goo blog サービス終了のお知らせ 

oregonian way of life. 

オレゴンでの学生生活から南下して社会人生活へ。IT産業でホットなサンフランシスコ・ベイエリアで地味~に文系の仕事してます

実写版『あたしンち』にジョン・トラボルタ!?

2007-08-14 | 映画
先日鑑賞した映画、『ヘアスプレー』(上の画像がポスター)。ジョン・トラボルタの女装が話題のミュージカル映画です。トラボルタも熱演していたけれど、わたしの一押しは「bitch(ヤな女)」ぶりがハマっていたミシェル・ファイファー(画像下左)。演技力なのか容姿のおかげなのかは分からないけれど(両方?)、ファイファー、「ベッチな女」が似合います。それに、いつも飴をしゃぶってノー天気そうな可愛い女の子の役が似合っていたアマンダ・バインズ(画像下右)もでした。「ちょっと浮世離れしたオバカサン」がわたしの好みですからね。



ちなみに、この映画に主人公の相手役で出演しているザック・エフロン(画像下)という俳優が最近注目されています。ディズニー・チャンネルの人気TV映画『ハイスクール・ミュージカル』に主演し、80年代のダンス映画『フットルース』のリメイク版に主演する話もあるとか。歌って踊れるのでミュージカル映画に引っ張りだこのようで、これから人気がすること間違いなし?レオナルド・ディカプリオがおじさんになった(?)今、次世代のAmerican heartthrob(アメリカの恋人)の座を引き継ぐのはザック・エフロンか?



で、女装が話題のジョン・トラボルタ。『ヘアスプレー』でトラボルタは、主役である少女の母親を演じています。このトラボルタの女装(画像下左)、誰かに似ている・・・。あの顔に体つき・・・。そう、あの『あたしンち』の母にそっくり!もし『あたしンち』の実写版を製作するなら、母役はトラボルタで決まり!ですね。



ちなみに、『ヘアスプレー』のテーマは1960年代の人種融合。わたしが去年、『ダンスしながらアメリカ社会を融合していく?』という記事を書いたけれど、この映画はモロそのパターンです。映画の最後で主人公が白と黒のチェックの衣装で登場したのは、ヨーロッパ系(=白)とアフリカ系(=黒)の融合を意味してのことでしょう。ただし、悪役のミシェル・ファイファーを除いて全ての登場人物が人種融合を大歓迎していたのは、当時は人種融合に対して激しい反発があった史実と異なると思います。まあこの映画はフィクションだし、最後はハッピーエンドで終わるのがお約束だった(?)からよろしいのですが・・・。

何はともあれこの『ヘアスプレー』、観た後ハッピーな気分になるミュージカル映画でお勧めです。日本公開は10月中旬だとか。興味がある方、この映画のホームページにアクセスして「TRAILER」をクリックすると予告編を見ることができます。

人気blogランキングへ(←『あたしンち』ファンには『ヘアスプレー』のジョン・トラボルタは必見です)

21世紀のNY成功物語は、シンプルライフ?

2006-07-17 | 映画
昨日鑑賞した映画『The Devil Wears Prada(プラダを着た悪魔)』。NY(ニューヨーク)にあるファッション誌編集部を舞台に、メリル・ストリープがその雑誌の編集長を演じ、『ブロークバック・マウンテン』のアン・ハサウェイがその編集長の秘書を演じていました。(上の画像はその映画からのワンシーン。)話の主軸になっていたのが、ハサウェイ演じるアンディが、厳しい仕事を通じて人間的に成長すること。ふとしたことで、「A million girls would die for your job」である人気ファッション誌編集長の秘書になったアンディ。ハッピー・エンドだったこの映画、NYで働く女性の成功物語だといってもいいと思います。(この映画に頻繁に出てきた「A million girls would die for your job」という台詞。アンディがゲットした秘書職は、100万人の少女が死んでもいいと思うほど憧れる仕事らしいです。現代日本に置き換えると、民法女子アナに対して「A million girls would die for your job」と言える?)



