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oregonian way of life. 

オレゴンでの学生生活から南下して社会人生活へ。IT産業でホットなサンフランシスコ・ベイエリアで地味~に文系の仕事してます

銃規制の対象は男性のみ?

2012-12-16 | ジェンダー
ホリデーシーズン真っ盛りに起こったコネティカット州での無差別銃襲撃事件。この類の事件が起こるたびにマスコミは日米問わずアメリカの銃の状況を問題視しますね。「銃を使った無差別殺人事件が起きた → 銃を規制すればこの類の事件は減る」とでも言わんばかりに。

自分が銃襲撃事件が起こるたびに思うのは「この事件の容疑者も男性なんだ」ということ。コネティカット州での事件の前に起きたオレゴン州での襲撃犯もやはり男性。過去の銃を使った大量殺人事件、たとえばコロンバイン高校(1999年)、バージニア工科大(2007年)、それに去る7月のコロラド州映画館など、銃を使った無差別殺人事件の容疑者は多くが男性です。

これって偶然?この類の事件の容疑者が女性だった例はあるのでしょうか?

事件の報道をみていても、容疑者が男性であることは当たり前でほとんど問題視されてませんね。もし容疑者が女性だったらマスコミは「容疑者が女性である」ということに注目し、事件の説明にジェンダーの視点を用いるのでしょうか。ジェンダーって「文化的に作られた男女差」のことで、女性のみに関係するわけではないけれど、容疑者が男性だとジェンダーの視点って出てこないようですね

「銃を使った無差別事件が起こった → 銃を規制すればこの類の事件は減る」のかどうかは分かりませんが、女性はこの類の事件をほとんど起こしていないことに注目すべき。この際、銃規制の対象は男性のみにするとか?

通り魔事件容疑者とマスコミの類似点

2008-07-24 | ジェンダー
通り魔事件の報道記事は、容疑者を特異な存在として描いています。書き手が前提としているのは、「自分はこんな容疑者とは違う」。茨城、秋葉原、それに八王子の通り魔事件の容疑者3名の類似点として、無職/派遣社員という労働ピラミッドの底辺に位置していることを指摘した記事があるけれど、大手マスコミの一員ともなれば、「自分は無差別殺人をする無職や派遣社員の男とは違うもんね~」と思うのは当然かもしれません。それでは、そんなマスコミと容疑者との類似点とは?それは、

「安定した仕事と収入を得るのが男性の役割」という思い込み

加藤容疑者(秋葉原)のネットへの書き込みを読むと、この男性像が現状への不満を募らせる思考枠組みとして機能していたようですね。同じように、事件を「格差社会」の枠組みで捉える記事の前提になっているのも、この男性像であるように思います。容疑者が無職/派遣社員であることをなぜ問題視するのか?その身分では、「男性が」安定した職に就いておらず、収入も不安定であるからではないでしょうか?容疑者達が、「男性である」自分が派遣社員であることを不安に思っているならば、マスコミも、「男性が」無職/派遣社員であることを問題視しているようです。わたしに言わせれば、どっちもどっち。

「無差別殺人をした犯罪者」ということで容疑者を異端児扱いしているけれど、「安定した仕事と収入を得るのが男性の役割」だと思い込んでいる点で、無差別殺人の容疑者とマスコミは似た者同士です。

追伸 菅野容疑者を「甘ったれ」だと切り捨てたジャーナリストがいるようだけれど、このような主観バリバリの道徳的判断をして「識者」になれるんだったら、オラだってジャーナリストやテレビのコメンテーターになれるゾ。

広告にみる「女性の、女性による、女性のためのエロス」

2007-08-20 | ジェンダー
女性のセックスアピールが「ウリ」の広告、よく見かけます。上の画像は、それをウリにしたある石鹸の「A Skin You Love to Touch」キャンペーン広告の一つ。1911年に登場したこのキャンペーン、今の時代感覚からすると「この広告のどこがエロイの?」と思いますが、アメリカの20世紀初めといえば、(特に中流階級以上の)女性が公共の場で露出度の高い衣服を着用したりセックスアピールを振り撒いたりするなど絶対NGだった時代。「女性が食欲を見せる=性欲を表していてハシタナイ」と思われていた時代です。だから1911年、画像のような「露出度の高い服(ノースリーブ)」を着て男性に肌を密着させている女性を描いた広告が女性誌にデビューしたときはセンセーションを巻き起こし、この石鹸の売り上げは8年間で1,000%の売り上げを記録したのだとか。

1911年に登場したこの「A Skin You Love to Touch」キャンペーンが、セックスアピールという手法をアメリカで最初に利用した広告だそうです。この程度の広告がセックスアピールになるとは、当時のアメリカ人、かわいかったんですね~。で、このセックスアピールという広告の手法をアメリカで最初に用いたのは誰?

