ここ数年、格差社会ということがとり立たされています。
実際、「ワーキングプア」などといった言葉が紙面に踊り、日本の格差社会化に
拍車がかかったように思えます。
ただ、この現象の根底には、自分を相対化しなければ安心感が得られない人間心
理が働いているような気がしてなりません。
個性は、他者との関係性においてこそ磨かれ、また、その関係性の中で、自分の
本性を確認します。
そういった人間の特質は、これまでは学歴社会という、“よい大学”、“よい会
社”…という選択によって自分の存在意義を確認するという形に変わって社会に
表出していました。
その学歴社会では、社会的地位=自己同一性の獲得という分かりやすい構図がで
きており、人は、その構図に乗っかって生きていけば心的社会的安定が得られた
のです。
けれど、最近では、『生きる力』つまり“確かな学力”“豊かな人間性”“健康
と体力”といった全人的な資質が問われるようになり、その抽象性と不透明さか
ら、自己同一性を保持することができず、困惑している状況が生み出されていま
す。
(その困惑の中で、何とか指針を見出したいという切なる思いの表れの1つが全
国学力テストであるような気がします…)
そのような中で、人は「格差」という新たな(?)社会の評価基準を持ち込むことに
よって、他者との差異を浮き彫りにし、社会における優位性を確認しているので
はないかと思うのです。
ただ、「格差」の自覚による自己の慰めもしくは卑下からは、人生に対する意欲
は生まれてきません。
私たちはそのような社会的風潮に惑わされずに、自己啓発し、自己の可能性を最
大限に追求するということに専心することこそ、今、問われているような気がし
てなりません。
>絶対的な座標軸ーたとえば「喜びや美の基準」といったものさしーが自分の中にあれば、日々の難事や苦しみは、ずいぶんとやわらぐものである。
これは、あくまでも自分のものさしだ、という点に強みがある。
世評や人気といったような、他者を介在するものさしではない。
浮世の表面的なこととは関係がない。
自己の体験から生まれた独自の軸なので、揺らぐことなく自分を内側から支えてくれる。
簡単に身につくものではないでしょうが、前向きな気持ちになれる文章です。
このところの厳しい寒さ、札幌はいかばかりかと案じられますがどうぞご自愛のほどを。
今日は「格差」に関して書かれていますが、私は実生活の中で正直「格差」をあんまり感じていないんですよ。
とはいえ、どんなときでも自分の才能を伸ばしていくことは忘れずにいたいですね。
『すべては音楽から生まれる』から引用してくださった箇所は確かに人生を歩む上で大切なことですよね。
私も読んでいて、その箇所は心の琴線に触れたところです…。
人生を自己の揺るぎない座標軸で捉えることは確かに多様な価値観に溢れる現代を生きる上で、人生の苦悩から解放してくれることもありますしね…。
ただ、学習によるパラダイムの変換にはある程度柔軟性を持ち合わせていたいとは思いますが…。
ところで…札幌の方は先日大雪警報が出て、学校が2時間授業で休校ということがありました。
そして爆弾低気圧の影響なのか、雪は降っており(大雪ではありませんが)…まだまだ予断は許さない状況です。
お心遣いに感謝しつつ、健康には留意したいと思います。
ありがとうございます。
今週はしばらくぶりの学校ということもあり…本業の方に集中しておりました。
その中で思索したことは書き留めてはおいたのですが…なかなか文章化するまでにはいたりませんでした。
ただモノを書く作業は自分の思考の自己編纂作業なので、これからは少し大事に書きたいとはこの間思っていたことです。
ところで、「格差」とひとえに言っても、所得の再配分のことだけでなく、例えば社会階層のことなどいろいろと捉え方はあります。
そのような相対的な価値観に惑わされることなく、自分の人生をしっかりと生きることを大事にしたいと思いますし、TERUさんのいうとおりですね。
今の自分よりも一歩前へ…お互い頑張りましょう!!
