oregonian way of life. 

オレゴンでの学生生活から南下して社会人生活へ。IT産業でホットなサンフランシスコ・ベイエリアで地味~に文系の仕事してます

春休みでポートランド♪

2007-03-30 | 
ポートランドから、おっはようございま~す!

昨日から一泊二日でポートランドで遊んでいます。世界で一番大きな独立系本屋『Powell’s Bookstore』や、アメリカ食産業における時代の寵児、Whole Foods Marketをチェックし、ローカル経営のコーヒーハウスでこうしてブログの更新・・・。デンバー、シカゴ、セントルイス、ボストン、ニューヨークなどの大都市を去年訪れたけれど、アメリカの大都市の中ではやっぱりポートランドかな。街の賑わい(混雑しているのは×)、歩きやすさや公共交通機関の発達度、コーヒーハウスの充実度、それにプランタン・フレンドリー度などを基準にするとだけれど。ミネアポリスも良かったし、フィラデルフィアもまあまあでしたね。



昨日はダウンタウンにあったプランタン系屋台(写真上が看板)で、「生姜味噌米麺炒め」(6ドル、写真下)なるものにトライ。写真で見ると雑に見えるけれど味は良かった、と言いたいところなんですが、味も今イチでした。全体的にベチョッとしてて・・・。でも、味が濃くて胃がもたれるなんてことはなかったです。ちなみに、その屋台の前でヒッピー系青年二人が「神がどうだ、愛がどうだ」など、崇高な議論を熱く交わしていたのが印象的でした・・・。



8ヵ月ぶりに訪れたポートランドで気付いた一番大きな変化が、宿泊先のユースホステルが32ベッドから100ベッドに拡大していたこと。一番上の写真がホステルの新館です。ポートランドはサンフランシスコとシアトルに挟まれて影が薄いけれど、観光客が増えているのだろうか?サンフランシスコやニューヨークのように、観光客がうようよしている街にポートランドはなってほしくないけれど・・・。

以下は次の日付け足し。

昨日はポートランドのHawthorne通りにあるベトナム料理店でランチ。料理名は忘れたけれど、やはり米麺を使用したプランタンメニュー(写真下)をオーダー(わたしは麺食いです)。これは、麺と生野菜のさっぱり感に豆腐などを使った揚げ物がいい感じでミックスされていてA+の味でした。



人気blogランキングへ

書き方は重要です

2007-03-28 | その他
どのくらいの人が認識しているか分かりませんが、書き方、重要です。同じような事を言うにしても、書き方を変えることでがらっと意味合いが変わります。

ということをさきほど、マーフィーさんのコメントを読んで痛感しました。

>資料が無いから捏造だと言われますが、極秘資料が表に出てくるのは、かかわった方が亡くなってからか、良心の呵責にうたれたときくらいでしょう。しかも大半は処分されているかもしれないです。< (マーフィーさんのコメントより)

マーフィーさんのおっしゃるとおりかもしれません。でも、もし資料や証拠がないのなら、それらがない、ということを示せばいいだけの話です。例えば、

「日本に英語を広めるためにアメリカは戦後、NHKの英会話講座にどんどん財政援助をした」

と断定すると、「証拠があってそう言ってるの?」ということになります。ところが例えば、

聞いた話しで確かではないけれど、英語を広めるためにアメリカは戦後、NHKの英会話講座にどんどん財政援助をしたらしい。まあ、戦後のGHQならやりかねない」

と言えば、「あ~、そうかもね」ということになります。「聞いた話しで確かではないけれど」と前置きをし、「・・・・らしい」という推論口調をすることで、「どこに証拠がある!」というツッコミをふせげます。

マーフィーさんが、

「畜産業界の反発をかわすには、植民地に売りつける必要があり、みごとに選ばれたのは敗戦国、日本!」

と断定して言うから、「何を根拠にしてそう言い切ってんの?」という疑問が生じます。証拠がないのに断定し、「植民地に売りつける」や「敗戦国」などのセンセーショナルな言葉を使用すると、「マーフィーさんの目的は反米感情を煽り立てることか?」と思われるリスクがあります。

でも例えば、

「『牛肉が心臓病の原因』などと政府が言うものなら、畜産業界からの反発は必至。アメリカ人の牛肉消費量を減らしても生産量を減らさないためにはどうしたらいいか・・・。その一つの解決策として、海外へ牛肉をもっと輸出しようということになったのではないか

と言えば、推測していることを示しています。こういう書き方をすれば、「う~ん、ありえる話だね」ということになります。

わたしは中西部と東海岸に去年、現在取り組んでいるプロジェクトの資料集めに行ったけれど、資料が100%完璧に集まったわけではもちろんありません。「こういう資料があればな~」と期待しても、ない場合があるわけで。資料がなくて分からない部分は「分からない」と示すしかないのです。例えば、ある食博覧会で、フィラデルフィア料理学校長がある食品会社のブースの飾り付けをしたという話。

