最近、ふとこんなことを考えることがあります。
何が自分にとって“真実”なのだろうか?自分の目に入ってきたもの?
例えばテレビを想像してみると、一見真実のようで、映し出された画像はディレ
クターやカメラマンの目を通した事実の1つの切り口でしかなく、それが真実か
どうかは分かりません。
聖書にこんな話があります。
エルサレムの神殿の賽銭箱に献金している人をじっと見詰めていたイエスが弟
子たちに向かって、「誰が一番多く入れたか?」と質問をします。
返答に困ってしまった弟子たちに、イエスは、「実は、あの小銭を投げ入れた
貧しいやもめこそが、誰よりも献金をしました。
なぜなら、みなはあり余っているものから入れたのだが、あの女は乏しいなか
から生活の費用をみな入れたのだから」と、目には見えない事実を伝えるんで
す。
結局、起きていたら常に目を通して映像が入ってきますが、その見え方は自分の
心次第なのかもしれません。
欲や妬み、怒り、苦い経験・・・いろいろなものによって見るものが歪んでしまうの
でしょう。
『生きて死ぬ私』(茂木健一郎著)では、次の一文でまさにそのことを看破され
ています。
人間の喜びも、悲しみも、すべての感情は、脳の中にある。
人生のすべては、脳の中にある。
だからこそ事実を見ているつもりでも、感情によって曇ってしまっているかもし
れないので、常に心の目を開くことが必要なのでしょう。
そして、その心の目は想像力によって養われることが多いのでしょう…。
北海道の麗らかな春をのんびりと満喫して、常に心安らかに事象を捉えていたい
…そんな想いです。
何が自分にとって“真実”なのだろうか?自分の目に入ってきたもの?
例えばテレビを想像してみると、一見真実のようで、映し出された画像はディレ
クターやカメラマンの目を通した事実の1つの切り口でしかなく、それが真実か
どうかは分かりません。
聖書にこんな話があります。
エルサレムの神殿の賽銭箱に献金している人をじっと見詰めていたイエスが弟
子たちに向かって、「誰が一番多く入れたか?」と質問をします。
返答に困ってしまった弟子たちに、イエスは、「実は、あの小銭を投げ入れた
貧しいやもめこそが、誰よりも献金をしました。
なぜなら、みなはあり余っているものから入れたのだが、あの女は乏しいなか
から生活の費用をみな入れたのだから」と、目には見えない事実を伝えるんで
す。
結局、起きていたら常に目を通して映像が入ってきますが、その見え方は自分の
心次第なのかもしれません。
欲や妬み、怒り、苦い経験・・・いろいろなものによって見るものが歪んでしまうの
でしょう。
『生きて死ぬ私』(茂木健一郎著)では、次の一文でまさにそのことを看破され
ています。
人間の喜びも、悲しみも、すべての感情は、脳の中にある。
人生のすべては、脳の中にある。
だからこそ事実を見ているつもりでも、感情によって曇ってしまっているかもし
れないので、常に心の目を開くことが必要なのでしょう。
そして、その心の目は想像力によって養われることが多いのでしょう…。
北海道の麗らかな春をのんびりと満喫して、常に心安らかに事象を捉えていたい
…そんな想いです。
自分1人の経験イコール全社会と勘違いしている人が!そして最後は必ず、捨て台詞ですからね・・。
色々な方面から物事を見て、心の目を養いたいと思います。
菫さんの想いは私もよく分かりますが…ただものの見方にはその人が生きてきた人生など様々な背景が関係したりしますよね。
そのことが見えない中で、言葉の内容だけを見、理解しようとすると、その人を見誤ることもありますから…。
ただ菫さんのいうとおり、複眼的思考から物事を見る
ことはとても大切です。
そしてそのことが心の曇りを取ることにも繋がるのだと私も思います。
ところでG.Wでふと思ったのですが、菫さんは北海道
に戻ることはあるのですか?
もし戻るときがあれば一声かけてくださいね…。
北海道には、年2回帰省していますよ。混雑時を、少しずらしています。次は7月の予定です。またお知らせしますね。
やはり周囲との関係性を大事に…との前提をしっかり
とわきまえられているからこその意見ですから。
でもいつか理解はしてくれるといいですね。その糸口
は必ずその方の言葉の中のどこかに隠れているはずですから、私はCAFEでいつもそれを探っている…そんな
感じです。
とはいえ、マスターがある講演で”人は思い通りには
動かない…”というようなことをおっしゃっていたこ
とをどなたが報告されていたように思いますが、その
ことを今痛感していますね…。
ところで、菫さんは今度7月に戻られる予定ですか…。私の予定とうまく会うようなら、是非お会いし
たいです。
(実現できるとなるとCAFEの方では一番最初にお会
いする方になりますね…)
なんだか夏が来るのが楽しみです♪