星を数えながら

日々の出来事や感じたこと、聖書の言葉など
小さくても星のようにキラリ☆光ることを
分かち合えればいいなぁ。

マイケル・J・フォックス③

2009年03月07日 08時56分38秒 | 友だち・人物のこと
「この病気のおかげで、
  ぼくはいまのような自分になれたのだ。
 だから自分のことを
  幸運な男(ラッキーマン)だと思うのだ」

著書「ラッキーマン」の由来はそこからだろう。
30歳で若年性パーキンソン病と診断されたマイケル。



You tubeにBSで放送されたであろう彼の様子が
あったので見ることができた。
奥さんやお子さんも登場していた。良い番組だ。

「本当に大切なものを
  ぼくは病気で手に入れた」と言うマイケル。


河野進牧師の「病まなければ」という詩を思い出した。
 

 「病まなければ 捧げ得ない祈りがある
  
  病まなければ 信じ得ない奇跡がある
  
  病まなければ 聴き得ない御言がある
  
  病まなければ 近づき得ない聖所がある
  
  病まなければ 仰ぎ得ない聖顔がある
  
  おお病まなければ私は 人間でさえもあり得なかった」

マイケル・J・フォックス②

2009年03月06日 08時35分33秒 | 友だち・人物のこと
マイケルは、若年性パーキンソン病と診断された。
その時、医師は医師なりの明るい見通しとして、
「適切な治療をすれば、
 まだたっぷり10年は仕事ができますよ」
と言われたそうだ。
まだ30歳のマイケルに、「あと10年」という宣告。

病気を「同意する」のと「受容する」との間に、
遠くて長い道のりがあることをマイケルは記している。

病気を隠すために、仕事場で孤独な格闘をしたり、
家族と一緒に食事をすることより、浴室にこもっていたり、
アルコールでストレスを紛らわせたり・・・。

ある時、やっとカウンセラーのもとに訪れることになる。
そのカウンセラーは、マイケルを判断したり、
批判したり、教義を押しつけたりはしなかった。

そして以下のように告白するに至っている。
「ぼくにとっての第一歩は、ようやく、
 パーキンソン病だという診断を認め、
 病気に乗っ取られるのではなく、
 自分が病気を所有することだった」

そして彼はお酒を飲むことをやめた。
パーキンソン病のことはどうすることも出来ないけれど、
アルコールをやめるという選択はすることが出来るのだからと。



出来ることと出来ないこと、
受容していくことと積極的に選択していくこと、
そういうことをマイケルは考え始めていたのだろう。
不自由な体になったことによって、
本当に大切なことを選びとる自由を発見したのだろう。

彼が自分も周りの人をも苦しめるお酒をやめてから、
ほとんど毎日のように、あのニーバーの祈りを神に捧げてきたようだ。
そして今まで過小評価していた祈りの力を知ったそうだ。
この祈りは、私にとっても大切な祈りだ。

 「神様、変えることのできるものについて、
  それを変えるだけの勇気を 与えて下さい。

  変えることのできないものについては、
  それを受けいれるだけの心の静けさを与えて下さい。

  そして、変えることのできるものと、
  変えることのできないものとを、
  識別する知恵を与えて下さい」
             ラインホールド・ニーバー

マイケル・J・フォックス①

2009年03月05日 08時13分06秒 | 友だち・人物のこと
中学生ぐらいの夏休みだったと思う。
お昼のテレビ番組で、私は「笑っていいとも」を見たかったのだが、
弟たちは「奥様は魔女」のような「笑い声」のある
アメリカのコメディドラマにチャンネルを合わせた。
ケラケラ笑う弟たちだったが、私は「いいとも」の方が面白いと思った。

高校生の時、「バック・トゥ・ザ・フューチャーⅡ」を見に行った。
その時、主役のマイケル・J・フォックスこそが、
あのお昼のコメディドラマに出ていた人だと分かった。
「ファミリー・タイズ」という名前のコメディだそうだ。

マイケル・J・フォックスのファンというわけでもなかったが、
背が低いという共通点を見出し、どこか親近感を持っていた。
欧米社会の中で、私とほぼ同じ身長なので、体感はさらに上だろう。

彼は少年時代を振り返ってこう言っている。
「へんなこととかおもしろいことならなんでもきたが、
 もっと大きくなることはできなかった」
よ~く分かる(笑)

彼が若年性パーキンソン病という難病を患っていることを、
ニュースで知った時、少々驚いたのを覚えている。
パーキンソン病という名前を初めて聞いた時だったのだろう。

その後、彼がどのような人生を歩んでいるのか知らなかった。
ただ尊敬する三浦綾子さんも晩年にパーキンソン病を患われていたので、
パーキンソン病の名前が出るたびに、2人のことを思い出していた。



そしてつい前日、ブックオフで彼の自叙伝を見つけたのだ。
105円という価格だからこそ、購入をした。
私の敬愛する身近な方もパーキンソン病を患われているということもあり、
この本を読みながら、床に就いていた。

この本の初め、8ページにこんなふうなことが載っていた。
もし誰かがやってきて、病気になった10年間を帳消しにし、
病気にならなかった10年間と取り替えてあげようと言ったなら、
 「僕は一瞬の躊躇もなくこう言うだろう、
  『出ていってくれ』と」
と記されていた。

30歳で若年性パーキンソン病を患ったマイケル。
私はその夜、寝不足を覚悟で
かなりのページを読み進めたのだった。

忘れてた!