「料理学校長が飾り付けをさせてほしいと頼んだのか、食品会社の方から依頼したのかは分からないけれど、その学校長が飾り付けに興味を示していたのは確である」

という書き方をするしかないのです。本当は、料理学校長の方からアプローチを取ったことを証明する資料があると、テーマ上わたしには有利なんですが。

「資料や証拠がない=何を言ってもいい」ということにはならないし、資料や証拠がなくても物事を論じることはできます。証拠なしに推測で論じている、ということを示せばいいだけの話です。わたしは、「資料がないから捏造」だとは言っていません。でも、証拠がないのにあるがごとく断定するのは、捏造になるのかもしれません。それに、資料や証拠がないのにそのことに触れずに断定的な言い方をするから、「資料や証拠があるの?」というツッコミが入るのです。推測や想像で物事を論じるのは結構。ただし、きちんとそう示すなら。「あくまでも想像上の話だけれど・・・」や「真偽のほどは不確かだけれど・・・」など、便利な日本語を活用したいものです

要は、書き方の問題です。

人気blogランキングへ

安藤美姫&浅田姉妹で「新・モーニング娘。」結成!?

2007-03-25 | その他
今日閉幕する世界フィギュア。わたしが去年10月にボランティアをしたスケートアメリカに出場した選手が多数エントリーしていたので、注目していました。スケートアメリカは、2006年のグランプリ・シリーズ全6回の第1回目。本格的なフィギュアスケート・シーズン幕開けを告げる大会でした。そのスケートアメリカ&今回の世界フィギュアに出場した多くの選手のうちの二人が、安藤&浅田選手。そこで、両選手が世界フィギュアでワンツーフィニッシュを達成したのを祝して(?)、5ヵ月前に行われたその大会での両選手の印象に、今更ながらズームイン!!

安藤選手には、いい意味での変貌振りが記憶に残っています。わたしの安藤選手に対する第一印象は、「硬い」。大会開始前だから?人見知りをするから?とにかく強張った感じがあって「もっとハキハキせんかい!」とわたしは思ったほど。そんな硬い表情だった安藤選手がノーミスでショートプログラムを終えた後、少し饒舌気味になるほど「ホッ」とした表情に変わったのが強く印象に残っています。アメリカのプレスから、「オリンピックの時とは別人のように自信を持って滑っていた」という感想まで出ていましたね。結果論でいえば、スケートアメリカでのショートプログラムが、「2006年2月、トリノオリンピックで惨敗した安藤美姫」から「2007年3月、世界選手権で優勝した安藤美姫」への転化点になったのではないでしょうか。

オリンピック前まではアイドル扱いされていた安藤選手ですが、わたしの印象はどちらかといえば「職人」。オリンピックの後にはご自分が初めてスケートを習ったコーチの下で基礎からやり直すなど、強いこだわりを持ってトレーニングしているように感じました。

安藤選手よりは浅田選手のほうがアイドルっぽい感じがありましたね。スケートアメリカでの浅田選手の印象は、よくいわれる「天真爛漫」。悪い意味ではなくて「お子チャマ」だと思いました。世界フィギュア開始前に『絶好調の真央、不安が残る美姫』というタイトルで報道したプレスがあったけれど、わたしがスケートアメリカ前に報道していたら、『余裕の真央、硬さが残る美姫』というタイトルになっていたでしょう。浅田選手は公式練習で「三回転ジャンプなんて簡単よ、ほらね!」という感じで「軽く」三回転ジャンプをこなしていたので、天真爛漫で緊張知らずのままスケートアメリカでも優勝するのかな、と思っていたけれど・・・。ショートプログラムは期待通りの1位。が、女子ショートプログラムが行われた次の日にわたしが開催地のハートフォードからボストンに移動して入ってきたニュースは、「浅田選手、フリープログラムで失敗して総合3位」。驚きました。

今回の世界フィギュアでも「絶好調」だと報道されながらも、ショートプログラムでまさかのミス。けれど、まだまだ心身ともに発展途上の浅田選手。スケートでの活躍だけではなく、スケートアメリカに一緒に出場していた姉の浅田舞選手のようなレディに成長してほしい、というのがわたしの勝手な願いです。

安藤選手と浅田選手、それぞれのキャラクターを活かしながら更なるご活躍を期待しています。

... といったところで気付いたのですが、安藤選手と浅田姉妹のイニシャルは三人とも「AM」ですね。「AM=モーニング」ということで、この三人で「新・モーニング娘。」を結成したら、本家のモーニング娘。よりも売れるんじゃないでしょうか?氷上でジャンプやスピンを組み入れて歌うと、かなりのインパクがあると思います。三人それぞれの持ち味が合わさると、結構おもしろいハーモニーが出来上がるんじゃないかな。もちろん、三人ともソロでも十分いけるし。それか、本家にまた新メンバー三人を加えるそうですが、その三人よりもスケート界のモーニング娘。三人を加えたほうが人気が出るような気がします。どうでしょう、つんく♂さん?(←おバカなこと考えてんじゃない!

(写真は時事通信社、YAHOOニュースより)

人気blogランキングへ

牛肉普及はアメリカの陰謀?