そうですよね、格差の自覚による自己の慰や卑下からは、人生に対する意欲は生まれない。
他者からの評価を気にしていたら、本当にやりたい事が分からなくなりますよね。
自分の感性までもが鈍ってしまわないように、軸をしっかり持たなくてはと思いました。
コロンさん、忙しそうですが、気をつけて無理なさらないでくださいね。
最近、世間では本当になにかといえば「格差、格差」とかまびすしいですよね。富める者と貧しい者、その差がドンドン開いていき、固定化されていっている、との説を唱えている専門家も沢山居るようです。
しかし、それが何だというのでしょう?みんな格差という言葉に怯えきっているように私には思えます。人より財布へのお金の入りが少ないからといって、それを卑下してなんになる、というのでしょう。
むしろ、格差などナンボのものぞと、開き直るといっては失礼な表現かもしれませんが、そのぐらいの堂々さをもってこの世の中を生きていきたいものです。
大切なのは、どんな境遇になったとしても、決して希望を失う事無く、格差という言葉を振りかざす世間の風潮に負けずに、常に明るく前向きに生きぬくことだと思うのです。
その為には、人生でであう涙や苦しみを、自分の人生の滋養に変えて行けるほどの強い生命力を引き出せるような、人生哲学をもつことも大切なのかもしれません。
文藝春秋でも、よく論考がなされていました。
でも、格差がまだあるだけいいと思います。
その分、可能性もあります。
外国には、ほとんどの人が飢えているという国もあります。
日本の貧困層と例えばアフリカの貧困の人たちでは、まったく違うのではないでしょうか。
日本は、学校に行ける。それだけでも、すごいと思えるようになれる。そんな、価値観もありな気がします。
そうしたら、どんな層でも関係なく意欲も湧いてくるのではないでしょうか。
そうですね…うみさんのいうとおり、自分が何をしたいのか、主体性をもって行うことはとても大切ですよね。
この世の中、情報に満ち溢れています。
その情報を取捨選択しながら生活はしているはずなのですが、特に自分を否定するようなものに関してはどうしても気になるものです。
けれど、その数だけ自分はまだいろいろと伸ばせる要素がある…と思えれば、これもまた自分の人生の糧となるのでしょう。
人生に対するしなやかさとともに、自分をしっかりと持つことを忘れないでいたいですね…。
ところで私へのお気遣い、ありがとうございます。
逆に忙しいからこそ、自分を表現したり、思索する時間というのは大切にできるもの…と最近は思っています。
更新の頻度は少し落ちるかもしれませんが、その分、これまでと違う自分が表現できれば…なんて思っています。
以前、CAFEで”今年は、皆さんとの魂の距離を縮めることができたらいいな、と思います。”というようなことをお話されていたと思いますが…こうしてしっかり実践されている銀鏡反応さんの心がけと行動力に感心しております。
ところで、最近ほんとに”格差”という言葉が飛び交うようになりましたね。
とはいえ、これは自分の生活の軸がぶれ始めている昨今、何かと比較する中で安心感を得る傾向の現れだと思っています。
ですから、銀鏡反応さんの言うとおり、”どんな境遇になったとしても、決して希望を失う事無く、格差という言葉を振りかざす世間の風潮に負けずに、常に明るく前向きに生きぬくこと”が大切だと私も思います。
そのための生命力…それはきっと他者との関係性から得られるものなのでしょうね。
その意味で、私自身、銀鏡反応さんの持ち合わせている感性に直接お話して触れる機会があればどんなに素敵かな…なんて思っています。
学問に対する誠実さと世界に向ける眼差しの熱さ…銀鏡反応さんのそういった資質に触れることは今の私を変える1つの転機になるような気がしています。
是非、今年はお会いできるといいですね。
YUMAさんのいうとおり、格差がある分、可能性があるということも言えるのかもしれませんね。
ただ、それは日本の精神土壌では難しいかな…と感じることもよくあります。
一時期、”一杯のかけそば”という話が流行りましたが、そのような相互扶助の考えに共感する精神性はあるように思いますが、ただ、自分の富を公共の福祉のために生かすというところまでには、根付いていないのではないでしょうか。
おそらくそこには宗教性もあるような気がします…。
また、日本国民のIT時代の寵児への憧憬などを見ていると、私財を増やすことに関心は集中しているようですからね…。
ただそれが生きる原動力となっている事実もありますし…確かに”格差”は難しい問題ではありますよね。