末廬館の中に展示されている、古代末廬国の様子を表した想像模型図です。
魏志倭人伝にいう「末廬国」は、現在の佐賀県唐津市を中心とした地域ですが、この地域からは過去、豊富な副葬品を持った遺跡が多く発掘されており、それらの遺跡の年代変遷により、末廬国の都がそれぞれの遺跡を中心とした地区に移っていったと考えられています。
末盧国には、日本の稲作発祥の地、あるいは、日本農業の発祥の地とも言われる「菜畑遺跡」があり、既に縄文末期から水田を営んでいたことはよく知られているところです。
実際に舟で壱岐から渡ってきた印象で言えば、松浦半島突端の「呼子(よぶこ)」やその沿岸は、切り立った崖で、にわかには近づきがたいので、それよりももっと内海へ入ってきて、唐津や虹ノ松原あたりに上陸したほうが、はるかに楽だったのでしょう。
もっとも、1,2世紀頃の唐津の海岸がどういう地形だったのかは、まだまだ検証が必要だということです。
約2600年前の縄文時代晩期に、大陸から伝えられた稲作を、日本で初めて行っていたと思われるのが菜畑地区です。
以前も書きましたが、遺跡からは、炭化した米や、稲穂をつみ取る石包丁、木のクワなどとともに水田跡も発見されています。
また、家畜として飼育されていた豚もはじめて確認され、現段階では、菜畑は、「日本農業の原点」と云われています。
今回、末廬館に初めて訪れて、多くのことを学ばせて頂きました。
このシリーズ・・・半月ほどのお付き合い、どうもありがとうございました。
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