大手の広告会社、J. ウォルター・トンプソン社の女性社員だったそうです。それまでの広告に登場する女性といえば大概、セックスアピールのない妻や母ばかり。このような女性ばかりに嫌気が差したのか、「男が作る広告に登場する女性って、妻や母ばかり。女は家でおとなしく家事や子育てしてるだけじゃないのよ!さあ世の女ども、この石鹸使って美肌に磨きをかけ、男を誘惑しましょ!この石鹸を使って『女』を取り戻すのよ!」というメッセージをこの広告に込めたようです。広告における女性のセックスアピール、アメリカでの始まりは女性誌の読者をターゲットにした「女性の、女性による、女性のためのエロス」だったんですね。女性自らが主導する女性解放の一手段だったようです。



この「女性の、女性による、女性のためのエロス」と聞いて思い出したのが、米倉涼子が出演中の(もう終わった?)たかの友梨のコマーシャル(上の画像)。エステのコマーシャルだから肌の露出度が高いのは当然かと思ったけれど、たかの友梨は確か以前、松田聖子やゴクミも起用したことがあって、彼女達の露出度は高くなかった記憶があります(実はわたし、CMウオッチャー)。何年か前に起用された神田うのあたりからでしょうか、露出度が増していったのは?広告に裸が氾濫する(?)今日この頃。オラも一度は言ってみたいゾ、

芸術のためなら脱ぐわ

ちなみに、広告における「女性の、女性による、女性のためのエロス」というのは同性愛者だけではなく異性愛者の女性をターゲットにしても成立するようですが、「男性の、男性による、男性のためのエロス」というのは異性愛者の男性をターゲットにしうるのでしょうか?このエロスの場合、同性愛者のみをターゲットにしないと成立しないような気がするのはわたしだけ?「男性の~エロス」が異性愛者の男性の間で成立しないのに「女性の~エロス」が異性愛者の女性の間では成立するのは、女性が自らのセックスアピールを解放(liberation)の手段として利用しているからでしょうか?男性が理想とする「可愛らしい女性」や「家庭的な女性」なんか「ケッ!」と吐き捨てて「ブイブイいわせたい!」という願望が多くの女性にはある?

人気blogランキングへ(←誰かこの仮説を検証してくれませんか?)

「お上品=女性的」という見方はどのように形成されたのか?

2006-06-21 | ジェンダー
わたし「センセ、ついでにどっかで遊んできてもよろしいでしょうか、オホホ(もちろん返事は「Yes」だよな)」
先生「もちろんですとも!楽しんでらっしゃいませ、オホホ(こいつ、いつも遊ぶことしか考えてないな)」

以前の記事から引用した上記の会話文を読んで、気付く点は?ひとつ気付くのは、上品な言い方をする時は女性言葉、乱暴な言い方をする時は男性言葉を使用している、ということ。わたしは意識してこのような言葉遣いを用いたわけではなく、自然と書きました。大雑把にいうと「上品=女性」で「乱暴=男性」という(今では古い?)この見方、これはアメリカでも通用します(通用しました?)。このような見方、特に「上品=女性」は、アメリカではどのように形成されたのでしょうか?

キリスト教文化においては、洗練されたモノ(refined objects)というのが「文明」の象徴。個人の家においては、洗練された(ある意味で)贅沢品が、その家全体を文明化すると信じられていたようです。アメリカ革命後、多くの商品、例えばダイニング・テーブル、様々な料理&食事道具、ティー・セット、かつら、宝飾品などが市場に出回るようになったのは、多くのアメリカ人がそのような上品で当時としては贅沢なモノを望んだから。まるで、欧米のブランド品を渇望する現代の日本人?

