我々が産まれ、そして生きているこの世界は、普通の言い方で言えば「順応」している。
しかしそれを如実に見れば、例えば前進しようとするという事は、逆進作用があるからこそ前進できるという事になる。
それは「前進しようとするエネルギー」が、「逆進させるエネルギー」によって「前進しようとするエネルギー」が生み出されることとなる。即ち「逆進しようとするエネルギー」が無い事には、「前進しようとするエネルギー」は出てこないことになる。
一方の見方をすると、「前進しようとするエネルギー」と「逆進しようとするエネルギー」は比例するが、「前進しようとするエネルギー」が大きくなるほど、「逆進しようとするエネルギー」は小さくなっていく。反比例していく。というのは、燃料が少なくなっていくからだ。
こうした比例と反比例が成り立つものだが、この矛盾性は「物質に順逆がある」と見ることが出来る。
「物質に順逆がある」という事は、普通の物質とは性質が異なる「反物質」か゛ある」という事になる。
この事が、先にも述べた「前進しようとするエネルギー」に対する「逆進させるエネルギー」の事なのかどうかは、科学者でも何でもないので知らない。
ただ物質や生物が、生成し成長していきながら、その反対に生育が止まり劣化し老化し崩壊していくのかという事からみると、この「反物質の威力」が働くのではないかと感じる。
この事を「精神、心」に当てはめてみると、次のようになる。
哲学では「物」と「精神、心」を別物ととらえる考え方がある。
だがこれを「物」のみとし、この「物」を、「普通の物質」と「反物質」とに分けて考えると、どうなるか。
「正義感、勇気」を「普通の物質の作用」と見なすと、「邪悪な行為」は「反物質の作用」と見なされる。
これはまた、「優しさ、愛情、慈愛、忍耐」などを普通の物質の作用と見なすならば、「怒り、報復、復讐心、嫉妬、虐待、いじめ、欲望」などは反物質の作用と見なされる。
我々には、こういう「普通の物質の作用」と「反物質の作用」を持つものを内部に潜め持っている。
これを仏教では「業」と、言う。
「業」とは、「良き行いをする因縁」と、「悪しき行いをする因縁」に分かれ、この事は「普通の物質の作用を持つか」という事と「反物質の作用を持つか」という事とに分かれ持つとも言えることになってくる。
そしてこの「普通の物質の作用」を高めていこうというのが、宗教の狙いだという事になってくる。