2007-03-23 | 動物の死体
今月初め、Thomas Eagleton元上院議員がお亡くなりになったというニュースが流れました。Eagletonさんは1972年の大統領選挙において民主党の副大統領候補になった方で、その時大統領候補だったのがジョージ・マクガバン(George McGovern)、当時上院議員(上の画像)。結局、共和党のニクソン氏に敗北したわけですが。

マクガバン氏は1960年代終わりから1970年代にかけて、Committee on Nutrition and Human Needs という上院(Senate)が設立したアメリカの食状況を調査する委員会のトップだった方です。その委員会が 1977年に発表したのが、Dietary Goals for the United States。この報告書、わたしは読んだことがないのですが、アメリカ人は果物、野菜、穀物、鶏肉、魚をもっと食べ、逆に、牛肉、卵、脂肪分が多く含まれる食品、バター脂、砂糖、塩分の摂取を減らし、全乳から無脂肪牛乳に変えること、という調査報告をしたそうです。このアドバイスは今でこそ当たり前だけれど、1977年当時は牧場経営者、卵や砂糖業者、それに酪農業者などが、自分たちが生産している食品が不健康だとアメリカ議会(Congress)が国民に伝えている、と猛反発。特に、マクガバン氏の出身州だったサウス・ダコタの牛肉生産業者たちが、報告書の即時取り下げを要求したとか。そのような反発もあって、1977年終わりに発表した改訂版では、「肉の摂取を減らそう」という否定表現が、「飽和脂肪が少ない肉や魚を選ぼう」という肯定表現に変わったそうです。まるで、前者が菜食主義志向なら後者はロハス志向のよう

この報告書が画期的だったのは、アメリカ政府が初めて"eat less"の指針を出したこと。それまでは"eat more、"つまり、いろんな種類の食物をどんどん食べなさい。それが今回初めて"eat less、"つまり、肉、卵、砂糖、塩分の摂取を減らしなさい、という指示を出したことで、"eat less”だと名指しされた食産業から反発が出たのは当然でしょう。この報告書の影響かどうかは知らないけれど、1977年を境にしてアメリカでの牛肉消費量は下り坂のようです。日本が牛肉の輸入自由化を1991年に始めざるを得なかったのは、米国内で需要が減っているから?

最近、アメリカによる日本での"牛肉普及陰謀説"が普及しているようで、日本はアメリカの牛肉押し付けの被害者だと思っている方もいるようだけれど、日本人ってそんなに"受身"だっけ?確かに戦後、アメリカの財政援助でキッチン・カーが各地を走って洋食普及に一役買ったことが、肉をはじめとする洋食の味を多くの日本人が覚えて牛肉の需要が増えた一要因かもしれません。でも、戦後直後の英語ブームもそうだけれど、日本社会や文化状況に英語や牛肉を”積極的に”受け入れれば何かしらの”得”になる要素があるんだと思うな。具体的にどういう要素があるのかは、わたしは分からないけれど。「戦勝国のアメリカが、自国で需要が減っている牛肉を敗戦国の日本に押し付けている」というような一方通行の力関係しか見ないのは、「日本人は受身で、アメリカの圧力にしり込みする臆病者」だと認めているようなもの(←実際、そうだったりして?)。Michael Pollan教授が「動物や植物は、人間が思っている以上に能動的でしたたかである」と主張しているように、アメリカ産牛肉も(安全でさえあれば)日本人が能動的に、というより積極的に受け入れている部分もあるのでは?

物事を二者に分けて考える場合、「Aが善/良/強/主体でBが悪/弱/客体」のような単純な二極思考の罠に陥らないようにしたいものです。例えば奴隷制度について学習する場合、「残酷な白人と、奴隷にされた可哀相な黒人」という見方だけで満足していては進歩がない。普段から奴隷制度にちょくちょく反発していた奴隷や、自分の日常生活が少しでも楽になるように工夫していた奴隷など、多くの奴隷が限られた状況でもagencies(能動的に起こすパワー)を活用していました。「奴隷にされた可哀相な黒人」という見方だけでは、実際に奴隷を経験して死んでいった方たちに失礼です。同じように米国産牛肉に関しても、「アメリカから牛肉を押し付けられている可哀相な日本」という見方だけで満足したくないな。

事実を確認せずに妄想だけ広げて、「日本の牛肉普及はアメリカのせいだ!」と叫んでいては、「大量破壊兵器の発見」を大義名分にイラク戦争を始めたどこかの国の大統領と変わらない。このような妄想者に限って、というかだからこそ、自分は善良者だと信じて疑わず、「戦争反対!世界平和実現!」などと臆面もなく言うからたちが悪い。自分こそが、二者間の対立や強弱関係を強調した”戦争思考”を増長していることに気付いていないんだよね。

人気blogランキングへ

近代化と遠い「死」

2007-03-21 | 動物の死体
わたしが好きな本の一冊が、アメリカ環境史研究の第一人者、ウィリアム・クロノン教授が著した『Nature’s Metropolis(自然のメトロポリス)』(1991年)。中西部の大都市、シカゴが19世紀、周辺地域から穀物や木材、それに家畜などを集め、それらを基盤として産業の中心地となっていった過程を克明に描いています。