「上品なモノ」を購入して自分の家を「文明化」――。アメリカで産業革命が起こり、中流階級以上に限っていえば、「男性=外で生産に従事」、「女性=家の中で家事&買い物」という性別による棲み分けができると、「上品なモノ」を購入して家の中を上品に飾るのは女性の仕事。(「上品」の範囲を逸脱し、贅沢で悪趣味に走る女性もいたようですが。)子どもの教育も任された女性は高い道徳心&宗教心を持っていることが期待され、トータルな意味での「上品で洗練された女性」になることが理想でした。このような文化背景の下に出来上がったのが、「わたくし、ハイソな生活を送っているお上品な淑女ですの、オホホ!」という理想の女性像。

「お上品でハイソなモノ=女性的」と見なすならば、上品やハイソと対極にある「粗野で労働者階級チックなモノ=男性的」。仕事の後にバーでタバコを吸いながら、「何か文句あんのか?何?言葉使いが乱暴?女みたいに上品な言葉なんか使ってられっか!俺は男だぜ!今夜も飲むゾ、ウォー!!」と言ってビールをボトルごと一気飲み、という粗野な言動が「男らしい」。昔のバーはいうまでもなく、ビジネスや工場での労働も、「お上品で洗練されている」とはお世辞にも言えなかったのかも。時代が進むにつれてどんどん「粗雑化していく」アメリカ社会に対して、「こんな社会を改良できるのは、高い道徳心を持って洗練された趣味を持つ上流&中流階級のわたくし達以外にはいないザマス!社会を『洗浄』するのはわたくし達にお任せくださりませ、オホホ!」と言って、多くの女性が社会改革運動を起こしたのはのは先日延べた通り。

この「上品で丁寧=女性」、「乱暴で粗雑=男性」という見方に大雑把に乗っ取っていた映画が、先日公開されたジェニファー・アニストン主演の『The Break-Up』(上の画像)。アニストン演じるBrookはアート・ギャラリーに勤め、家事をきっちりこなす女性。そのボーイ・フレンド、Garyはシカゴにある観光バスの案内人で、家事そっちのけでスポーツ観戦やテレビ・ゲームに熱中し、今どきのモテ男の条件である「sensitive」とはとてもいえないタイプ。Garyの親友がバーのオーナーで、そこでGaryがビールをボトルのまま飲む(←労働者&マッチョのイメージ)シーンがよく登場しました。映画の最後ではお互いがそれなりに歩み寄りますが、このカップルが「break upした(別れた)」原因は「粗雑な男性」のGaryの方に問題がある、と思う観客が多いのでは?

新聞や雑誌で最近時々目にするのが、「女性の方が男性よりも優秀だ」という内容の記事。「大学を卒業する数が、男性よりも女性の方が多くなった」、「中学校や高校においては、女子生徒の方が男子生徒よりも全体的に優秀」等など・・・。「上品で洗練されている女性」という理想像がもし現在でも残っているのなら、「粗雑で乱暴な男性」よりも女性の方がお勉強をよくするのは不思議ではないのかも。

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今時のモテ男はsensitive?

2006-03-28 | ジェンダー
イケメンは自転車に乗る(ようになる)』で言ったように、最近のハリウッド映画に出てくる多くの女性は、一昔前より「強く」描かれています。それでは、男性はどうなんでしょうか?

最近のハリウッド映画を観ていて感じるのは、モテる男のキーワードは「sensitive」だということ。傷つきやすいという意味のほか、相手に対して思いやる気持ちが強い、という意味もあります。先日鑑賞したロマンチック・コメディ映画(写真左下)で、主役の少女が「胸キュン」(死語?)したのが、相手役の少年がsensitiveな面を見せたときでした。わたしのこの冬ベスト映画でも、主役の男性が幼馴染のハートを射止めようとする作戦の一環として、自分のsensitiveな一面を見せようと奮闘する場面がありました。(写真中央下は、その映画のワンシーン。自分の好みではない「お涙頂戴映画(tear jerker)」を一緒に観に行って、自分のsensitiveな面を見せようと企んだけれど、無残にも失敗!