NYを舞台にした成功物語といって思い出したのが、マイケル・J・フォックス主演の『摩天楼はバラ色に』(1987年、写真左)とハリソン・フォードが出演していた『ワーキング・ガール』(1988年、写真右)。この二つの映画と『プラダ~』は、NYを舞台にした成功物語という点で共通点があるかもしれませんが、約20年前に製作されたこの二つの映画と『ブラダ~』には決定的な違いがあります。『摩天楼~』と『ワーキング~』では、大企業のトップや幹部に昇進するのが「成功」でした。さすが、「ヤッピー」全盛時代に企画、製作、公開されただけありますね。『ワーキング~』の最後では、メラニー・グリフィス演じる主役が、NYの摩天楼とハドソン河を眺望できるガラス張りのオフィスをゲットし、『ガラス=勝ち組』だということを非常に分かりやすく描写していました。

対照的に、『ブラダ~』の最後でアンディがファッション誌編集部から転職した仕事とは?見た目が地味な職場で書類が雑然と積み重なり、その中で従業員が忙しそうに働くメディアの仕事でした。華やかなファッション誌の仕事から、お堅くて地味なジャーナリズムの職場へ・・・。以前のハリウッドが描いた成功方程式には当てはまらないこの「成功」物語。「A million girls would die for your job」であっても自分が望まなかった仕事を辞めて、自分が元々志望していたジャーナリズムの世界へ――。この映画における「成功」とは、周りが羨む仕事を得る事ではなく、自分がしたい仕事をゲットすることなのです。

自分がしたい仕事をする――。アンディのこの転職、『The Simple Life』という本の著者、Charles Wagnerが挙げたシンプルライフの一要素ですね。金や周りの目を気にすることなく、自分の気持ちを偽らずに自然体でいること。約20年前の『摩天楼~』と『ワーキング~』、それにこの『プラダ~』という3本の映画を比較しただけで、「ハリウッド映画におけるNY成功物語は、地位と金中心からシンプルライフに変化した」と言い切ってしまうのは無理があるかもしれません。が、『プラダ~』がそれなりの興行成績を上げているのは、「NYで成功する=仕事も含めてシンプルライフを送る」というこの映画のメッセージが観客のハートをつかんだからでしょうか?

人気blogランキングへ

ゲイのカウボーイ?Oh, My God!!---映画『Brokeback Mountain』

2005-12-31 | 映画
オレゴン州最大の都市・ポートランドに滞在しています。ここにある自然食品スーパーのパーソナルケア売り場をチェックしていると、「Cowboy」というブラン名の男性用パーソナルケア製品(写真)が目に入りました。女性をメイン・ターゲットにした製品が多く並ぶパースナルケア売り場。そんな売り場に行きづらいと思う男性が多いようです。そんな男性だってこの「Cowboy」が目的であれば、堂々とパーソナルケア売り場に行ける。そういう考えもあって、カウボーイというネーミングにしたのでしょうね。



カウボーイといえば、今年度のゴールデングローブ賞に、作品賞を始めとする最多部門ノミネートしている映画『Brokeback Mountain』(写真上)。二人のゲイのカウボーイが主人公、ということが話題になっているようです。大都市から順次拡大公開しているようで、わたしが住んでいる町ではまだ公開されていないのですが、ポートランドでは公開されているので鑑賞しました。

この映画のウリである、「gay cowboy」。矛盾語法(oxymoron)とも取れるようです。カウボーイというのは「男の中の男」というか、(保守的な)アメリカ人男性の「icon」的存在です。多くの西部劇でジョン・ウェインがカウボーイを演じ、アメリカ人が理想とする男性像を体現している、と言われていたはず。アメリカ文化において、男の代表と位置付けられているカウボーイ。「女々しい」ゲイのカウボーイを描くことで、そんな位置付けに堂々と挑戦する映画の出現に、少なくないアメリカ国民がショックを受けている様子です。