この本の中に、食肉生産の産業化とその影響に関する章があります。クロノン教授が指摘する影響の一つが、"殺"や"死"が多くの市民から遠い行為になった、ということ。19世紀中旬頃までは各個人、または各コミュニティで動物を殺して肉を得ていたのが、食肉工場がシカゴに集中するようになると、"殺"や"死"という行為を実際に見たり意識したりする機会がなくなったそうです。それに、シカゴで動物から食肉へと"変身"し、冷蔵されて汽車で各地に運ばれて店頭に整然と並べられても、「この商品はかつて、自分のように息をしていたんだな~」などと消費者が思い起こすことはない。つまり、食肉生産の近代化において消費者は、"食べる"というのは"死"が絡む道徳的行為だということを忘れてしまった、とクロノン教授は述べています。

えっ?自分はプランタン/ベジタリアンだから殺した生き物は食べていない?動物の死体を直接自分の口に入れなくても、機械を使用して穀物の収穫をしているとモグラなどの生物を知らずに殺しているらしいので、間接的とはいえ、他の生き物の命を奪う上で自分の命を支えていることには変わりがない。そういう意味で、日本語の「(命を)いただきます」は理にかなっているのでしょうか?

マーフィーさんがオートメーション化された犬猫の殺処分について書いていたように、近代化に伴って「死」という行為に対する意識が薄くなったのは、19世紀のアメリカ中西部だけではなく21世紀の日本も同じようですね。日本社会における肉食の繁栄とオートメーション化された犬猫の殺処分というのは、リンクしていると思います。どちらも、「殺」や「死」が物理的にも意識の上でも遠い。動物の「殺」や「死」が多くの人間から遠い現代社会で、人間と動物の関係に疑問を投げ掛けているという点では、アニマル・ライツという概念や活動は評価できると思います。そこで思い出したのが、ある作家の"子猫殺し"。誤解を恐れずに言えば、マーフィーさんの記事に出ていた行政に”処分”を任せた人よりもその作家のほうが、動物の"死"を意識して自ら"殺"に直面したという点で評価できるのかもしれません。

人間界と自然界だけではなく、人間と動物も明確に分離する現代社会。肉の需要が高まれば高まるほど比例して殺される動物は多くなるけれど、皮肉なことに、そんな動物が直面する「殺」や「死」に対する意識が消費者には皆無・・・。と言うより、そんな意識がないから肉食が繁栄する?やっぱりこの現代社会って、摩訶不思議。

(上の写真は、丁度半年前に訪れたマサチューセッツ州にあるシェーカーズ・ビレッジ内で撮影。肉を食べる是非を巡って、シェーカーズ教徒の間でちょっとした論争があったとか。ちなみに、写真のような牛を自らの手で殺してまでその肉を食べたい消費者って、どのくらいいるんだろう?)

人気blogランキングへ

フェア・トレードのアパレルも主流に?

2007-03-20 | 消費文化
ファッション業界とメディアが共謀して(?)設定しているオシャレの基準を取り入れている方に朗報です。先日、自然食品やオーガニックがオルタナティブな運動から主流産業(?)に変貌していると言ったけれど、アパレル業界ではフェア・トレードも主流になりつつあるのだとか。

やはり『タイム』誌から参照。去年の9月、ウィスコンシン州マディソン郊外で発足したFair Indigoは、主流社会が基準とするファッション性を売りにしているフェア・トレードのアパレル・メーカー。カタログ販売が中心だけれど、マディソン市内に去年11月、直営店をオープンしたそうです。床と棚、それに服をかけるハンガーは竹製で、壁はwood pulp(パルプ)製。客は衣服に付いているバーコードを通して、その製品が作られた工場の情報が入手できる仕組みになっているのだとか。(余談ですが、ある雑誌の調査で、マディソンは歩き回りやすいアメリカの都市第一位に選出されていました。フェア・トレードのコーヒー・ハウスも多いし、やはり、アメリカ社会の最先端を知りたいのならマディソンなどのカレッジ・タウン、お勧めです。上の写真は、マディソンにあるウィスコンシン大学内で去年の5月撮影。なぜリンカーン像があるのだろう?)

これは地元の新聞から。ロックバンド、U2のボーカル、ボノがアフリカとの貿易や雇用増大を目的に2005年、アイルランドにEdun Apparal Ltd.という名のアパレルメーカーを設立。アフリカでTシャツを製造し、それを無地のままオハイオ州マイアミ大学のある学生団体が買い上げているそうです。学生は無地のTシャツに"I know who made my shirt, do you?"(俺は自分のTシャツを作ったのか誰か知ってるぜ!テメエは自分が持ってるTシャツ、誰が作ったのか知ってんか、ワレ~!)というメッセージをプリントし、キャンパス内のほか、other organizations(他のフェア・トレード団体?)に販売しているのだとか。アフリカでの雇用や貿易促進につながるだけではなく、学生はビジネスにおける社会責任について考え、実践する機会があるという、まさに一石二鳥。(←この表現って、アニマル・ライツ違反?政治的に正しくない、politically incorrectな表現かも)

食の分野では生産者に関する情報提供が進んできているけれど、これからの時代は誰がどこでどのような環境で自分の服を作ったのかも知っていないとクールじゃない!?

