

「略」 

さらに、「言葉は学力向上のために欠かせない手段」と位置づけ、小学校の低学年から、国語だけでなくすべての教育活動を通じて言語力を育成する必要があると判断した。

例えば、小学校低学年では、体験学習で感じたことを作文にまとめたり、発表したりして、他の人と比べる学習を重視。中学の理科では、予想や仮説を立てた上で実験や観察を行い、結果を論述させる。体育の授業でも、筋道を立てて練習計画や作戦を考え、状況に応じて修正させる訓練を積むことを想定している。

経済協力開発機構(OECD)が2003年に行った国際学習到達度調査(PISA)では、文章表現力や思考力を測る「読解力」の順位が、日本は8位から14位に下落した。

中教審は、こうした力が欠けていることが、人間関係の構築が苦手な子供を増やし、いじめやニートなどの問題の遠因となっていると分析。言語力の習得を通じ、子供のコミュニケーション能力を向上させることも目指したいとしている。

(2007年8月17日3時1分 読売新聞)
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この「言語力」の低下はアメリカでも近年言われていて、大学入学統一試験であるSATに作文が導入される(もうされた?)というのを聞きました。わたしは大学で作文の採点を何年かしたことがあるけれど、お世辞にも言語力があるとは言えなかったのでSATの作文導入には賛成です。「SATに作文導入 → 高校生や大学生の言語力向上」と思惑通りにはいかないのかもしれないけれど。

SATへの作文導入に賛成のわたしは当然(?)、表現力や思考力を重視する教育方針には賛成です。暗記重視では、子供は大人に与えられたものを無批判に受け入れるのを期待されています。そのような「素直でおとなしい子羊ちゃん」が大人からみれば俗にいう「いい子」であって、そんな子供のほうが大人は管理しやすいですからね。暗記重視教育というのはある意味、大人本位であると思います。などと言うとうちの親のように、「子供のときが一番頭が軟らかくて暗記力が優れているのよ。今のうちに勉強(=暗記)するのが一番効率的なのよ」などと「子供本位」の見方を持ってきて暗記重視教育を正当化する人がいます。「子供のときが暗記力に一番優れている」というのは最もなのかもしれないけれど、これを理由に暗記重視教育を正当化するのは、「愛の鞭」を正当化する理由(前回の記事参照)と同じように眉唾物です。ちなみに、世の中には「ゼロか100か」という単純思考を駆使する方が多いので断っておきますが、「暗記"重視"反対=暗記に対して"100%"反対」とわたしは言っているのではないので、念のため。

「言語力」導入に賛成とは言ったものの、懸念が一つ。それは、言語力をどう評価するのか?ということ。文章表現力を試す最も有効な手段の一つといえば、作文。わたしが作文の採点をしたときは自分なりに採点基準を設けて採点しましたが、白黒はっきりつかない灰色の部分が多いのは確かです。「1+1=2である。よって、『2』だけが正解でそれ以外は全て誤りである」のような明確な採点基準を設けられないのが作文です。だから、作文の採点に対してケチをつけようと思えばいくらでもケチをつけられるのです。

わたしのこの懸念を増長させているのが、最近日本で増殖しているらしい「モンスターペアレンツ」といわれるイチャモン保護者の存在。そんな保護者が言語力の採点に対して先生にケチをつけるのは火を見るよりも明らか?文部科学省が打ち出したこの新方針によって、現場の先生たちの負担が大きくならなければいいのですが・・・。

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他人を偽善者呼わばりするより、自分の批判精神の向上を

2007-07-30 | 見方・視点
すっかり定着したようですね。他人を批判する際に持ち出す言葉、「偽善者」。特に最近はエコ活動が活発化していることもあって、他人を偽善者呼ばわりするネタには事欠かないようです。お暇な方が多いんですね~。他人を偽善者呼わばりするほど非生産的な言動はないのでは、とわたしは思いますが。

『不都合な真実』を製作したゴアは偽善者だ!