2009年03月04日 08時50分39秒 | 驚いたこと
私は出来るだけ、日曜日と月曜日の週に2日、
自分のパソコンの電源を入れないようしている。
パソコンに向かって何かをしている時間があまりにも多く、
(もちろんパソコンでないと出来ない用事がほとんどなので)
どこかで自覚的に、パソコンoffの日を設けないと
何かが鈍感になっていくような気がしている。

しかし日曜日の朝、その日印刷する資料をプリントアウトするため、
自分のパソコンの電源を入れ、用事を済ませた。
その日は時間に余裕があったので、
自分のblogを開いてみると、以下のようなコメントがった。

 「なると先生・・・ぷぷぷ。
  なんとも微笑ましいですわ。^^
  明日は御影でお会い出来ますかね??」

その瞬間、思いだしたのだった。
その日(日曜)の夜、スプリングキャンプの決起祈祷会があることを。
すっかり忘れてた・・・。

我ながらびっくりするほどの忘れようだった。
頭の片隅にはあったはずなのだが・・・。
その日の予定をその日になるまで忘れていたなんて。
そんな自分に自分自身がとっても驚いたのだった。



次のキャンプは、私は関東に行くので参加することが出来ず、
私の担当奉仕は、広報のパンフレット作成なのでもう終わっている。
決起祈祷会での奉仕も何もなかった。
きっとそういうことで抜けてしまっていたのだろう。

MIYUKIさん、っということで、コメントをありがとうございました!
とっても、とっても助かりました。助けられました。
「青少年委員の教職なのに、青少年の行事を忘れるなんて」
と失望をさせたかもしれません(笑)

ながさわ先生の「土の器を選ばれた」というメッセージに、
大いに励まされ、慰められ、当日の祈祷会でしっかり悔い改め、
キャンプの祝福を祈りました。

そろそろ脳の硬化現象が始まっている???

初・徳島

2009年03月03日 10時00分41秒 | 妻とのこと
先週、出かけてきた淡路島-徳島への小旅行。
blogで何回にも分けて連載しているが、
日曜日の夜から月曜日にかけてのまさに小旅行。
今回の旅の目的でもある徳島に初めて訪れた。

私は気づかなかったのだが、
今まで四国に行ったことがなかったのだった。
厳密に言うと、小6の頃、淡路島でキャンプをした帰りに、
開通したばかりの大鳴門橋を渡って徳島へ行き、
すぐに淡路島へ引き返したことがある。2分もいなかっただろう。
っということで、今回が初・四国、初・徳島だ!

神学校の先輩でもあり(あまり先輩扱いをしていないが・笑)、
夫婦共に仲良くしてもらっているI師夫妻に会ってきた。
近いようで遠いような大阪-徳島間。
会えそうでなかなか会えなかったのだが、
今回は思いきって訪れることができた。

I師夫妻の車に先導されながら着いたのは、
「びんび家」という大きな看板のあるお店。
ここでちょっと遅い昼御飯を御馳走になった!



瀬戸内海で獲れる新鮮な魚介類を豪快に料理してくれるお店で、
大阪ではちょっと食べられない(高くて?)御馳走を、
たくさんたくさん頂いた!

2時ぐらいの遅い昼御飯になると予想していたので、
ホテルの朝食バイキングを「これでもか」というぐらい食べていた(笑)
小腹がすいたかなぁという程度の空腹感だったのだが、
あまりの美味しさに、たくさんの量だったが全部たいらげた。

私は、あまり「美味しい、美味しい」と言わない方なので、
御馳走しがいのない者でI師夫妻には申し訳なかったけれど、
まさにお腹の中は、大満足だった。

「びんび屋」の「びんび」って何だろうと調べてみると、
徳島の田舎の方言で「魚」のことをさすそうだ。

その後、蓮根畑の真ん中を通る徳島の田舎道を通って、
I師夫妻の仕えておられる教会に到着した。
大きくなったお子さんとも会話を交わし、
お互いのために祈り合うことができて、
とっても良いひと時だった。
良き友がいるって、感謝なことだなぁとつくづく思う。

私にとっての初・徳島。
強く残った印象は、「びんび家」と蓮根畑だった!