人気blogランキングへ

「オーガニック vs. ローカル」のジレンマ

2007-03-19 | 
去年11月に訪れたペンシルバニア州フィラデルフィア。そこである日、リンゴを買おうと思ってWhole Foods Market(世界最大の自然食品スーパー・チェーン)に入りました。店内にはorganic とconventional(農薬使用)の二種類のリンゴが。Conventionalには見向きもせずにオーガニック・リンゴを手にとって見ると、その産地は西海岸のワシントン州。「う~ん、ここは東海岸だぞ。何千キロ運ばれてきたんだ?」と、自分も西海岸から東海岸まで運ばれてきた(?)ことを棚上げして、しばし買うのを躊躇してしまいました。恐らく、Whole Foods Market用にリンゴ栽培をしている大農園がワシントン州にあるのでしょう。でもな~、リンゴだったら秋の東海岸でも栽培されているはず。晩秋の東海岸にいて西海岸産のリンゴを買うのもな~、と思いつつ、結局買いました。皮をむかずにかじるつもりだったので、もし地元産だったとしても農薬使用のリンゴを買う気は最初からなかったです。(余談ですが、Whole Foods Marketが、やはり自然食品スーパー・チェーンであるWild Oatsを吸収する形で合併することを先月発表しました。益々巨大化するWhold Foods。ちなみに、Wild Oatsの本部はコロラド州ボルダー。写真は去年4月、そのボルダーで撮影したWild Oatsです。)

地元でオーガニック栽培された食材が手に入るのが一番なんだろうけれど、日常生活においてオーガニックとローカルのジレンマによく直面します。遠くから運ばれてくるオーガニック食材と農薬使用の地元産食材、どちらを選ぶべき?「地元」って具体的にどの範囲を指すの?

これらの疑問について論じた記事が、先々週発売になったニュース週刊誌『タイム』に掲載されていました。この記事を執筆したJohn Cloudさん自身の結論を先に述べると、オーガニックよりもローカル、だということ。Could さんはローカル農業をサポートするCommunity Supported Agricultureというプログラムに参加していて、地元の有志といっしょにローカル農業に出資し、週一(冬季は月一)食材を自宅に届けてもらっているそうです。(「ローカル農業」と言っても、Cloudさんが住んでいるマンハッタンから300キロも離れているけれど。)そのプログラムの目的は、食材はスーパー・マーケットが作るのではなく、人間が汗水と土にまみれて作るということを消費者に実感させること。消費者は実際に農作業を見学することもできるそうです。生産者と消費者の結びつきを強めることが目的の、このCommunity Supported Agriculture。昨日の記事と関連させて言い換えると、食産業が促進してきた自然界と人間界の分離を再び合体させようという試み、とも言えると思います。

このプログラムを通じてCloudさんは無農薬の野菜を入手しているけれど、果物は農薬使用。それに、卵を産む鶏は放し飼いとはいえ、その餌・・・・・・じゃなかった!「食事」には農薬使用の穀物を与えているのだとか。自分の口に農薬が入るのは気になるけれど、何千、何万キロも離れた場所から運ばれてくるオーガニック食材よりは、自分が食べる食材の栽培場所がわかるローカル食材を選ぶ、とCouldさんは述べています。

その記事の中で興味深かったのが、シリコンバレーに本社があるGoogle内のカフェテリア、「Café 150」の話。2004年にフード・サービス部の部長、John Dickmanさんが入社したとき、Googleのカフェテリアの基準はオーガニック。しかしその後、Dickmanさんはオーガニックよりもローカルを重視する方針に変えたそうです。オーガニックと言えども、大量の燃料を使って食材を輸送することに異議を唱えて。そう、カフェの名前にある「150」という数字は、150マイル(約240キロ)内で生産される食材しか使用しないという意味だそうです。食材が比較的豊富な北カリフォルニアだから、150マイルに限定できるのでしょうが。その名前に忠実に、トロピカル・フルーツは出さないし、トマトや果物は缶詰や瓶詰めにしてオフシーズンには提供しているそうです。(コーヒーも提供しないのでしょうか?)

この「オーガニック vs. ローカル」のジレンマ、ある意味「今さら?」って感じがしないこともないですが・・・。この問題は、自然食運動のパイオニア達がすでに直面していたこと。この町で最も早く登場した生協、Growers Marketの設立当時のメンバーの一人と5年前お会いしたとき、1970年頃すでにこの問題に直面していたことを聞きました。生協の理想は当然、無農薬食材とローカル農業のサポート。が、やはり、地元オレゴンで農薬を使って栽培した食材と、カリフォルニアで無農薬栽培した食材どちらを生協は仕入れるべきかで、生協メンバー内で論争があったのだとか。その時も、農薬を使用していてもローカル農業支持で決着したそうです。


