青い鳥の世界へ

人として厳しい中で生きていかなければならない中、少しでも良い世界になったら。そして、より明るく、清らかに、暖かく。

自由と不自由の理論

2008年06月09日 | 人生設計

「自由」という言葉が、やたらと使われる。「表現の自由、自由人権、自由主義」などや「自由と平等」が「自由」として使用されている。
この「自由」というものには、限界とか範囲とかが際限が無いような雰囲気がある。この為に「自由」は、「自由」という言葉とは裏腹に「不自由」な状態になっている。
一例を挙げると「お金」というものには、価値観があるはずである。しかしその価値観は、自由な際限がない価値観として思われている。その結果、無駄使いはするし、借金やサラ金に手を出すし、投機や儲け話に手を出して泣いたり、犯罪に手を染めたりするという不自由に見舞われる。
この事は「自由」に、限界があり限定された範囲があることに気が付かないからだといえる。
別な言い方をしよう。

私達が生きていくということは、空気がなければならない。水中であってもいけない。空中であってもいけない。食物がなければならない。熱いところであってもならず、寒冷地であってもならない。
こういう制約がある。
この制約からはみ出して生きるには、空気がない所や水中で生きるには酸素ボンベが必要だし、空中に浮かぶにはそのための動力が必要になるし、暑い所に生きるには冷房が、寒冷地に生きるには着込むとか暖房を必要とする。不自由を自由に変換するには、それなりの物を取り揃えなければならない。
この不自由を自由に変換するために、私達は「科学文明」を発展させてきた訳である。
だがそれで不自由が解消されたとは、いえない。解消されるどころか、むしろこの解消に必要な物資などの奪い合い、いわば「共食い」とも言える現象が起きて、更なる不自由を極めている。
即ち「争い」である。「格差」である。この解消のためにも、又不自由していかなければならない。自分の不都合を補おうとして自由になろうとしても、それが相対するものにとっては不都合であり不自由になっている。そして対立する。

自由を求め望みながら、かえってそれが不自由に陥る原因になっている。こうした悪循環から逃れるためには、釈尊の説かれた教えが適している。
もっとも私は釈尊の説法されたというものがどういうものだったか忘れてしまったが、その内容は覚えていて、こういうものであった。

「人の心は何処へでも行かれる。しかしある限界を超えようとする時、不平不満や不服不足らの思いを抱いたものになり、心の平安やゆとりを崩すものになる。
だが限界の限定を知ったものは、本当に自由に生きることになる。」

ここに「自由と不自由」の理論がある。
今日の私達は、豊かさと楽しさとを求める余りに今、物価高騰に原油高騰、食糧危機や地球温暖化危機に面している。自由を望み求めたのに、不都合な不自由に直面している・・・・・

コメント
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