青い鳥の世界へ

人として厳しい中で生きていかなければならない中、少しでも良い世界になったら。そして、より明るく、清らかに、暖かく。

信仰心の源流

2012年05月20日 | 宗教観

信仰心、即ち宗教心を持とうとするならば、何よりも「今生きている」という事を見詰め、自覚しなければならない。
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我々は「息」をしている。何のために「息」をしている  ?

「息」をしているという事は、生きているという事である。

では「生きている」という事は、どうして生きているのか  ?

「生きている」という事は、「命」があり、持っているからである。

ではその「命」は、どうしたのか  ?。単に「ポツん」と出てきたものなのか。

我々が命を持って生きているのは、その「命」を父母から貰ったからである。
与えられ、戴き、授けられたのが、我々の生きている命である。

では父母はどうだったのかというと、父母も命をそれぞれの父母から貰い、与えられ授けられている。そしてその父母の父母もまた、その父母の父母から命を貰っている。

では最初の父母は、その命をどうして受けたかというと、それは「神や仏」からの授かりものと言わなければならなくなる。
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今は自分の立場になって「息」をしているのが何故なのかと逆登って行ったが、今度は反対に立ってみる事にする。
即ち「神や仏」の位置に立つのである。そして「神や仏」の位置に立ち、「神や仏」は何故に我々に「命」を与えたか、授けたのかおもんばかってみる。
それは「何のために、何をさせようとして、どのように生きて貰おう」としていたのかを、今の自分を離れた位置に立って見つめなければならない。

我々は何かと今の自分の位置や立場について、「言い訳、言い逃れ、責任逃れ」のような事を言う。それも自分の都合によって言い、且つ他を批判する。酷いのになると、それができなくなって「私は馬鹿ですので」といって、自分に命を与え授けた親や「神や仏」に責任があるように言って転嫁する。
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我々が「生きている」という事は、「神や仏」が何かの使命を与えて「命」を与え授けられたと自覚しなければならない。そう自覚する事によって、信仰心が始まり、宗教心が立ち上がって行く。

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