(写真の中央右に見える建物がGrowers Market。週2回オープンしています。今でも対抗文化の香りがぷんぷんしているオシャレなマーケット。60年代や70年代に盛り上がったアメリカの対抗文化の雰囲気を経験したい人にはお勧めです。ちなみに、中央左の建物はプランタン系レストラン。やはり運動系の香りがぷんぷんです)

だったら、わたしもフィラデルフィアのWhole Foods Marketで、西海岸産のオーガニック・リンゴよりも農薬使用の地元産リンゴを選ぶべきだったのか?(農薬使用は地元産だったと仮定した場合だけれど。)皮をむかずにかじるつもりだったので、オーガニックかな。でも、リンゴではなくて料理に使用する食材を選ぶんであれば、遠くから来るオーガニックよりは農薬使用の地元産食材を購入するかもしれません。

人気blogランキングへ

人間界と自然界を分離する消費文化

2007-03-18 | 消費文化
enjoy_lohasさんが先日、「動物的感覚を取り戻したい」旨を書いておられました。わたしも動物的勘・・・、ないですね~。進化論を信じない人に言わせると、「人間は神が創造したのだ。動物的勘など、最初からあるわけがない!」ということになるのでしょうが。

先進国に住んでいる人間から動物的感覚がなくなっていったのって、人間と自然界とを明確に分離する消費文化の発展と比例しているのではないかと思います。アメリカではダーウィンの進化論などへの対応として、人間と動物の間に明確な線引きをするために「身だしなみ」を促進する広告に力を入れ始めた、というのは先日述べました。身だしなみにおいても特に「清潔志向」というのが、人間から動物的感覚を奪った一つの張本人だと思います。動物を含めた自然界と人間界との間に線引きをする一つの手段として石鹸、香水、マウスウオッシュなどを使用し、生物の証である「汚れ」や「匂い」を徹底排除。現在の広告をまともに受け取めていると、人間は無菌状態でいなければいけないようです。

アメリカ産業界や広告業界は、大量生産&消費社会の発達とともに人間界から自然界の要素を排除していった・・・。その現象を、ある学者が「disembodiment of abundance」と呼んでいます。加工食品をはじめとする商品から、生物的な要素を排除するのが一つの大きな目的。その結果、店頭に並んだ野菜に(自然の恵みを受けた証拠である)毛虫や土などがついているのは論外だし(キャー、汚い!)、りんごやみかんなどの果物にはワックスを塗ってピッカピカ。そんなりんごやみかんはまるで、自然界からの贈り物というよりは無菌状態の工場で生産されたようです。

それに、肉。「動物の死体」と呼んでしまっては、自然界の匂いがぷんぷん。だから、人間界ではきれいにパッキングして店頭に並べ、「お肉」という呼び名に・・・、誰が変化させてるの?なぜわたし達は、動物の死体の一部をお肉と呼ぶのでしょう?恐らく、自然界と人間界の間に明確な境界線を引くためではないでしょうか?「動物の死体」を「餌」として食べるのは他の動物やscavengers(腐肉を食べる動物)だけれど、「お肉」を「お食事」として食するのは「お上品な」人間。「うちは今晩、ステーキですの。最高級の松坂牛を仕入れましたのよ、オホホ!」ってか!?そう、どういう意味であれ、「人間と動物は別」なのです。

「肉を食べる」と一口に言っても、現在の先進国ように人間界と自然界をきっちりと分けた社会において肉を消費するのと、例えば現在のイヌイットや以前のネイティブ・アメリカンのように、自ら狩をして動物の肉を確保する社会、つまり、人間界や自然界などという概念が元々存在しない、あっても境目がない社会で肉を食べるのとでは、肉や動物に対する意識にかなりの違いがあると思います。どう違うのかは、今の時点では言葉でうまく説明できませんが。

消費面だけではなく、人間の動物的感覚がにぶる要素は他にもいっぱい。何てったって、空気の状態までテレビに頼れる時代です。冬の間は、NHKニュースがご丁寧に素肌乾燥情報を出していますね。(最初見たときはジョークかと思った。)そのニュースが素肌乾燥注意報でも出そうものなら、「姉さん、大変です!明日はお肌が乾燥するそうです!」(←『ホテル』の高嶋政伸か?)って、わたしもお肌のお手入れに気合を入れましたが。まあ、空気が乾燥することは、わたしを含めた多くの日本人にとっては地球温暖化より由々しきこと(?)だから、そのような由々しき事態に対して前もってテレビが注意報を出してくれるのは有難い!?

普段の生活では当たり前で気付かないけれど、人間から動物的感覚を奪う要素がいっぱいの現代社会。人間界と自然界を隔てる境界線を取っ払って世の中を観察すると、これまで気付かなかった「ヘンテコな現代社会」を垣間見ることができるかもしれません。

人気blogランキングへ

「プランタン教」創設!?