戦後、マルボロというタバコメーカーがカウボーイを広告に使用し、この「Marlboro Man」は、American manhoodというか、アメリカ人男性気質のシンボル的存在になりました。映画の主人公のように、自然の中で一人、または少人数で黙々と働くカウボーイというのは、一般的に使われる「フロンティア・スピリッツ(開拓者精神)」の体現者。このような男性こそが、このアメリカという国を切り開いてきたのだという、ある意味で誇りがあるようです。(もちろん、こんな考え方は今では賛否両論ですが、ここでは触れません。)ブッシュ大統領がテキサスの牧場に暇があれば帰っているのは、単なる気分転換以上の意味があると思います。ゲイが主人公の映画といえば、10年位前にトム・ハンクス主演の『フィラデルフィア』がありましたが、その主人公は確か、大都市に住む弁護士でした。「(腐敗した)都会に住む(悪徳)弁護士」がゲイでエイズに感染した、というのはまだ許せても、「開拓者精神の体現者であり、アメリカ人男性のシンボル的存在」であるべきカウボーイがゲイであるというのは、アメリカ文化の根本を揺さぶる大事件!

ちなみにこの映画、1963年から20年間という時代設定になっていました。ゲイ権利運動の始まりとされる、ニューヨークでの警官によるゲイバー摘発に対して多くのゲイが抵抗したのが、1969年。1970年代には、ニュークークやサンフランシスコなどの両海岸の大都市を中心に、ゲイが市民権を得てきたのはご承知の通り。しかしこの映画は、作り話とはいえ、ゲイがいたのはそんな「堕落したリベラルな、両海岸の大都市」だけではなく、アメリカのHeartland(中心)と呼ばれるワイオミングやテキサスなどの田舎にもゲイがいた、という設定になっています。Heartlandの田舎にもゲイがいた、ということは言い換えると、アメリカ中どこにもゲイがいた(いる?)ということです。保守的なアメリカ人にすれば、「Oh, My God!!」って感じでしょうね。

映画自体はどうだったか?映画批評家とわたし個人の趣味(おバカさんコメディ好き)というのは、基本的に一致しませんので・・・。(地元紙の評価では、『Brokeback Mountain』は満点の☆☆☆☆。わたしが気に入ってリピートして観た映画はたったの☆!)日本でもおそらく近々公開され、「良かった」とか「愛とは何かを考えさせられた」とか、分かったような分からないような感想がブログに氾濫するのでしょう・・・。

人気blogランキングへ

靴=ハート --- 映画『In Her Shoes」

2005-12-16 | 映画
隣町に(といってもこの町との境だけど)、時期遅れの映画を1ドル50セント、水曜日は1ドルで観れる映画館があります。水曜日だった昨日、日本では先月封切になったキャメロン・ディアス主演の『In Her Shoes』を鑑賞してきました。アメリカでは確か10月に公開され、地元の新聞が高く評価した映画ですが、特に興味がなかったので1ドルで観れるまで待っていました。

「In one’s shoes」というのは英語の慣用句で、「相手の(one’s)立場に立ってみる」という意味。タイプが正反対の姉妹が主役のこの『In Her Shoes』は、最後にお互いが歩み寄るまでを描いた映画です。相手の靴をはいて自分を相手の立場に置き、相手の気持ちを推し量ってみよう、という意味からか、この映画では、靴はハート(心)のメタフォー(隠喩)として使われています。姉はおそらくプリンストン大学出身で、現在はフィラデルフィアに住む弁護士という設定。裕福だけれど、家族やボーイフレンドには恵まれておらず、その代償のごとく靴を買い漁っています。しかも、どれもがハイヒール。姉は地味で、ハイヒールを履いていくパーティなどに、そんなに出かけているようには見えません。つまり、必要だからハイヒールを買っている、というわけではないようです。その証拠に、多くの靴が使われずにクローゼットにしまいっぱなし。大きなクローゼットにしまわれた大量の高価なハイヒールというのは、ある意味姉の経済力を表していますが、それ以上に、姉にとってこれら大量の靴というのは、本当は自分が一番欲しい愛情の代わりです。母は随分前に亡くなり、自分とはそりが合わない継母。同僚の弁護士の婚約者ができて、「もうすぐ家族になるんだから君の妹紹介してよ」と言われても、半分売春婦のような妹は紹介したくない・・・。その婚約者が姉に言った、「君は、自分の心を僕に閉じているよ」という言葉は、クローゼットにしまわれっぱなしの靴が雄弁に物語っています。秘密のこと(特に同性愛)を公言することを、英語で「come out of the closet(クローゼットから出てくる)」という表現を使用するように、クローゼットというのは、自分の一番プライベートというか、「素」の場所。家→自分の部屋→クローゼットの順に、プライベート度が上がっていきますよね?そんなクローゼットにしまわれっぱなしの靴というが、姉が自分の心を閉じているということを表している、とわたしは思いました。