  

Sensitiveとは少し意味が異なるのかもしれませんが、女性に自分の弱みを見せるのも好印象。その典型が、昨冬公開された『Mr. インクレディブル』(写真右上)。主役のMr. インクレディブルが、「自分は弱い」みたいなことを言ったとき、妻はどう反応したか?弱みを見せた旦那がいとおしくなったからか、旦那に抱きついてキスをしました。自分の弱みを見せたり、相手の気持ちを推し量るなどは、伝統的に「女性らしさ」の領域。しかし、最近のハリウッド映画に出てくる多くの「モテ男」が、このような女性的な面もある性格として描かれています。

 

それでは、男はsensitiveであればモテるのか?もちろん、そんなに簡単ではないようです。映画に出てくる男性は例えば、高校のサッカー選手や、アイスホッケーが得意な売れっ子音楽プロデューサー(写真上)など、伝統的な意味での「かっこいい男」。このような「イケメン」がsensitiveでもあるところが、「ミソ」なのです。男らしいけれどもsensitive・・・。モテる男の条件というのは、以前より厳しくなってきているのかもしれません。

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救命ボートに優先されるのは誰?

2006-02-16 | ジェンダー
熱戦が繰り広げられているらしい、トリノ・オリンピック。(「熱戦」などと言ったら、「スグリー」に怒られてしまいますね)冬季オリンピックといえばわたしは、3日間だけボランティアをした長野オリンピックを思い出します。1998年2月の今頃でした。当時、日米ともに大ヒットしていた映画、覚えていますか?そう、あの『タイタニック』です。映画は、時がたつにつれてどんどん興行収入が下がるのが通例ですが、『タイタニック』は何ヶ月間も維持し、逆説的に「沈まない映画」と言われていました。アメリカでは、今でも興行収入歴代No.1。先日、日本での「男の子が女の子と一緒に観たい映画」調査でもNo.1でしたね。

1912年に起こったタイタニック事件。あのような極限状態に置かれると、人間の本性が出るものだと思います。わたしもマーフィーさんが言うように、「競争社会より共存社会が理想」だと思いながらも、もしタイタニック号に乗っていたら、他人を蹴飛ばしてでも救命ボートに走っていくような気がします。あの沈没事故で運命を分けたのが、救命ボートの数が限られていたことでした。子どもと女性はほとんどが助かったけれど、男性はほとんどが客船と運命を共にしたようですね。あの映画では、というか実際に事件のときは、「Women and children first!」、つまり、子どもと女性が優先的にボートに乗り込みました。子どもはともかく、なぜ男性より女性?色んな理由があったと思いますが、ひとつの理由として、19世紀の「女性はか弱い動物」という見方、そして、そのようなか弱い女性を守るのが男性の使命という考えがまだ強かったから、という文化背景があったと思います。

タイタニック事件から100年近くたち、男女同権の考えは格段に進んだ現在。『「レディ・ファースト」は遠い昔の話』で言ったように、女性も例えば力仕事をします。もしあの事件が現在起こって、「Women and children first!」と船員が言ったら、「どうして女性が優先なの?女性のほうが男性より弱いって言うの?バカにしないで!」と言って、女性はボートに乗るのを拒否するのでしょうか?それとも、人間の本能に子孫を残すというのがあるとすれば、子どもを産む女性が優先されるのは当然でしょうか?だとしたら、子どもを産まない/産めない女性は優先順位が低くなりますね。

そこで問題、というより質問です。あなたは今、タイタニック号に乗っている船員です。船が沈没し始め、救命ボートの準備をしていると、ボートのキャパシティー(capacity)は、全乗客の半分しかないことが判明しました。さあ、あなたならどのような人から優先的にボートに乗せますか?「ゆっくり考えさせて?」船は既に沈みかけているので、ゆっくり考えている時間はありません。誰を優先するのか即決しなければなりません。それとも、共存を理想とするなら「共滅」の道を選び、みんなで船と運命を共にしますか?

男女同権論者は、非肉食者でなければならない?