2007-03-17 | プランタン
今日提出した論文に集中していた先日、下宿先に夜戻るとわたしの部屋になぜか花が。下宿先のお子チャマが庭で摘んだのだそうです。左脳をフル活動させながら無理してお堅い文章を書いた後に、花を眺めたりその匂いをかいだりしたのは癒しになりましたね~。ベジタリアンに代わる言葉として先日、プランタンは「植物性食物を常食にする人」だと定義したけれど、食材だけに限定する必要はないんですよね~。薬草を含めた草木や花に親しむのも、立派なプランタン。

3月になって「そろそろ春だな~」という頃にプランタンという言葉が浮かんだと思ったら、おフランスのお言葉でプランタンは春だということを知ったうえに今回の「部屋に花」。下宿先の方から花をプレゼントされたのは初めてです。「プランタン宣言」は話していないのだけれど・・・。もしかして、わたしの「プランタン・パワー」が花をわたしの部屋に引き寄せた!?(←「プランタン・パワー」ってなんじゃ?)う~ん、松田聖子ではないけれど、「ビビビ」とくるものがありましたね。このブログのファン(?)の方の中には、しんのすけは物事の理屈が合わないと納得しない人間、だと思っている方もいるかもしれないけれど、どっこい、今回の「プランタン尽くし」のような説明がつかない偶然性にも「何か」を感じます。もしかして、これが神!?わたしに「プランタン教」を興してその教えを世界に広めよ、という神の訓示!?う~ん、教祖様ってのも悪くないね~。「プランタン教に改宗しないと地獄に落ちる!」な~んて脅してね。でも、愛読書が『クレヨンしんちゃん』では教祖様は無理!?

ちなみに、自慢じゃないけれど、わたしは草木や花の名前には詳しくない。でも、人間が利便性で(?)勝手につけた名前を必死こいて覚えようとは思わないな。うちの親はそんな名前を「暗記」するのが好きだけれど。草木や花と触れ合うなら、五感を使って色、匂い、感触などを堪能。そうやって感覚で触れ合えば、その植物の名前は・・・・、どうだっていいなあ。知ってて損はないだろうけれど。自分で好き勝手に付けてもいいしね。これは「花一号」、あれは「花二号」とか。そんな名前(とも言わない?)だとあまりにも花が可哀相!?

人気blogランキングへ

しんのすけの「プランタン宣言」!

2007-03-06 | プランタン
『「ベジタリアン」という言葉の問題点』を書いて以来のわたしの課題が、その言葉に代わる自分の食志向を表す言葉を見つけること。で、やっと見つけました。それが、タイトルにも示した

♪ プランタン ♪

「植物性食物を常食にする人」という意味で、植物を意味する英語の「plant」に、人を表す「an」をつけた造語です。本当は日本語を使いたかったけれど、いいアイディアが浮かびませんでした。

えっ?銀座にあるデパート、プランタンのパクリ?あのプランタンがどういう意味なのかは知りませんが、銀座にあるデパートと同じ名前とはこれ幸い。銀座やプランタンのデパートといえば、「オシャレ」の代表格。(銀座やあんなデパートを世間一般では「オシャレ」というんでしょ?)「オシャレ」といえば、この消費時代においては「楽しい」と並ぶ「二大宗教」の一つ。(←これに「おいしい」を加えたら三大宗教?)消費者は、「楽しい」や「オシャレ」には疑う余地のない絶対的な権威を置いています。わたしを含め、神よりも「楽しい」や「オシャレ」を信じている人は多いはず。

プランタンが、消費時代における神様ともいえる銀座のデパートと同じ名前なんてラッキー。この点がプランタンと、「肉を食べたいのに我慢して食べない苦行僧」のようなイメージがあるベジタリアンとの決定的な違いですね。好むと好まざるとに関わらず、ベジタリアンには「楽しい」や「オシャレ」というイメージがありません。「ベジタリアンはオシャレじゃないけど、プランタンはオシャレね~」と言われること間違いなし!?

それに、ベジタリアンとプランタンは食べる物(=ゴール)は結局同じなのだろうけれど、そのゴールに辿り着く道筋が違うと言えるのかもしれません。プランタンは、「植物性食物を食べる」という植物性食物の本質に価値を置いています。対照的に、ベジタリアンは常に肉食と比較し、「動物性食物が入っていないから食べる」という感じがあります。プランタンとベジタリアン、どちらがいいか悪いかではなく、わたし個人としては、動物性を排除することよりも植物性食物自体に価値を置きたいのです。だからといって、「ベジタリアンよりもプランタンを使おう」と言ってるわけでも、どちらがより高次元なコンセプトだとかを問題にしているわけでもないので、念のため。ベジタリアンという言葉で満足していれば、それはそれでよろしいと思います。

とは言ったものの、わたし自身は、このブログでプランタンという言葉を積極的に使用していきます。この消費時代にこの言葉を広めようと思ったら?「楽しい」と「オシャレ」を強調するのは当然ですね。

大地の恵みを受けて育った植物性食物はおいしいし、とってもヘルシー。いろんな植物性食材を使って料理を作るのも、とっても楽しいよ♪それに、プランタンって言葉、とてもオシャレ。なんたって、銀座にあるデパートと同じ名前。だから君も、オシャレなプランタンになろう。プランタンになって、楽しくてヘルシーな食生活を送ろう!

な~んていう宣伝文句はいかがでしょう?(こんなハイテンションな文句、書いてるととても疲れるゾ・・・。消費時代を生き抜くのも疲れるワイ!

