「自分の罪をぬぐい去っていただくために、
悔い改めて本心に立ちかえりなさい」使徒3:19
「自分を責める」という言葉を時々耳にします。
「人を裁いてしまう、そんな自分を責める」とか、
「どうしてあんなことを言ってしまったのか」とか、
「自己嫌悪に陥る」とか。
他人を責めてばかりいる人よりも、
自分を責める人は、謙虚でへりくだった人のように思えます。
でも、そう見えるだけで、実際はそうではありません。
罪だと分かった時は、「ごめんなさい」と言うのです。
人に向かって謝り、神様に向かって悔い改めるのです。
それができなくて、「自分を責める」という言葉で、
自分を誤魔化し、お茶を濁してしまうのでしょう。
自責の念の最たる人物は、イスカリオテのユダでした。
ユダの罪は、主イエスを裏切ったという罪よりも、
自分を責め続けて、責め続けて、滅びの道に向かったことです。
自責の念を抱えながらも、主イエスのもとに行く時、
きっと主は、ユダを迎え入れ、受け入れて下さったはずでしょう。
どんなに自分を責めても、罪責感からは逃れられません。
自分を責める人は、きっと心のどこかで人を責め、
環境を責め、境遇や運命を責めているところがあるでしょう。
環境や境遇を責める心は、神を責める心につながっていくでしょう。
罪を責める時、「罪のスパイラル状態」にはまっています。
罪を赦すと言って下さる十字架の主イエスのもとに行き、
「主よ、赦して下さい。ごめんなさい」と言えた時、
「この罪の縄目から解放して下さい」と言えた時、
私たちは罪のスパイラル状態から、抜け出せるのでしょう。
十字架の主イエスのもとに行く時、
「もう自分を責めなくてもいい。
あなたの責めは全部私が負ったのだから」と、
赦しの言葉を聞くことができるのです。
罪の本質は、犯罪や道徳的な悪ということではなくて、
神から離れている状態、神からずれている様、それが罪なのです。
本心に立ち返って、神のもとに行く、
これが罪のスパイラル状態から抜け出せる唯一の道なのです。
悔い改めて本心に立ちかえりなさい」使徒3:19
「自分を責める」という言葉を時々耳にします。
「人を裁いてしまう、そんな自分を責める」とか、
「どうしてあんなことを言ってしまったのか」とか、
「自己嫌悪に陥る」とか。
他人を責めてばかりいる人よりも、
自分を責める人は、謙虚でへりくだった人のように思えます。
でも、そう見えるだけで、実際はそうではありません。
罪だと分かった時は、「ごめんなさい」と言うのです。
人に向かって謝り、神様に向かって悔い改めるのです。
それができなくて、「自分を責める」という言葉で、
自分を誤魔化し、お茶を濁してしまうのでしょう。
自責の念の最たる人物は、イスカリオテのユダでした。
ユダの罪は、主イエスを裏切ったという罪よりも、
自分を責め続けて、責め続けて、滅びの道に向かったことです。
自責の念を抱えながらも、主イエスのもとに行く時、
きっと主は、ユダを迎え入れ、受け入れて下さったはずでしょう。
どんなに自分を責めても、罪責感からは逃れられません。
自分を責める人は、きっと心のどこかで人を責め、
環境を責め、境遇や運命を責めているところがあるでしょう。
環境や境遇を責める心は、神を責める心につながっていくでしょう。
罪を責める時、「罪のスパイラル状態」にはまっています。
罪を赦すと言って下さる十字架の主イエスのもとに行き、
「主よ、赦して下さい。ごめんなさい」と言えた時、
「この罪の縄目から解放して下さい」と言えた時、
私たちは罪のスパイラル状態から、抜け出せるのでしょう。
十字架の主イエスのもとに行く時、
「もう自分を責めなくてもいい。
あなたの責めは全部私が負ったのだから」と、
赦しの言葉を聞くことができるのです。
罪の本質は、犯罪や道徳的な悪ということではなくて、
神から離れている状態、神からずれている様、それが罪なのです。
本心に立ち返って、神のもとに行く、
これが罪のスパイラル状態から抜け出せる唯一の道なのです。