2006-02-11 | ジェンダー
現在読んでいる本が、『The Sexual Politics of Meat: A Feminist-Vegetarian Critical Theory』(Carol J. Adams著)。日本語版が出てるかなと思って検索してみましたが、わかりませんでした。

1990年に出版されたこの本は、女性差別/虐待と動物虐待(つまり肉食)の関連性を指摘しています。男性中心社会においては、女性と動物というのはどちらも、男性から「object」として扱われています。女性や動物を、自分(男性)たちの都合のいいように、生物というよりは「道具」に近い扱いをし、女性や動物の自由な行動や意志決定を尊重した扱い(つまり、「subject」として扱う)をしないのです。動物の意志とは関係なく人間がその肉を食することと、女性の意志とは関係なく女性の居場所や役割を決めることは、根が同じ。男性としての権力が、自分たちに都合のいいように、女性と動物を扱わせるわけです。19世紀のイギリスやアメリカの男女同権論者の多くは、「女性の扱い=動物の扱い」という考えに気付いており、アンチ肉食だったとか。そんな男女同権論者が肉食をするというのは、矛盾行為。男性の権力を非難しておきながら、そんな権力(動物の意志とは無関係に肉を食う)および、その権力を支える「男らしさ」の価値観(支配、攻撃など)を肯定することになるからです。

「女性差別/虐待=動物虐待(つまり肉食)」。男女同権の考えが、19世紀と比較すると格段に進んだ現在のアメリカ社会における、女性の肉食とは?わたし自身は、男女同権の立場から肉を食べない、というのは普段ほとんど聞きません。やはり「健康」、「工場制畜産業反対」、それに「動物の権利(animal rights)支持」が多いように感じます。むしろ、タバコと同じように、「レディが肉を食らう」というのも文化的に受容されています。男女同権とは、女性がある意味男性化することなんでしょうか?

著者のAdamsさん自身は非肉食者。この本に、そんなAdamsさんの肉食に対する偏見が含まれていることは、否定できないかもしれません。Adamsさんは、肉食という行為をしている限り、男らしさの価値観に支えられた男性中心社会が持続していくだろうと示唆しています。女性の地位向上を目指すなら、肉食はしないこと―。あなたはどう思いますか?

社会を改良するのは女性?―追悼Betty Friedanさん(1921-2006)

2006-02-08 | ジェンダー
日本社会における女性の地位についてのコメントを、数名の方から頂きました。どのコメントも、ご自分の経験を元に鋭い洞察力が感じられ、多くの女性にとってジェンダーは大きな関心事なんだ、と確信しました。このブログだけではなく、ジェンダーについて考える機会が多い今日この頃。そんなタイミングを見計らったかのように、大きなニュースが飛び込んできました。

日本でどの程度報道されたか知りませんが、Betty Friedanさんが亡くなりました。享年85才。1963年に出版された『The Feminine Mystique』の著者として、アメリカにおける現代女性運動を語るときには必ず出てくる著名人(big name)です。米東部の名門女子大・スミス・カレッジ(Smith College)を優等で卒業し、雑誌のレポーターをしていたFriedanさん。記事のリサーチの一環として、卒業15周年の同窓会に、(多くの?数人の?)同級生にインタビューし、それを基に書いたのが『The Feminine Mystique』。戦後の「古き良き時代」に、郊外にある家で主婦をしていた多くのスミス卒業生。「旦那が金を稼いで、自分は主婦。郊外の家でそれなりに裕福な暮らしして、一体どこが不満だっていうの!?」と、傍から見ると言いたくなるような暮らしをしていたわけです。しかし実際は、外で働きたくとも、社会のジェンダー観に合わせるべく主婦をしていた多くの女性。そんな主婦の表現しようのない不満をFriedanさんは、「the problem that has no name(名前がない問題)」と名づけました。この文句、嫌というほどあちこちで引用されていて有名です。

地元の新聞が言うように、この『The Feminine Mystique』が現代女性運動を引き起こした、と言ってしまうのは大げさだと思います。19世紀の女性運動が奴隷解放運動から発生したように、現代女性運動も、1960年代前半に盛り上がった市民権運動の影響が強いようです。多くの女性が市民権運動に関わり、その運動における男女の待遇の差が、女性の中に男女同権意識を芽生えさせ、60年代後半から70年代にかけて、女性運動に発展していったようです。(「男女の待遇の差」というのは例えば、男性は「現場」に出るのに女性は「裏方」というか、料理を含めた男性の世話係をさせられた、など。)市民権運動から発生した女性運動―。しかし新聞によると、『The Feminine Mystique』は、多くの(白人中流家庭以上の)女性が抱えていた不満や希望をはっきりと文章で表現し、そのような「不満や希望」を、「女性の権利拡大の要求」へと実際に移行させた、大きな原動力となったそうです。