映画の最初の方では、姉の靴を妹が履くぐらいでしか、つまり物質面でしかお互いの共通点を見い出せなかった姉妹。ところが、英語の最後のほうで妹役のキャメロン・ディアスが姉に何度が言った、

I carry your heart. I carry it in my heart.
(姉さんのハートをずっと持ってる。自分のハートの中には姉さんのハートも入っている、みたいな訳でいいのかな?)

という言葉は、姉妹が精神面でつながったことを表しています。映画の最後では心が結びついたのです。

この映画は、姉妹が主役だから成り立った映画であって、兄弟では成り立たなかったでしょうね。現代のジェンダー認識では、女性が靴に興味を持って、姉妹でお互いの靴の借り貸しをするのはOKですね。しかし、男性が靴好きで買い漁り、兄弟同士でお互いの靴の借り貸しをする、というのは多くの人が「変」だと思うはず。先日このブログで言ったように、アメリカではファッションに興味を持つ男性はゲイだという認識(偏見?)がありますから。それに「マーケット(市場)」というのができて以来、ぶっちゃげていうと「男性=生産者」、「女性=消費者」というジェンダー認識(偏見?)もあります。女性がショッピング好き、というのは世間的にOKですね。「In one's shoes(相手の立場に立ってみる)」という慣用句を実際に行動に移そうとしたら、女性同士ならいいけど、男性同士というのは消費社会におけるジェンダー認識が許しません。

「パラダイス工場」が意味すること-映画『チャーリーとチョコレート工場』考察

2005-11-02 | 映画
昨日はハロウィーン。ハロウィーンといえばチョコレート。チョコレートといえば、しばらく前に映画『チャーリーとチョコレート工場』を観ました。日本では9月10日に公開されたようですね。



この映画の「売り」は工場内。そこで招待者が最初に案内された広場は、まさに「豊かな(abundant)パラダイス」(写真上)。聖書に描写された「乳と蜜の流れる場所」ならぬ、チョコレートの川が流れる場所でした。また、工場がある町が白黒で薄暗い印象だったのと対照的に、この広場はカラフルでした。「色」というのはガラスや光とともに、元々教会のステンドグラスのように、「あの世」、つまり天国を表すために用いられてきたもの。アーミッシュの人たちにとっても、ろうそくの光は神を表すそうですし。このガラス、光、そして色は、消費社会の到来ととものに、デパートをはじめとする商業施設が積極的に利用して、モノで溢れた「この世」のパラダイスを演出するようになってきました。

しかし、このパラダイスも、チョコレートを大量生産する近代的工場の一部であることに変わりはなく、いわば「パラダイス工場」という矛盾語法(oxymoron)的な場所でした。このoxymoronは、ジョニー・デップ演じる「怪しげな魔術師のような工場経営者」にもあてはまります。パラダイスでは、現実世界の人間が直面する「苦労」や「不安」などとは無縁。経営者は全ての問題は魔法で解決し、ハッピーに暮らしていたようです。たいてい映画は、2つの相反する世界や時間、人物をきっちり分けている場合が多いのですが(「都会」と「田舎・自然」、「現代」と「未来または過去」、それに「会計士」と「ダンサー」など)、この映画は、工場にもそこの経営者にも二面性を持たせていました。

時代設定もファジーでした。映画の冒頭では、これは100年ほど前の、工業化が進んでいた時代が舞台だと思いました。主人公の貧乏家族も、いかにもその時代の人たちといった感じでした。工業化の前には教会があったであろう町の中心部に、今はチョコレート工場がでーんとありましたし。しかし、その工場に招待された他の4人の「罰せられた子どもたち」は、紛れもなく現代の子どもたち。場所、時代設定ともにファジーなのが、この映画がおもしろいひとつの理由でしょうか?特にこのようなファンタジー映画は、現実離れすればするほどおもしろいと感じますから。