へ~、そうなんですか。それはよございましたね。で、ゴアが本当に偽善者だとして・・・、だから何なんですか?ゴアが偽善者だとあなたに害でも及ぶのですか?偽善者と呼ばずに無視しておけばよろしいのではないでしょうか?少なくともわたしは、ゴアが偽善者かどうかということは問題にはしません。そんな問題および回答に価値を見出せないからです。

わたしもエラソーなことは言えませんが、他人を偽善者呼わばりする暇があったら自分の批判精神を高めたほうが生産的だと思います。この場合の批判というのはもちろん、感情的になって人や物事に文句を言ったりケチをつけたりすることではありません。物事の正当性を評価したり、人間の思考や行動の前提となっている価値観を吟味したりすること。ちなみにわたしが一年前、7月28日付けの記事で提示したゴアへの疑問/批判はこれ。

ゴア氏やディカプリオなどがなぜ、「地球温暖化防止の一環として肉食を控えよう」ともっと声高に言わないのか?

わたしのこの疑問/批判の質が高レベルだとは言わないけれど、「ゴアは偽善者だ!」と結論付けて思考を停止させるよりは、このような疑問を提示して問題意識を持って生活したほうがまだ生産的ではないでしょうか?

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ビーガン=完全菜食主義者!?

2007-05-29 | 見方・視点
「『完全菜食主義者』の両親、赤ちゃんを餓死させ終身刑に」というタイトルの報道記事が、今月初め日本で報道されたようですね。どう考えてこのタイトルをつけたのかは知らないけれど、まるで「完全菜食主義者(=ビーガン)」だから赤ちゃんを餓死させたようなニュアンスです。ビーガンでも赤ちゃんをそれなりに育てている人はいると思うし、今回のアトランタでの事件はビーガン云々というよりは、与える量が少な過ぎたことが餓死の原因だったよう。それを「完全菜食主義の両親が~」と報道すると、まるでビーガンのために、つまり、動物性食品を与えなかったことによる栄養不足のために赤ん坊が死んだような印象を与えます。赤ちゃんを餓死させたケースというのはこれまで、肉食者の両親が当事者だったことだってあるはず。その場合、「『肉食主義者』の両親、赤ちゃんを餓死させる」というタイトルで報道してきたのか?以前アメリカでマクロビを実践していた若者が死亡し、マスコミから「キラー・ダイエット(killer diet)」と呼ばれてFBIの捜査対象になったこともあるけれど、マスコミでは日米に関わらず、「菜食=栄養不足」という見方がまだまだ支配的なようですね。

そもそも、ビーガンのことを「完全菜食主義者」という日本名を付けたのはどこのドイツだ?(ここはアメリカだ!)責任者、出てこい!じゃなかった!一体どういう方なんザマショ、オホホ・・・。「しんのすけさんは完全菜食主義者なんだね」と言われても、全くピンとこない。「厳しい菜食主義者」も嫌だけれど、「完全菜食主義者」ってのもね・・・。英語で完全主義者(perfectionist)といえば、「完全無欠なものしか受け付けず、妥協を許さない頑固者」という否定的なニュアンスがあるし。菜食主義者が変人(crank)だとすると、完全菜食主義者は頑固な変人!?言葉というのは概して作った人の価値観や誕生時の社会/文化状況を反映しているので、「完全菜食主義者」という日本語を作った人はきっとビーガンに対して否定的な考えをお持ちだったのでしょう。「純粋菜食主義者(pure vegetarian)」という日本語の方がまだマシに聞こえるけどな。

この調子でいくと、プランタンという言葉が広まったときには「植物主義者」などという日本語を使う輩が出てくるのか?「主義」という言葉をつけるのだけはやめてね。だからといって「植物者」というのは植物人間みたいで嫌だけれど。

メディアの偏見で思い出しました。去年の11月末、国連食糧農業機関が畜産業&肉食の地球温暖化への影響に関する報告書を発表したけれど、この報道を目/耳にした方はいらっしゃいますか?わたしは去る2月、オレゴン州の新聞、オレゴニアン紙のベタ記事で知り、その後タイム誌が引用していたのを見たのですが。ちなみに、「国連食糧農業機関 地球温暖化」で去る2月にグーグルってみても、該当記事が一件出てきたかこなかったか。でも「完全菜食者」という言葉でグーグルってみると・・・、出てくる出てくる、今回の「『完全菜食主義者』の両親、赤ちゃん餓死させ事件」記事。

肉食が地球温暖化を悪化させる大きな要因であるという国連発表を(ほぼ)無視し、赤ん坊に少量の食事を与えずに餓死させてしまった両親が「たまたま」ビーガンだったことには偏見バリバリのタイトルで報じるマスコミ・・・。ロハスやマクロビが市民権を得た日本だけれど、肉をはじめとする動物性食品の摂取に対してまっとうな議論をする社会/文化土壌はまだできてないようだし、マスコミもそのような土壌を作ろうとする気はないようです。

(写真は、行きつけのコーヒーハウスで食したブルーベリーのケーキ。完全菜食主義者用です)

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元気な人ほどがんになる?

