Naked Heart

その時々の関心事をざっくばらんに語ります

消えた町

2006年11月26日 23時28分25秒 | ヒロシマ
現在は「広島市中区中島町」となっている広島の平和公園ですが、
かつては6つの町からなる広島一の繁華街でした。
元々西国街道(山陽道)が、現在の本通商店街から元安橋を渡って
中島地区を横断していて、宿場町として栄えていました。
明治以降も、最初に市役所が置かれ(後に雑魚場町=現 国泰寺町
に移転)、南隣の水主町(現 加古町)には県庁もあって行政の中枢
となり、北側の広島城一帯が日清戦争時の大本営を経て一大軍事
施設となると軍人相手の商売も盛んになって繁盛していました。
路面電車の開通に伴い電車通り沿いが発展するようになり、大正
末期から昭和にかけて新天地や東新天地(現 流川・薬研掘)が開発
されると、中島町界隈の商業・娯楽地区としての地位は相対的に
低下しますが、それでも文化の中心・市内有数の繁華街として、戦時
下の経済統制を受けるまでは栄えていました。

相生橋が架かる北の端、原爆ドームの対岸が「中島本町」で「慈仙寺
鼻」とも呼ばれていました。
その南隣が、元安川沿いの「天神町」、本川沿いの「元柳町」、その
間に挟まれた「材木町」の3町でした。材木町の南が「木挽町」、元柳
町の南が「中島新町」で、両町と天神町の南組の一部の建物疎開区
域が、戦後「平和大通り」となりました。

この地域には被爆当時、約1300世帯・4400人ほどが暮らしていたと
みられていますが、ほぼ全域が爆心から500m以内で、一瞬にして
町は壊滅し、住民も、建物疎開作業に動員されていた人たちもほぼ
全滅しました。
その後、たまたま自宅を離れていたため生き残ったわずかな住民ら
が、400戸にのぼるバラックを建てて生活していましたが、戦後この
地区に「中島公園」として市民公園の建設が計画され、最終的には
平和公園が作られたため、旧住民は立ち退きを余儀なくされました。
家々も人も、町名も消え、今は「記念碑」だけが残っています。



中島本町の碑。犠牲者の名前が刻まれています。左奥に見える
のは平和観音です。



当時の町並みを再現した地図もあります。



天神町北組の碑です。国立平和祈念館建設に伴い、元々あった
場所から南へ移転させられています。
ドラマ「広島・昭和20年8月6日」の舞台もこの天神町です。



そして、材木町の碑。今回教えて頂くまで、気づきませんでした。
他の町の立派な碑との落差に、衝撃を受けました。

もう一つ今回教わったのですが、これらの碑は全て「○○町の跡」
という名前になっています。公園内には原爆慰霊碑以外の慰霊
碑は一切認めない、という市の方針による苦肉の策です。
中島本町の平和観音も、宗教的なものは認められないという市に
対して「これは芸術作品だ」と訴えてどうにか認めてもらったのだ
そうです。
韓国人慰霊碑の移設問題ばかりがクローズアップされがちです
が、「平和都市」の名に恥じる様々な問題が数多くあるようです。