この「パラダイス工場」の従業員がいわゆる有色人種だったのは、単なる偶然ではないと思います。マルコ・ポーロの昔から、「黄金の国ジパング」がヨーロッパで知られていたように、豊かさはエキゾチックなものと結びつけられています。コロンブスが航海に出たのも、インドに香辛料を求めてでしたし、インドだと勘違いして上陸したキューバ(でしたっけ?)では、いかにその土地が果実が実った桃源郷のような所であるかのような記述を残しているようです。砂糖、コーヒー、バナナ、それにチョコレートなど、現在先進国では当たり前の食べ物は、もともと有色人種が住んでいた南国のもの。ヨーロッパ人やその血を引くアメリカ人にとって、豊かさのシンボルとは、しばしばエキゾチックなものなのです。

砂糖は元々アフリカから奴隷を連れてきて、カリブ諸島で大量生産をしていたもの。アメリカに砂糖やバナナなどが大量に入ってきたのも、1898年に起こった米西戦争の結果、アメリカがフィリピン、グアム、プエルトリコなどのスペイン植民地を獲得してからだそうです。つまり、南国産の食べ物がヨーロッパやアメリカで手に入るようになるのは、帝国拡大主義の成果。同じように、「パラダイス工場」では、ジョニー・デップ演じる経営者が、つまりヨーロッパ人が有色人種を「征服」していました。デップがどこかのジャングルで出会ったその有色人種は、現地に住む部族の頭のような風貌で、毛虫をつぶしてゼリー状にしたものを、嫌がるデップに半ば強引に食べさせます。この時は、両者の力関係は有色人種の方が「上」でした。しかし、この有色人種は小人となって(デップが魔法をかけた?)「パラダイス工場」を管理するようになっていました。文字通り、デップの「下」で働くようになったのです。



チョコレートを世界中に大量生産・出荷するには、生産管理をして作業の効率化を図ることが不可欠。「非文明」のもとで育ったその有色人種を「大量生産」し(写真上)、工場内のあらゆる場所を管理させることによって、その有色人種を「現代文明」に組み入れていました。大量生産時代は、土地、動物、それに工場作業員など、生産過程に組み込まれているものは全て「管理」する必要がありますから。しかし、ここは工場であると同時にパラダイス。工場に招待された子どもが次々に「罰せられる」たびに出てきて踊りまくるこの「大量生産された有色人種」は、工場をしっかり管理する「現代人」であるだけではなく、昔からの伝統行事であるカーニバルの精神もしっかり持ち合わせています。パラダイスは楽しい場所であるのが基本ですから。

豊かさは賛美するが、いわゆる「豊かな社会」で育った子どもは甘やかされてしまうのが気がかりだ、という相反する感情もこの映画に反映されていました。大食いの子ども、空手が強くて多くのトロフィーを手に入れ、生意気になっている子ども、父親の財力に任せて欲しいものは何でも手に入れようとする子ども、それに、コンピュータ・ゲームにはまり、やたら挑戦的になっている子どもなど、その工場に招待された「甘やかされた4人の子ども達」は次々に「罰」を受けていきます。最後に残ったのは、貧乏だけど心がピュアな少年。結局この少年も、最後には確かこの工場で働くようになって、それなりに生活は豊かになっていくようですが。その豊かさの象徴としてでてきたのが、夕食のローストチキン(おそらく)。「豊かになる=肉を、ステーキやローストで食べる」という昔からある方程式は、現代でも通用するようですね。

何はともあれ、子どもだけでなく大人にも大人気のチョコレート。そのチョコレートを現代、わたし達が簡単に手にできるのも、元々はアングロサクソン主導の帝国拡大主義と産業革命のおかげなのですね。「美しいバラにはとげがある」ではないけれど、甘いチョコレートには、間違いなく「血と汗」が含まれています。

人気blogランキングへ