ちなみに、『The Feminine Mystique』が出版された前年の1962年、Rachel Carson(レイチェル・カーソン)が『Silent Spring(沈黙の春)』を出版しています。1962~3年といえば、全盛期だった市民権運動にケネディ暗殺など、「古き良きアメリカ」の化けの皮がどんどん剥がれていた時期。そんな時期に、環境と男女同権の分野で、2人の女性がアメリカ社会に多大な影響を与えた本を書いた・・・。加えて、昨年亡くなった「市民権運動の母」Rosa Parksさんも女性。これまでのアメリカ社会が、男性が中心となって築かれてきたとするならば、そんな社会を改良していく原動力になるのは、女性なのかもしれません。

実はコンサバだった「オヤジギャル」

2006-01-31 | ジェンダー
今日(1/31)は、漫画家の中尊寺ゆつ子さんが亡くなってからちょうど1年。わたしは学校のレポートで以前、中尊寺さんが名付け親の「オヤジギャル」を取り上げたことがあったので、一年前の今日、中尊寺さんが42才の若さで亡くなったと聞いたときはびっくりしました。ご存じない方のために簡単に説明しておくと、オヤジギャルとは、バブル期に週刊誌『SPA!』 に連載されていた中尊寺さんの漫画から出た言葉。バブル期に都会でOL(特に丸の内OL)をしていて、駅のプラットホームでスポーツドリンクを一気飲みしたり、アフター・ファイブや休日にはゴルフをしたりするなど、それまでの「女らしさ」の行動基準を無視して「オヤジ」がやっていた行動を取り入れていました。実際にそんな女性がいたのか?多くのOLがゴルフをし始めたのは確かなようですけど。

こんなオヤジギャルの将来の夢とは?「条件のいい男(3高?)を捕まえて結婚したい。」このオヤジギャルの夢というのを、わたしのレポートを読んだあるアメリカ人女性は信じられなかったようです。その方曰く、「それなりに教育も受けて、給料ももらって、思いっ切り消費生活楽しんで・・・。それでなんで、『将来いい男と結婚してマダムになりたい』なの!?どうして自分で経済的にも独立しようと思わないの!?」

日米どちらがいい・悪いというわけではありませんが、わたしが日米の温度差を感じることのひとつが、社会における女性の地位への考え方。わたしの周りのアメリカ人女性は、「女性も職を持って、それなりに経済的に独立するのは当然」と思ってそうな人が圧倒的。一方、わたしの周りの(日本に住んでいる)日本人は、「何年か経験として働いてもいいけれど、最終的には家庭に入るのが理想」と思ってそうな方が多いです。もちろん、女性観は人それぞれ。わたしの周りの人だけで、アメリカ人と日本人の女性観を決め付けるつもりはありません。しかし、わたしの印象として多くの日本女性が「女性の居場所は家庭」と思っているのは、会社を含めた日本社会というのがまだまだ働く女性に対して厳しいからなのか、それとも、子育てや家事というのは女性の仕事だと信じているからなのか・・・。

中尊寺さんの没後1年。オヤジギャルの人生観に驚いたアメリカ人女性の言葉を思い出し、社会における女性の地位に思いを巡らしてみました。

女性の理想体型は、なぜ鉛筆型になったのか?

2005-12-11 | ジェンダー
先週の週刊誌『ニューズ・ウィーク』(アメリカ版)が、拒食症が低年齢化していることを報告していました。本屋でゴシップ誌の表紙を何気に見ていると、やれ誰々(適当にセレブの名を入れよ)が拒食症だ、もしくはそれっぽい、という文字が飛び込んできます。鉛筆のような体型をしている女優さんも、確かに多いですね。

女性の理想体型というのは、元々はふくよかな豊満型でした。先日、豊かさ(abundance)の象徴はエキゾチックなものだといいましたが、女性も豊かさの象徴でした。子どもを生むからです。英語で出産のことをreproduction(re=再び、production=生産)と言いますね。大雑把に言えば、19世紀までは、豊満な体型をした女性が絵画や広告によく出ていました(写真上)。しかし、20世紀以降は現在に至るまで、鉛筆のような体型をした女性が、広告では理想として描かれていることが多いですね。女性の理想体型はなぜスリム化したのでしょう?