2007-05-17 | 見方・視点
「年不相応に元気で海外を飛び回っていたものですから、自分はがんにならないという根拠のない自信を持っていました。」

初期がんに罹っている筑紫哲也さんが、ご自分の番組内でこう発言したとか。誰もが知識人だと認める筑紫さんが「元気=がんにならない」と思っていたようですが、筑紫さんのように考えている人は多いのでしょうか?

「元気=がんにならない」どころか、「元気=がんになりやすい」という考えを持っているのが誰を隠そう、うちの親。「元気=がんになりやすい」という方程式に科学的根拠があるのかどうかは知らないけれど、「(自称)元気な人ほどがんになる」というのは世の中を見ていると分かる気がします。「わたくし、元気だけが取柄ですの。少々の暴飲暴食や睡眠不足なんてへっちゃらで、毎日アクティブに動き回ってますのよ、オホホ!」などとのたまっていた方ががんになる、というのはちょくちょく見ます。暴飲暴食&睡眠不足だったりお年を召したりしたら、人間はそれなりに弱るのが自然ですからね。それでも元気だとしたらがん細胞のおかげ?

自分はがんにならないという根拠のない自信を持っていた筑紫さん。自分ががんだと分かったときはさぞかし、「が~ん」だったでしょう。← 「サブッ!」「♪黄色い看板、プロミス♪」(←「サブッ!」と言うよりは古い!)

(写真は、去年7月に亡くなったわたしの愛猫、ミサキ。享年5才。がんではなかったと思うけれど。元気な猫ほど早く死ぬことがありますね)

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ゴアは偽善者?

2007-04-14 | 見方・視点
昨日触れた、『不都合な真実』。このプロパガンダ映画(?)を製作したアル・ゴアの環境活動に対する誠実さが先月問題になったようです。

アカデミー賞受賞後にゴアの地元、テネシー州のある民間団体が、ゴア家の莫大な電気消費量(昨年一年間で350万円相当)を「暴露」したとか。けれど、この団体は保守系で、地球温暖化防止運動に対して快く思っていない方々の集まり。ゴアの政治ライバルであるそんな団体のエゲツナイ暴露に「ほらな、ゴアはやっぱり偽善者だ!」だと飛びつくのは、その団体の思う壺にはまるだけ。

このブログのファン(?)の方はお分かりのように、わたしは地球温暖化防止には協力の立場を表明しています。とは言ったものの、わたしは例えば以下の行動は取っています。

●シャワーや風呂などで熱湯を使用しています
●コンピュータや料理を含め、電力を使用しています
●遠隔地から莫大な(?)化石燃料を使用して輸送された食材や商品を購入するときがあります
●買い物で使用するビニール袋は繰り返し使用するけれど、ぼろぼろになったり汚くなったりしたら捨てています
●飛行機や自動車を利用するときがあります
●植林作業はしていません

こんなわたしが「地球温暖化防止に協力している」と言うのは「偽善」ですか?「この程度」なら偽善にはならない?「偽善」と「偽善じゃない」のを決める基準は何ですか?誰がその基準を設定するのですか?「ゴアは偽善者だけれど、自分は『誠実に』地球温暖化防止に取り組んでいる」と思ってらっしゃる方がいたら、そう思う根拠は何ですか?