プランタンって言葉がそのうち世間でブレイクすると、プランタンという名前を広めたということで銀座のデパートから表彰されたりして!?お礼として、「プランタンの100万円分商品券」な~んてね。そしたら銀座でショッピングしまくり!!(←おいおい...)あっ、それに、今のうちに特許取っといたほうがいいのかな!?(←うっ、相変わらずおバカな勘違い!

(写真は今日、地元の大学近くで撮影。春でんな~。この時期に浮かび上がった「プランタン」という造語がフランス語で「春」を意味するとは・・・。偶然だとは思えない!)

人気blogランキングへ

愛国心よりも市民権教育?

2007-03-05 | その他
主要な高速道路のサービスエリア(SA)やパーキングエリア(PA)に持ち込まれる家庭ごみや粗大ごみなどの処理費用が、2005年度で約15億6000万円と試算されることが、東日本、中日本、西日本の高速道路会社3社の調べで分かった。家電や家具のほか、ペットの死骸(しがい)を捨てていくケースもある。3社はごみの持ち込みをやめるよう呼びかけているが、有効な防止策はなく、利用者のモラル低下が浮かび上がっている(YAHOOニュース内のYomiuri Onlineより)

「ほかの人だって捨てている」「人が見ていなければ」といった意識が見え隠れする。大量消費、使い捨て時代を象徴する光景は美観を損なうだけでなく、一人ひとりの心のありようを問いかけている(YAHOOニュース内の信濃毎日新聞より)

(宣教師が日本の清潔さを絶賛したときから)400年の時が流れ、「公共の場」に、家庭から出たごみを当たり前のように置いていく、そんな国に成り下がってしまった。異国の人々を驚嘆させた、あの「清潔さ」を愛(いと)おしむ精神は捨て去ってしまったのだろうか。「いや、きれい好きな国民性というのは、宣教師が訪れた時代から変わっていないように思うんです」。こう語ったのは、京(みやこ)エコロジーセンター(京都市)館長で、石川県立大学教授の高月紘(ひろし)さん(環境倫理学)。では日本人の何が変容したのか。「モラルの低下です。それにより、『街の美』というものに関心が向かなくなったんですよ。いつのころからか、『自分の周辺だけきれいだったら、それでいい』-そんな考え方になってしまった」(YAHOOニュース内の産経新聞記事より)

------------------------------------------------------------------------------
ごみ問題の原因としてまず挙げられるのが、耳にたこができそうな「モラルの低下」。「モラルの低下」って「今どきの若者は・・・」と同じで、有史以来人間がずっと言い続けてきたんじゃないっけ?

400年前に来日したイエズス会宣教師が日本の清潔さを賞賛したのは、今や昔。国土がごみだらけらしい、現代日本。この違いはモラルの差?400年前の日本人は現代の日本人よりもモラルが高かったの?モラルの問題もあるかもしれないけれど、何といっても使い捨てが幅を利かす、この”楽しい”消費時代。400年前の日本と比べてごみの量が格段に多いのは、ある意味当然です。

このごみ問題の一つの原因としてわたしがモラルの低下よりも挙げたいのが、「市民権」という意識の欠如。市民権というと、市民個人の「権利」のことだけだと思いがちだけれど、権利には当然(?)「義務」がセットでついてきます。(←グリコのおまけか?)財布が許す範囲で色んな商品を買って”楽しむ”という「権利」は行使するけれど、その商品をやむなく捨てる場合はルールやエチケットを守る、という「義務」は無視。「地球温暖化防止のため、市民一人一人が○○に取り組もう」という呼びかけに対して、「自分一人が○○しても高が知れてる」という反応をする人は、義務を果たしていないと言えるのかもしれません。民主主義を(建前だけでも)標榜する社会では、個人が義務を果たさないと権利とのバランスが崩れ、今回のようなごみ問題などが発生するのは火を見るよりも明らか

市民権に伴う義務、つまり、公共の利益のために個人が守ったり行ったりすることの中には、投票に行くだけではなくて街の美観を維持することも含まれているはず。もしかして、市民権に伴う義務って選挙のとき投票に行くことだけ、って思っている人が多いのかも。「Founding Fathers (建国の父)」と呼ばれるアメリカ建国時の政治家が今の日本の現状を見たら、「ほらな!おバカで自分の私利私欲にしか興味がない一般市民に市民権などを与えるからこんなことになるのだ!市民権を行使するのは、徳(virtue)のある高潔なエリートだけに限定すればいいんだ!」と言いかねない?

市民の「権利」を行使して人生をそれなりに楽しんでいるけれど、市民が果たす「義務」は無視。今の日本に必要なのは愛国心を養うよりも、権利と義務が表裏一体である市民権に対する意識を高めることかもしれません。

(写真は建国の父の一人、トーマス・ジェファソン像。去年の11月、首都ワシントンで撮影。ジェファソンが現代日本のごみ問題を見たら、「おバカな一般庶民からは市民権を没収じゃあ~!!」と言いかねない?)

人気blogランキングへ