アメリカ史の話になりますが、19世紀に市場経済が発展するのに平行して、女性の理想体系もスリム化していったようです。19世紀初頭の産業革命の前までは、多くが農村で暮らし、女性や子どもも大事な労働力の一部でした。しかし、革命開始以降、中流階級以上に限っていえば、男性は外で働き、女性は家で主婦をするというように、社会構造が変化しました。家が居場所になった女性は、モノの生産活動に従事せず、子育てや子どもの教育など、道徳的な役割を任されました。このような女性の役割の変化によって、「女性=物質的な豊かさの象徴」から「女性=精神面を重視する教育者」に変わっていったのです。実際、中流階級以上に限っての話だと思いますが、19世紀初めのアメリカ女性は、平均で6、7人もの子どもを生んでいたようです。それが、100年後には2、3人ぐらいに。豊かさの象徴または理想として、女性が豊満な肉体を持つ意味が、時代の変化とともになくなったのです。

教育者の他に、そんな女性に割り当てられた役割は「消費者」。モノの生産活動に従事しない女性は、市場にある製品を購入することによって、料理などを含む、家庭全般を管理するようになったのです。

先ほど「中流以上の女性は」と限定したように、外で働かなくてもいい女性というのは、ある意味ステータス。それだけ夫の収入がいい、という証拠だからです。19世紀のいわゆる「ビクトリア朝時代」が舞台の映画などをみると、いいところの女性というのはみんな、痩せて(半分はコルセットのおかげ?)「しなっ」とした女性。このような女性を妻に持っていることが、男性にとってはステータスだったわけです。対照的に、労働者階級の女性というのは、工場にしろ農場にしろ、ハードな生産活動に従事せねばならず、鉛筆型の体型などにこだわっていられなかったのです。映画『風と共に去りぬ』のビビアン・リーと召使いの体型を比較すれば、ここで何を言っているか分かりますね。

1920年代のアメリカ好況期の多くの広告は、女性の体型を直線に近いような形で表しています(写真下)。女性はかつて豊かさの象徴だったなどとは、そのような広告に見ることはできません。経済体系が変わると、それにつれて社会・文化構造まで変化するんですね。あくまでもアメリカの話でしたが、ダイエット産業花盛りの日本も、似たような歴史を経てきたのでは?


(1894年のある広告より。稲の穂のようなものを携えて、ムチッとした体つきの女性がモデルになっています。多産性(fecundity)を表す女性として描かれています)


(1920年代のある広告より。すらっとしてモダンな女性。いかにも都会に住む有閑階級の女性という感じですね)

レディー・ファーストは遠い昔の話

2005-11-10 | ジェンダー
大学のカフェテリアでバイトしたり、行きつけのコーヒーハウスで勉強していたりしていて気づくことに、日本と違ってここでは女性でも力仕事をする、ということがあります。バイト先で、女性が食器やコップを運んでいる傍ら、男性がカフェテリアの入り口に座って、学生証のチェックをしていることは普通にあります。このコーヒーハウスでも、男性がレジをしている横を、女性が使用済みコップや食器を「よいこらしょ」と運んでいます。日本だとよくレジや受付は女性、物を運ぶのは男性というように、性によって仕事を分けますが、ここでは、というよりアメリカ全体にそうだと思いますが、そういう仕事の分け方はしません。アムトラック(アメリカの鉄道)の電車は、飛行機のように大きな荷物は駅で預けるようになっていますが、その荷物を運んだり電車から降ろしたりする仕事も、女性がやっているのをよく見ます。下宿先でも、そこの父親が料理をしているときに、母親が雨の中、裏庭で畑を耕しています。60年代以降の女性運動の結果、女性の権利や活動の場が広がったアメリカ。女性の権利に、「男性と同等に働く権利」というのが含まれているとすれば、力仕事も当然こなさなければならないわけです。

この話と関連して、今どき「レディー・ファースト」などを実践する男性がいたら、その方はmale chauvinist だと思われるだけでしょう。何年か前に日本でも放送されたアメリカのドラマ『Ally McBeal』にも、「male chauvinist pig」という言葉がでてきました。女性をか弱い生物として扱い、そんな女性に丁寧に接しているように見えつつ、実は「か弱い女性を丁重に扱うことによって自分が男らしく見える」という自分の姿に酔っている男性、とでもいうのでしょうか。でも、レディー・ファーストが好きな日本の女性は多いのかも?