「ゴアは屋敷に一年間で350万円もの光熱費をかけている=地球温暖化の危機を訴えるゴアは偽善者である」という単純な方程式には「?」。「350万円」が偽善者になるのであれば、いくらまでだったら偽善者にならないの?それに、地球温暖化を悪化させる要因は電気やガスだけではないはず。他の要素を考慮せずに、光熱費だけを基にゴアを批判するのはフェアじゃない

わたしにとっては「ゴアと映画は別」なので、「ゴアの目的は選挙資金集めである。だから、『不都合な真実』を評価しない」というロジックにも「?」。映画の内容自体に対して建設的な批判をするのは分かるけれど、ゴアの動機だけを問題にして映画を評価するのは「?」。「あの映画はゴアの選挙資金集めのためだよ」と言われても、「ふ~ん、そうなんだ。それで?」。純情無垢なお子チャマでもあるまいし、元アメリカ副大統領ともなれば何かしらの「目的」があるのは当然だと思いますが。「わたしはこの映画に対して私利私欲などこれっぽっちもございません。すべては公共の利益のためでございます」などともしゴアが本心から思っているなら、かえって怪しい。と言うより、「コイツ、バカか?」と思ってしまう。

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マスコミが広める、「人間と動物は別」

2007-02-27 | 見方・視点
<子豚受難、ワニの餌に=公開処分1500匹、価格下落で-タイ

 【バンコク26日時事】豚肉価格が下落しているタイで、子豚を処分してワニや魚の餌にする養豚業者が相次いでいる。政府の支援を求め、子豚の公開処分の デモンストレーションを実施する業者も出現。農業・協同組合省は「食肉処分場以外で豚を処分した業者は罪に問われるべきだ」と非難声明を出す騒ぎになっている。<以下略> 2月26日21時0分配信 時事通信(YAHOO!ニュースより)
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先日賑わした鶏インフルエンザの報道もそうだけれど、この手のニュースを読むと感じるのが、「動物と人間は別」という前提。この前提は、「ワニの餌に」や「子豚を処分して」など、記事で使用されている言葉を見れば分かります。

人間は「処刑」、動物は「処分」
人間は「食事」または「メシ」、動物は「餌」

アメリカの広告業界は20世紀の世転換期、ダーウィンの進化論などへの対応として、人間と動物の間に明確な線引きをするために「身だしなみ」を促進する広告に力を入れ始めたけれど、人間と動物の間に明確な線引きをしているのは、現代の日本マスコミも同じ。意識的なのか無意識なのかは知らないけれど、このような記事を通してマスコミは、「人間と動物は別」という見方を広め、人間が動物を食べることに対する罪の意識を軽減していますね。と言うより、罪の意識など最初からないのかもしれません。「子豚を処分する」なんて、「粗大ごみを処分する」のと同じ感覚だモンね。

それに、ご存知のように、「餌」や「食事」という言葉はその物体の本質とは何の関係もありません。人間が「食事」として食べている物と同じ物を犬が食べれば、それは「餌」になります。食べている物が同じでも、それを食べる主体によって呼び名が変わるわけです。なぜ、人間が食べるのと動物が食べるのとでは呼び名を変えなければいけないのか?「餌」という言葉が出てきたのはいつ?誰が使い始めたの?どういう背景から出てきたの?疑問は尽きません。

な~んて正論をぶつと、「楽しい」が幅を利かす現代消費社会ではひかれてしまうのでしょうか?「あんたが言っていることよくわかんないけど、豚肉は好きよ、おいしい!おいしい物いっぱい食って、この人生エンジョイしなきゃ!!」 はい、わかりました・・・。

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植物や動物は、実はしたたか?

2006-09-01 | 見方・視点
このブログにしては大きな反響があった、マイケル・ポーラン教授の動物観。教授の最新作『The Omnivore’s Dilemma(雑食者のジレンマ)』は中々人気があるようで、大学の図書館ではもちろん貸し出し中。他の大学の図書館から取り寄せようとして申し込んでも、2回続けて予約がキャンセルされました(つまり、貸し出された)。そんな事をしているうちに、この週末には旅行に出発。なるべく早く読みたいので借りることをあきらめ、大学の本屋で昨日25%引きで購入しました。「旅行は荷物少なめで行くぞ、ウォー!」と思っていたけれど、400ページ以上あるハードカバーの本を携帯することが決定・・・。

『The Omnivore’s Dilemma』はもちろん内容が評価されているようですが、マイケル・ポーラン教授の前著『欲望の植物誌』がベストセラー&批評家からも絶賛されたので、この新作に注目が集まっていたようです。ちなみに、『欲望の植物誌』は以下のような本らしいです。(←自分で読んでから紹介しろよ)

人間は植物を自分たちの都合のいいように「進化」させてきた。果実には甘さを求め、花には美しさを求め、麻薬には陶酔を求め、主食には容易な管理を求めて きた。人間の欲望が植物改良へと駆り立ててきたのは間違いないが、それを植物の視点から描いたのが本書だ。植物が人間を操って自らを進化させてきた、とい う視点で描かれている点は面白い。リンゴ、チューリップ、マリファナ、ジャガイモと、4種類の植物に関連するエピソードを通して、人間が植物に操られてい る様を描く。

(日経バイオビジネス 2004/02/01 Copyright©2001 日経BP企画..All rights reserved.)

『欲望の植物誌』のほか、『ガーデニングに心満つる日』という本も日本語版が出ているようなので、興味のある方はどうぞ。ポーラン教授は今でこそ大学でジャーナリズムを教える大学教授ですが、元々は環境ジャーナリスト。著書もアカデミックでお堅い文章ではなく、雑誌記事のような感じで読みやすいです。

植物や動物というと、人間との力関係が一方通行だと思いがちだけれど(「人間は植物を自分たちの都合のいいように『進化』させてきた」)、実は両側通行なのですね。植物や動物も客体ではなく、主体としてみる必要がありそうです。以前わたしは、「ペットが可愛いのは、頭が悪くて人間が支配できるから」と言ったけれど、動物も植物も実はかなりしたたかなのかも。人間が植物や動物を操っているならば、人間も植物や動物に操られている!?人間が動物にちょっかいを出しているだけだと思ってそうな作家の坂東眞砂子さんに、ポーラン教授の本をぜひ読んでほしい!?

(写真は久々登場、下宿先の飼い猫、Mr. Marty Dinks。愛称はDinky。表で日向ぼっこをしている最中です。わたしは実はDinkyに操られているのか!?何となくそんな気がしないこともない・・・)

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坂東さんの動物観は根本的に間違っている?

2006-08-24 | 見方・視点
作家・坂東眞砂子さんが日経新聞で子猫を殺していることを告白し、バッシングの嵐に遭っているようです。坂東さんのそのエッセーを読んでわたしが興味を持ったのが、坂東さんの人間と動物の関係に対する考え方。先日紹介した『The Omnivore’s Dilemma』のMichael Pollan教授なら坂東さんの考え方に異議を唱えて「子猫殺し」に反対し、猫の避妊手術を支持するのでは?

坂東さんの動物観や人間と動物の関係についての考え方が現れているのが、以下の段落。

愛玩動物として獣を飼うこと自体が、人のわがままに根ざした行為なのだ。獣にとっての「生」とは、人間の干渉なく、自然の中で生きることだ。生き延びるために喰うとか、被害を及ぼされるから殺すといった生死に関わることでない限り、人が他の生き物の「生」にちょっかいを出すのは間違っている。人は神ではな い。他の生き物の「生」に関して、正しいことなぞできるはずはない。どこかで矛盾や不合理が生じてくる。

坂東さんの動物観は、「動物は野生のまま、自然のままがいい」ということ。だから、人間が猫に避妊手術を施すことに反対なのでしょう。しかし、Pollan教授によると、犬猫、それに牛や豚は人間が家畜にしたのではなく、それらの動物が種として生き残るために自ら家畜になったとのこと。逆説的に聞こえるかもしれませんが、特に牛や豚は人間に肉を与えるからこそ人間の飼育の対象となり、種としてサバイバルしてきたそうです。言い換えると、人間の保護/管理下に置かれたからこそ、北米で絶滅しかけた狼などと違って繁栄してきたのです。坂東さんは、「もし猫が言葉を話せるならば、避妊手術なんかされたくない、子を産みたいというだろう」とおっしゃてますが、もしPollan教授の言うことが本当であれば、猫は人間の管理を自ら進んで受け入れているので避妊手術に同意するのでは?坂東さんがおっしゃる「愛玩動物として獣を飼うこと自体が、人のわがままに根ざした行為なのだ。獣にとっての『生』とは、人間の干渉なく、自然の中で生きることだ」なのではなく、家畜にとっては「生」への本能から、人間に管理されて種として生き残っていきたいのです。つまり、人間が家畜を自分の利益のために利用しているのならば、家畜も人間を自分の利益(種として生き残る)のために利用しているのです。こうして自然界における共存関係が成り立っているのです。

今回のような坂東さんの告白に対しては、「子猫を殺すなんてひどい!」という感情論に走りがちですが、坂東さんの行動に賛成するにしろ反対するにしろ、常に理性を保っていたいものです。猫が大好きなわたしは、「子猫を崖に放り投げる?この鬼畜!テメェこそ俺が崖から放り投げてやる!!神に代わって天罰を下してやるわ~!!」という言葉が喉まで出掛かっていますが、「わたくし、いつもお上品でいたいので、オホホ・・・。」(←???)

余談ですが、坂東さんは「生き延びるために喰うとか、被害を及ぼされるから殺すといった生死に関わることでない限り、人が他の生き物の『生』にちょっかいを出すのは間違っている」とおっしゃてますが、坂東さんはベジタリアンなんでしょうか?坂東さんをバッシングしている方たちというのも当然、動物を殺すことに反対して菜食主義者になった方ばかりなのでしょうね。それとも、子猫を殺すことと違って牛や豚を殺してその肉を食べることは、人間が種として生き残っていくためには必要不可欠だから正当な行為なのでしょうか?

何はともあれ、坂東さんのエッセー・『子猫殺し』を、肉食を含めた人間と動物の関係について考える材料として活用したいものです。そうすることが、坂東さんが殺した子猫たちへの供養にもなるのではないのでしょうか?坂東さん自身の考え方はともかく、坂東さんは人間と動物の関係に対して問題提起をしています。「子猫を殺すなんて鬼畜!」と坂東さんをヒステリックにバッシングするだけでは、何の進歩もありません。坂東さんを非難する前に、肉食を含めた自分の動物に対する考えや態度について考えたいものです。

※プロムナード(日経新聞8月18日夕刊) 子猫殺し―――坂東眞砂子より抜粋

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人間中心主義から生命体中心主義へ

2006-08-18 | 見方・視点
「最も」都合の悪い真実とは?』で紹介した、地球温暖化と肉食の関係について大学新聞に書いていたCPFさん。オレゴンでの森林開発問題に絡んでCPFさん、今度は人間中心主義(anthropocentrism)と生命体中心主義(biocentrism)について書かれていました。この二つの概念、以前わたしは自然観についての記事の中で簡単に紹介しましたが、さすがCPFさん、もっと洗練された記事を書いていらっしゃいました。

CPFさんによると、人間中心主義とは「人間は自然界から分離していて自然よりも優れており、それを支配する存在である」という考え方。そんな人間中心主義者は、人間以外の生命体は人間の利益のために使用する「道具(instrument)」であるとみなします。最近は「エコ」ばやりだけれど、人間が環境保護を支持する理由は何か?「地球温暖化が進んで自然災害が多くなったら嫌だ」、「きれいな空気を吸いたい」等など、ほとんどすべてが人間中心の見方。もし地球温暖化の危機が現在叫ばれていなかったら、わたしも含め、何人の人間が環境保護を支持するのでしょうか?

同じような理由で、自分の健康維持のために肉を食べない人は、動物虐待を理由に肉を食べない人に比べると人間中心主義度が強いと言えるでしょう。もちろん、人間の栄養や享楽のために大量の動物を虐殺することを「仕方がない」と思う人も、人間中心主義度が高いと言えるでしょうね。

人間中心主義とは対照的に生命体中心主義とは、「人間を含めた自然や生命体それ自体に価値がある」と考えること。わたしが先日紹介したディープ・エコロジーとほぼ同じ意味だと思います。人間中心主義者は「地球温暖化防止のために環境保護を」と言うのだろうけれど、生命体中心主義者は、地球温暖化などには関係なく環境保護を主張するのだと思います。

つまり、生命体中心主義者が人間もその他の生命体も主体視しているのに対し、人間中心主義者は、人間を主体視するけれどその他の生命体は客体視する、と言い換えられると思います。このような人間中心主義者にしろ、わたしが先日書いたエリート主義者や自己文化中心主義者にしろ、自己中心主義者の共通点は、自分が主体で他者が客体という見方をしていること。このような見方を「無意識に」しているため、わたしを含め、多くの方が自分が自己中心主義者だとは気付いていないでしょうね。まずは自分の深層心理に潜む自己中心的な部分を認識することが、「脱」人間中心主義への第一歩でしょうか?

(画像は、ユタ州のコロラド川。確か、グランド・キャニオンを通って流れて来ているはず。4月にアムトラック列車の中から撮影。人間の利益に関係なく、自然そのものに価値があると思いたい!)

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